底からあがったわたし達を待っていたのは射す朝陽できらきらと光る水面でした。上から下までびしょぬれになったわたしとセシルさんをコバルトブルーに戻った水が浮かんだままの林檎と一緒につついてくる以外、入り口を塞いでいた真っ赤な糸もなにもかもが魔法のように消えてしまっていて、目の前の全ての光景が信じられませんでした。セシルさんのお陰でなんとか足がつく底も、薬の匂いしかしないことも、後から来ると言っていたのにどんなに待っても浮かび上がってこない名前ちゃんのことも、悲しい予想がわたしの頭にまとわりついて思わずわたしはセシルさんにしがみつきました。震える体をセシルさんがしっかり抱き締めてくださるのですが効果はなく、浮かんでいた3つの林檎を胸に抱いてプールから出ても、わたしはひとつも口をきけませんでした。
階段の手すりに巻き付いていた赤い糸も一本も残っていません。まるで名前ちゃんが赤い糸ごとこの世界から抜け落ちてしまったような、そんな気がしました。
本当は着替えたくなかったのですが風邪をひくわけにはいかないので仕方なく部屋に戻り、ぐっしょり濡れたものから制服に着替えてわたしたちは重い足取りでレコーディングルームへ向かいました。
ドアノブを捻り、中に入るとベッドでお姫様のように眠ったままの日向先生が見え、ブースには皆さんがもう揃っていて静かに練習なさっています。指揮を取っていた一ノ瀬さんが一番始めにわたしに気づいて、一十木くん達を引き連れてわたし達の元に集まってきます。
皆さんは柔和な表情でわたし達を歓迎してくれました。
「よォ七海!!」
「ハルちゃんおはようございます」
「皆さん・・・。」
「聞いてよ七海―さっきからマサの調子が悪くてさー」
「すまない、寝不足でな」
「じいさんみたいな時間に寝るやつが珍しい」
「黙れ神宮寺」
いつもどおりの皆さんです。明るくて笑顔の絶えない皆さんです。でも何でしょうか、激しい違和感がわたしの背中にのしかかってきます。隣にいるセシルさんを窺うとセシルさんもぽかんと口を開けていました。
わたしとセシルさんを除いた皆さんは軽口を叩きながら会話を続けていて、ごく自然に始まった日常風景にわたしは靴のままおずおずと乗り込みました。
「名前ちゃんについて何にも聞かないのですか・・・?」
名前ちゃんがいないのに、どうしてそんなにいつもどおりでいられるのか全く理解出来ません。もしかしたら皆さんは名前ちゃんがサタンに洗脳されてしまったことを知らないのでしょうか。
集団より少し前にいた翔くんは大きな目をぱちぱちと瞬かせました。
「名前?」
そんなやついたか?その時、わたしの頭は真っ白になりました。皆さんはわたしの顔を見て首を捻るばかりでそれ以上は何も追求してきません。魔法のように消えてしまった赤い糸や名前ちゃんのことが断片的に現れて、わたしが引っ張り出して説明しようとすればまた沈んでしまって、不甲斐なさに熱くなっていく涙袋から涙が溢れ出してきました。それを見て初めて皆さんが動揺し、わたしを取り囲みます。
「泣いた!?」
「翔!!」
「俺何もしてねーから!!どどどどうしたんだよ七海ー」
「ハルちゃんハンカチですよ」
「泣いてるレディも可愛いけど・・・ほらおかっぱだよご覧レディ」
「神宮寺」
違うんです。翔くんのせいじゃないんです。と思っていても声には出せず、わたしはしばらくそのまま泣いていました。セシルさんがずっとわたしの手を握り、傍にいました。
わたしの泣いた理由が皆さんには公表されないまま最後の収録は始まりました。ミューズの唄の楽譜が完全に揃ったので、皆さんの演奏にセシルさんの歌声をのせて音源にするのです。
これは主にスピーカーからかけるのに使用します。もしかしたら林檎先生などに効果がある可能性があるからです。
その作業が終わってソファーで少し呆けていると聖川様が私の隣に座り、テーブルの上にあったポケモンパンをわたしに勧めました。苺の蒸しパンで、パッケージにはポケモンが描かれています。名前ちゃんの主な朝食でした。
わたしはそれを開けてひとくち頬張り飲み込んでから聖川様に声をかけました。
「聖川様」
「何だ?」
「お身体の調子は?」
聖川様の目の下には薄く隈が出来ています。そこを指摘すると聖川様は緩く瞳を細めてわたしを見ました。
「お前こそどうなんだ?」
「わたしはとっても元気です」
「何か悲しいことでもあったのか?」
「・・・・・・。」
ブース内でセシルさんは熱心に歌声の調整をしています。
それを見つめながらわたしは無理矢理笑いました。
「悲しい夢を見たんです。皆さんが、忘れ物をする夢」
「面白いやつだな」
くすくすと聖川様も笑っていらっしゃいました。
「俺達が忘れ物をしてしまうのが悲しいだなんて」
いいえ、とても悲しいことです。忘れ物をしてしまったことすら忘れている。それがどんなに大切なものであっても忘れた本人には全く分からない。合成された苺の匂いは聖川様まで届きません。
わたしはパンの袋に這わした指をくしゃりと丸めました。
「聖川様は、大切な人はいますか?」
わたしの質問に聖川様はすぐに頷きました。
「妹が」
「それなら、妹さんを今までの二倍大切にしてあげてくださいね」
わたしがそう言うと聖川様は不思議そうな顔でああ、と言ってまたわたしの横顔を見つめていました。聖川様は他人に気を使うことの出来るとてもやさしい御方です。彼のやさしさにわたしも何度も助けられています。
ピアノを弾くのが怖くなったときだって、聖川様が手を貸してくれなければわたしはもうこの学園にいなかったかもしれません。聖川様には恩があります。
テーブルの上に、ポケモンパンと綺麗な炭酸水が置かれています。その炭酸水を聖川様は掴み、蓋をあけて紙コップに注ぎました。桃色の飴玉を溶かしたような丸い球体を淡い紫色の液体が包み一緒に底へ落ちていきます。並々と注がれたそれがわたしの前に置かれました。ゆるくさくらんぼの香りがしました。
「・・・何で朝まで起きていらっしゃったのですか?」
炭酸水に手をつけないまま、わたしが聞くと聖川様はまずペットボトルの蓋をしっかりしめました。
「・・・恐らく何かを待っていたような気がするが、それが何かは全く思い出せないんだ」
そして些細なことであると言わんばかりに微笑します。
「まあ思い出す必要もない程、しょうもないことだったのかもしれないな」
そんなことありません、とは言えませんでした。名前ちゃんなら何と答えるのだろうと考えても答えは出てきません。
聖川様に恩があるのに、今のわたしは聖川様に何も返すことが出来ませんでした。
「七海?」
「大丈夫です」
わたしの名字を呼んだ聖川様に何とか笑うことしか出来ず、食べかけのパンを口に押しつけて涙も無力感も全部全部噛み砕きました。
わたしがポケモンパンを食べ終わった頃にセシルさんはブースから出てきました。真っ直ぐわたしの傍にやってきて頬に軽いキスをした後、わたしの手を取ります。いつもならドキドキするはずの彼のキスは私のなかでリサイクルされるペットボトルのように処理されました。
自分の大切な感情がゆっくりと削り取られていく、今までは耐えていられたことがたった一人、名前ちゃんがいなくなったことで均等を崩してしまいます。何故あの時もっと抵抗しなかったのか。何故無理矢理にでも彼女の手首を掴まなかったのか。考えるだけで黒くて重い泡がわたしの頭を埋め尽くしていきます。
また泣きそうになった時に、セシルさんがわたしの手を強く引っ張りました。
「春歌」
真っ黒な涙で胸を満たしながらわたしはセシルさんと目を合わせます。
わたしの指に暖かい指が強く絡まりました。
「名前、海に行こうって言ってた」
泡が、軽やかな音をたてて割れました。空いた隙間で手を振る名前ちゃんの笑顔が甦ります。夏休みはもう少し残っていて、サタンを封印して友ちゃんも帰ってくれば、名前ちゃんだってこの世界に戻ってくるかもしれません。
一抹の希望に、挫けそうになっていたわたしは太ももに力を込めて、ソファーから立ち上がりました。絡まった指の向こうでセシルさんは暖かい表情でずっとわたしを見守ってくれています。
それだけで弱虫であるはずのわたしがもう怖いものは何もないとさえ、思えました。
「皆さん」
わたしとセシルさんの周囲にいる皆さんと眠る日向先生を見渡した後、わたしははっきりと宣言しました。
「明日サタンを封印します」
どのようにサタンを封印するのか。今日収録した音源を危険は承知ですが皆さんには放送室に行ってもらい校内放送で学園全体に流して頂きます、わたしとセシルさんは学園長のいる部屋に向かい正面から対峙します。
どんな敵や困難が待っているかはわかりません。でも時間は待ってくれないしいつまでも落ち込んでいるわけにもいきません。短い夏休みを取り戻さなければわたし達に未来はありません。何とか言葉を紡ぐわたしの手をセシルさんはずっと黙ったまま握っていました。
皆さんはわたしの突然のお願いにも関わらず承諾してくださりました。
名前ちゃんや日向先生が起きなくても、そこにある信頼だけは唯一切れませんでした。
サタン封印に向けて沸き上がる翔くんや一十木くんに久しぶりにわたしも心から笑えて、
「サタンを封印したら、皆さんで海に行きましょう」
明るい話題を皆さんに提供することが出来ました。
外の話に四ノ宮さんが顔を綻ばせます。
「海ですかあ、いいですね!僕お気に入りの水着さんがあるんです!!」
「まさかお前アレ着るつもりで・・・?」
四ノ宮さんはにこにことしたまま手を合わせました。
「はい!!翔ちゃんも一緒に・・・。」
「やめろ恥晒し!」
皆さんとそんな海の話をした後、わたしは一十木くんと聖川様からそれぞれロザリオと数珠を託されました。それを見ていた一ノ瀬さんが掌の上の余ったスペースにのど飴をたくさん置いてくださり、神宮寺さんはわたしのおでこにキスをしようとしてセシルさんに結界を張られていました。
四ノ宮さんがくれた妖気を放つお菓子と、翔くんのアクセサリーを加えていっぱいになった両手の中を落とさないように気をつけながらレコーディングルームを出て、ゆっくり階段をおります。何度も振り返ってセシルさんはわたしの足元を確認しています。
「・・・セシルさん」
「ハイ、何でしょう」
「サタンを絶対封印して、名前ちゃんと海に行きましょうね」
下の方から広がっている日射しで今日のこの場所はぽかぽかとしています。暖かい陽気と約束に意気込むわたしにセシルさんはいつものように頷いて、わたしの一段先をおりました。
「春歌、ワタシ食べたいものあります」
「なんでしょう?」
「ウミノイエ?で主に見かけるもので、白く細やかで柔らかいものの先端に甘い液体をかけてすぐに濡れてしまうそれをいやらしい目でねめつけながら口に含むという・・・冷たくて、甘いと何故かその時だけ名前はワタシに素敵な笑顔で教えてくれました。一度食べてみたいです」
「た、多分それはかき氷です・・・。」
「かき氷!」
わたしの横でほくほくとしているセシルさんは日本の文化についてまだあまり知らないのです。セシルさんには何の罪もありません。むしろセシルさんは被害者です。
ああ名前ちゃん・・・。あなたは酷い女の子です・・・。