「名前ちゃん・・・?」
いつのまにか天井に手を伸ばしていました。不思議な気持ちになり、わたしはゆっくり指を丸めたり開いたりしてみましたが何のへんてつもない空気はわたしの指の間をすり抜けてしまいます。夢のなかで名前ちゃんと手を繋いでいたような気がしたのですが間違いだったのでしょうか。
ベッドに寝かしていた体を起こし、下に落ちていた服を一枚一枚拾い身に付けました。横に置いてある時計の針は4時44分を指して固まっています。電池が切れてしまったのでしょうか?
眠りにつく前はとても素敵な夜でしたのに、今は不気味な夜明け前です。窓の内側も外側も真っ暗。
時計を両手に持ったまま、無性に名前ちゃんに会いたいと思いました。この時間に起きているわけはありませんが名前ちゃんの寝顔でも何でもいいので安全の確認を。
いつも名前ちゃんには心配ばかりさせてしまっていたのでたまにはわたしから。
わたしがこそこそとレコーディングルームに向かおうとしている間に起床してしまったらしいセシルさんが後ろからわたしをぎゅうと抱き締めました。びっくりして躓いたわたしはセシルさんと一緒に床に倒れこみます。暖かい背中方面に苦笑すると、セシルさんの緑色の瞳が蕩けました。
名前ちゃん達にはまだ言っていませんが、セシルさんにかけられた呪いは完全に解けました。伝わらない言葉の代わりに、一十木くん達の演奏によるアグナの譜面を聴きながらクップルと一緒に歌っていたらクップルを緑色の光の五線譜が囲んで、クップルはセシルさんに戻りました。
セシルさんの呪いを解くには真実の愛と、音楽が必要だったのです。
歌の楽譜も、セシルさんが持っていました。これでサタンを封印するための術は全て揃ったのです。
どこに行くのと聞いてくるセシルさんに名前ちゃんのところと答えるとワタシも行くと彼は言いました。それを拒否出来る程わたしは鬼さんになれません。部屋を出る前にセシルさんとわたしはしっかり手を繋ぎました。たかだかレコーディングルームに行くだけなのに、それだけなのにセシルさんが隣にいたらどうしても手を繋ぎたくなったのです。名前ちゃんが見たら笑うかもしれません。わたしとセシルさんはすでに笑っています。
ドアを出たらやっぱり。どこもかしこも瑠璃色で覆われていてわたしとセシルさんは一歩一歩を大事にしながら階段を降りていきました。秋の夜のように、窓のなかでくるくると回っている薄い三日月がわたし達の足元をわずかに照らしています。セシルさんと一緒なのに、とても寂しい夜明け前です。
そんなことを思いながらゆっくり歩いていたのですが、急にセシルさんは立ち止まってある箇所を見たまま動かなくなりました。
「・・・春歌」
「なんでしょう」
「不吉な匂いがします」
セシルさんの目線の先には、真っ赤な糸が階段の手すりのあちこちに巻き付いていました。昨日はなかったのに。
真っ赤な糸に導かれるようにわたし達が進むにつれて赤い糸を見かける回数が増えていき、途中二宮金次郎像が糸に絡まって襲いかかってこれない様子を眺めながら女子寮を越えてもまだ続いているそれを辿って着いた場所はプールでした。
ただその、プールの入口を蜘蛛の巣のように赤い糸が網を張っていてまるでこれ以上は来ないでと言われているような気分になりました。
この時にはもう、わたし達は薄々感じていた予感を確固たるものにしていたのでしょう。
無言でセシルさんはそれに手をかざします。蛍のような光にぶちぶちと太く赤い網は切り離されてゆき、出来た隙間からわたし達は侵入しました。
そうしてすぐに甘い、さくらんぼの匂いがわたしの鼻をくすぐりました。
常識はずれの景色が、わたしとセシルさんの前に現れます。
まるで誰かが落ちたみたいにプール内の水はゆっくり波打っていて、通常と違って淡いピンクと紫の混ざった色の水の上には林檎が3つ、ぷかぷかと浮いたり沈んだりを繰り返していました。
「セシルさん」
名前ちゃんは、林檎が好きです。アップルパイはあまり好きではないようでしたがよく丸くて赤い林檎を部屋に用意していました。
「名前ちゃんはレコーディングルームにいません」
どのような経緯でこんなことになってしまったのかは不明ですが名前ちゃんはきっとこのプールの底にいるのでしょう。そしてこの世界も彼女が演出している。
セシルさんは浮かぶ林檎をちらりと見た後、首を振りました。
「My princess、悲しまないで聞いて」
翠色の目に淡月の微かな光が散りばめられていて。
「名前はもう駄目です」
「元々彼女は規格外。レンも、言っていましたが何よりも一番に気を付けなくてはいけないのは名前でした」
神宮寺さんは一度プールでぼんやりとしている名前ちゃんを見かけたことがあるそうです。
その時の様子が尋常でなかったのをわたしとセシルさんは彼から直接聞いていました。
「不安定な所があったけど、名前は強かったから大丈夫だと」
そうです。日向先生にもお願いしていましたが名前ちゃんはわたしから見たら何にも心配することのない強い子で。楽譜も集まってこのまま何事もなくサタンを封印出来ると思っていました。
でも現実、実際問題名前ちゃんはプールに落ちてしまって。
「ここに飛び込んでいったとして、ワタシに勝ち目はありません」
名前ちゃんは強い子です。セシルさんは一回勘違いした名前ちゃんに額を突かれています。
翔くんの時だって、日向先生がいなければ私達は負けていました。サタンの呪いは人を経るにつれて強靭なものになっていくのです。元々強かった名前ちゃんにサタンの洗脳が加わってしまったとなれば、わたし達に希望はほぼありません。
「・・・このまま、サタンを封印することは?」
楽譜はもう完成しています。わたしとセシルさんはお互いの顔ではなく林檎を見ていました。
「生演奏が出来れば、問題ありません」
「名前ちゃんは?」
「もしもそうなればサタンの呪いと一緒に消滅します」
「名前ちゃんごと?」
「Yes」
「どうして」
「今までこんなことはなかった」
規格外。楽譜も魔法も使えない名前ちゃんがここまで正気を保てていた理由は、名前ちゃんのなかにサタンの洗脳を凌駕する何かがあったからだとセシルさんは言います。でもそれは名前ちゃんを守るものでもあり逆に名前ちゃんを貶めるものでもありました。
絶対の安全を保証された女子寮から飛び出し、隙の生じたそれをサタンは見逃さなかった。
「・・・彼女の力は校内のありとあらゆる箇所にまで展開されています」
あの赤い糸こそ名前ちゃんの力を象徴するものなのでしょう。彼女に近づくにつれて強く太く結ばれていく糸。
「サタンの呪いがそれだけ強いということ。心だけではなく、身体も汚染されている。完全な浄化は、きっと出来ません」
聖川様の時と同じです。強すぎる呪いは、隙をついて何とか本人が正気に戻ってくれない限り一回では浄化出来ない。
わたし達は、この中に入っていって、名前ちゃんの隙を作ることが出来るのでしょうか?そして何発も浄化魔法を打つことが出来るのでしょうか?
多大なリスクを負うよりも名前ちゃんを無視した方が効率的です。
「でも、名前ちゃんは私のお友達なんです」
とても強くて、ちょっと不思議なところもあるけど名前ちゃんはわたしの大事なお友達です!
「楽譜は揃っているから、確かに名前ちゃんを助けに行くメリットはありません」
「だからといってここで友達を見殺しには出来ません!」
林檎を眺めるのをやめて、セシルさんの手から指を離しました。
わたしを誘うように、プールの中身が小さく飛沫をあげます。
「・・・セシルさんは皆さんと一緒にいてください」
セシルさんを連れていくわけにはいきません。これはわたしのワガママなのですから。わたしのワガママで世界から音楽が消えてしまうのは、あってはいけないことです。
「ここまで二人で来れて、よか」
「アナタは私の魂の恋人」
わたしが最後まで伝える前にセシルさんは強くわたしの手を握り締めました。
顔をあげたらやっぱり、甘い笑顔をわたしに向けています。
「アナタが行くならばどこまでも一緒に」
「セシルさん・・・。」
絡めた指が絆となり、わたしのちっぽけな勇気を後押しします。
波立つプールを見下ろしてわたしとセシルさんは目を閉じて女神様にお祈りをしてから、弱々しい笑みを作りました。
「名前ちゃんがHAYATO様のポスターを持っていたらどうしましょう」
「持っていないことをミューズに祈っておきました」
Aクラスのなかで二番目に強い女の子を迎えに、わたしとセシルさんは一歩踏み出しました。