力の入っていない日向先生の指先が揺れている。彼の手首は来栖が握っており、先程からずっと私達に背を向けて日向先生の手を動かないおもちゃに見立ててつつきまわす子供のようだ。軟体動物達はそんな彼に声をかけるかどうか迷っている様子で来栖を見ている。来栖は日向先生に憧れてこの学園にやってきて、その憧れの対象が自分のせいで死んでしまうかもしれないと苦しんでいるのを軟体動物達は察っしているのである。


全く、妙に繊細な生物だ。本を閉じて、ソファーから立ち上がり私はHAYATOのポスターを手に取った。


来栖の背後に立つ。気づかれないよう静かにHAYATOのポスターをバットのように握り直して、彼の尻にフルスイングした。
来栖が絶叫しながら飛び上がる。ホームランとまではいかなかったが尻を押さえて彼は私に文句を言った。文句を聞き流し彼の鼻にHAYATOのポスターの先を突き付ける。


「時間がないの」


私がそう言えば来栖の表情が変わる。
いつもは明るいヤツなだけに同情するのも否めない。でも。


「次の発作が起きたら世界から音楽が消える前に先生が御陀仏する」

「うじうじする暇があるなら早くブースに入りなさい」


きつい言い方をしているのは自分がよく分かっている。でも今、サタンを封印し日向先生を助けるにはこれしか方法がないのだ。医者ではない、まぎれもない彼らにしか出来ないことである。
セシル事件からずっと本来の目的とかけ離れた使用方法で酷使され続けたHAYATOのポスターがついに半分に折れてしまった直後、歯を食いしばっていた来栖は無言で帽子を深く被り直した。


「・・・クソッ」


来栖が顔をあげて前を見る。そして私の手からHAYATOのポスターを奪い取り、我が頭に振り落とした。
一十木が悲鳴をあげる。地味に痛いこともあり、頭を押さえている私を鼻で笑って来栖は神宮寺の元に向かった。
そして神宮寺からヴァイオリンと楽譜を受けとり、胸を張った。


「こんなもの、二時間で物にしてやらァ!!」


いつもの来栖だ。


「・・・ふーん」


痛みも引いてきたので私も顔をあげ、ひそかに片手に握っていたものを来栖が見えるように掲げつつ軽く笑った。


「今の発言録音しておいたから」

「えっ」

「もし二時間でものに出来なかったら」

「はーい」


神宮寺が手を挙げる。


「何?」

「おチビちゃんに竹馬で購買まで行ってもらうってのはどうだい?」

「何だよそれ!!てか俺がまたサタンに洗脳されたらどーすんだよ!」

「翔には確か双子の弟がいましたね」

「へー!じゃあその子にやってもらったらいいよ!!」


集中攻撃にあった来栖は怒りに震え、その場で兎のように飛び跳ねている。


「ふざけんな!!だー!早く練習すっぞ!!ブースに入れ馬鹿!!!」

「やだーこわーい」

「竹馬なら名前ちゃんが持ってましたねえそういえば」

「来栖、いざとなれば苗字に貸してもらうといい」

「お前らそんなに俺様を怒らせたいかゴラァ」


出だしに難があったが練習は無事に開始された。ブース内に阿呆面が揃い、まるでいつもの学園生活における昼休みを見ているかのようだった。阿呆面は阿呆面だが彼らの演奏技術はしっかりしており、伊達にアイドルを目指しているわけではないらしい。どこまでも真っ直ぐな一十木のギターと自由気ままな神宮寺のサックスや変化球である四ノ宮のヴィオラとうまく協調しながら全体の音が進んでいく。一ノ瀬や聖川は本当によく出来た捕手である。始めたばかりながら来栖もよく頑張っている。口だけではないようだ。


七海と聖川以来だ。こんなに音楽を聴いていて穏やかな気持ちになったのは。明日になったら七海とセシルを呼んで聴かせようと思った。このままうまく行けばもしかしたら歌が現れるかもしれない。
そんな予感を覚えている内にドアノブが下がる音がした。


振り向いたらゆっくりドアが開いて、控えめに赤い靴が窺える。


七海だ。ブースから目を離し即刻彼女に駆け寄る。


「・・・どうしたの?」

「名前ちゃん」


一番星のようだったはずの七海の瞳が曇っている。顔をあげた七海の、全身から溢れだす負の空気に私はとても不安になった。一体何があったというのか。
彼女の言葉を待つことしか出来ない私に七海は寄りかかる。胸に彼女の頭がくっつけられた。


「セシルさん」

「クップルと話せなくなっちゃった」

「どうしたらいいのか、わかんなくて」


愛島が人の姿になるには七海のキスが必要である。これまた不愉快極まりないことを思い返している私に七海は、聖川事件以降幼稚な理由でセシルにキスしなかったことそれがセシルに負担をかけていたこと、そしてセシルが自力で人間に変身するには自分の命を削ることをずっと七海に黙っていたことを告白した。
七海曰く彼のそんな秘密を知った後、クップルモードの彼の言葉を理解出来なくなったそうである。


「しっかり」


彼女の頭をそっと抱き締める。


「何で話せなくなったの?」

「魂の契約が切れちゃった。林檎先生にキスされて、私の不注意で」


日向先生が言っていた。学園長含めてあの周辺はとんでもないことになっている。ショックを受けて女子寮から出て裏庭をふらついていた七海に月宮林檎がとどめを刺したのだ。


「あのクソアイドル」


理由などどうでもいい。七海を苦悩させるものは皆、私の敵だ。例えそれが担任だろうが友達であろうが恋人であろうが関係ない。真っ先に殺してやると思った。


「やっぱりピンクレディーの言ってた通りだ」


女装アイドルなんて愛らしい単語に隠されているが奴も本質は雄である。


「今すぐすりおろしてヨーグルトに混ぜて出荷してやる」


七海を手放して、卸がねをしっかり握りしめてレコーディングルームから出ようとした私の腰に七海は飛び付いた。


「名前ちゃん!あの!先生は洗脳されてるから!!えっと」

「責任能力がなくても罪は罪」

「とってもびっくりしたしちょっと泣いちゃったりもしたけどでも一番悪いのはふらふらしてた私だから!」

「大丈夫よ七海は悪くない、悪いのは全部月宮林檎よ。だから大人しくここで待っててすぐに終わらせてくるから。何が女装アイドルだ。生えてるけど男の悪いところなんて一切ありませんみたいな顔して何だめちゃくちゃ盛りだくさんじゃねーか明日から丸出しアイドルにしてやるよ」


腰から七海の手を振り払った矢先、横からメロンパンを頬に押し付けられる。
ブースから出てきたらしき聖川が私の頬にメロンパンをめり込ませながら静かに私を見守っている。


「・・・お前何してんの」

「見ての通り、メロンパンをお前の頬に押し付けているが」

「・・・・・・。」


止めるならもっと他に方法があるだろうなど色んなことを考えている内に力が抜けた。
七海の言った通り月宮林檎は洗脳されている。それに生えているが愛らしいアイドルだ。そんな彼をすりおろしてヨーグルトにして出荷してしまったら私は聖川達をもメロンパンに混ぜて販売しなければいけなくなる。
頭が急速に冷えていき、卸がねを床に落として聖川からメロンパンを奪い取った。


「ごめん、少し取り乱した」


七海は安心したように笑った。こんなに追い詰められていても彼女は笑ってくれる。まだ捨てたものではない。諦めてはいけない。
私は彼女の手にメロンパンを握らせる。


「・・・喋れなくても」


気持ちがすれ違っていても。


「あなたたちには音楽があるし」

「ここに楽譜だってある」


魂の契約は切れたが楽譜は無くなっていない。


「案外今までと何にも変わらなかったりしてね」

「猫だろうがセシルはセシルなんだし」


サタンが復活する前だってこの二人はとても仲が良かった。犬なら分かるが人にあんなになつく猫なんて珍しいと思った程だ。あの時だって奴はニャーとしか鳴かなかったが七海の言葉にきちんと反応を返していたし。


七海と目を合わせる。


「ずっと二人でいたんだから、私に逃げないでちゃんと二人で向き合えば?」


セシルもクップルも七海のことが大好きだ。魂の契約が何だ。指に嵌める輪がなくなっただけのことである。本当に好きならどんなことになったって傍にいるものだ。


七海の目が潤む。澄んだ水が七海の曇を洗い流す。涙が零れる前に彼女は服の裾でそれを拭った。


「名前ちゃん」


七海が笑う。


「本当にありがとう」

「お構い無く」

「そうだよね、逃げちゃ駄目ですよね」

「うん」


「セシルさんの所に、行ってくる」


七海が、離れる。


メロンパンを胸に抱えて七海はセシルの所に行ってしまった。
あまり考えずに七海にあのメロンパンを渡してしまったがあれは聖川の大好物であり、恐らく昼食である。横にいる聖川をおそるおそる見上げた。聖川は黙って私のことを見返してくる。


「新しいの買ってくるから」

「まだ残っているから、いい」

「そう」


買いだめをしていたそうだ。とことん、変な男である。
日常生活に戻る私と聖川をブースから顔を出した四ノ宮達が迎えた。


「・・・何見てるの」

「僕達も優しさが欲しいです」

「お前達にあげるぐらいなら蟻に引き渡すわ」

「膜翅類に負けたぞ俺ら」



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