「・・・さて」
練習をいつもより早めに切り上げて日向先生は椅子から腰をあげた。ブース内にどよめきが走ったのは目に見えて分かる。
「今から俺は用事があるから、各自ちゃんと練習しとけよ」
「何の用事?」
隣で静かに本を読んでいたが何となく気になってそう聞いたところ日向先生はいたずらっ子のように口角をあげた。
「ついてくるか?どうせ暇だろ」
「・・・・・・。」
私は本を閉じる。暇といえば暇だし、何だか嫌な予感がした。何故私が質問したのに理由を言わないのか。こういう時の私の勘は的中率が高い。
日向先生の後方についてレコーディングルームを出ようとした私をブースから顔を出した神宮寺の声が引き留めた。
「おや、レディも?」
神宮寺だけではなく、聖川もこちらを見ている。真意は読まない。神宮寺が大量の女を相手にしている時の顔をする。
「二人でデートかい?恋愛禁止の校則は懲戒免職になったのかな?それなら有り難い」
私の背中には元事務所の信頼が乗っているのに誰が教師とそんなことをするというのだ。どうせおちょくっているだけだろうが、怪我を負わせるつもりは毛頭ないので細心の注意を払って神宮寺の顔面から左にずれた箇所目掛けてガムテープを円盤のように投げた。
狙い通り壁にぶつかり、神宮寺も笑顔のまま硬直している。
「行きましょうか先生」
お前いい加減あいつ苛めんのやめろという日向先生の背中を押して、レコーディングルームから出た。
校内はいつも通り静まりかえっている。窓も夏空に影響されて青に枠ごと彩っている。音ひとつしない世界で私と日向先生の足音が私達の後を追ってくる。
七海達は来栖を見つけただろうか、思案していたら日向先生が口を開いた。
「辛かったろ」
「え」
「今回お前は完全に蚊帳の外だからな」
日向先生は真正面を見たまま前へ進んでいく。
「楽譜も持ってない、魔法なんてもんも使えない、歌も歌えねえただの人間」
「お前の友達は何かしらこの変な事件に関わってる」
「そんな中お前は自分の立ち位置をよく理解してたと思うぜ」
「もしお前がでしゃばって余計なことしたらとんでもねーことになってただろうしな」
日向先生の言う通り、聖川事件ではでしゃばってしまいあやうく大変なことになるところであった。私があのまま混乱していたら聖川は大怪我では済まなかったかもしれない。
魔法も使えず、楽譜も持っていなくて、私は辛かったのだろうか?意外と辛くはなかったような気がする。嫉妬は常にしていたが。怪物に対抗するには同じだけの力が必要になる。生身の人間では敵わないから、選ばれた人間はウルトラマンとか魔法少女に変身する。才能も努力も出来ない何の術も持たない人間が粋がって怪物に飛びかかったって食い殺されるか、過信して自ら滅びるかのどちらかだ。
「何にもしなかったんじゃなくて」
もちろん私だって努力する機会すら与えられなかった人間だ。
「何にも出来なかっただけ。だから何にも起きなかった、それだけのことです」
案外これで良かったのだろう。私はすぐに調子に乗るから七海を守るだの何だの言って最終的にサタンに洗脳されてとんでもない迷惑を二人にかけたかもしれない。私のような奴は無力がお似合いだ。
「悲観すんな」
日向先生は言う。
「お前にはこれからも意地張ってもらわないと困る」
私は何も言わない。日向先生の喋る声だけが鼓膜を揺らす。
「あいつらの飯とか誰が買いに行くんだ、俺はもう嫌だぜ」
「あんな奴らのために飯炊き女の道を進むぐらいならプールに飛び込んで死にます」
何が悲しくてそんな理由で意地を張らねばならないのだ。私は七海がいるからまだちゃんと私でいれる。もしこれで七海がいなかったらとっくの昔にプールに飛び込んで藻屑になっていたに違いない。
黙って二人で歩く。死んだ学園を横切って、日向先生は購買の前で一度立ち止まりそのまま中に入っていく。
「購買?」
何の用だろうか。またただ単純に腹が減っているだけなのだろうか。表面に塗りたくられた砂糖がてかてかと光っているパンの集団に瞳を奪われながらも空腹でなかったので一つも手に取らなかった。冷房のきいた購買内部の最奥には山のような清涼飲料水が取り揃えられている箇所がある。その一角に、あの桃色と紫の炭酸水が陳列されていた。
一本ではない。いくつも縦に並んで白い電灯が中身の泡の一挙一動を強調している。相変わらず綺麗なサイダーだ。
「それ、買ってやる」
屈んでサイダーを見つめていた私の背後にいつのまにか日向先生がいた。
私は遠慮なく先頭の一本を取り、レジに向かう。
レジには、私達が今まで食べた分量に値する小銭が回収されることなく山を作っていた。
「・・・よし」
購買を出て、炭酸水やパンの入ったレジ袋を私に渡した後、日向先生はまた止まる。私の前にいながらどこか別の方角を見ていて、先程から一切合わない目線に私の違和感は刻々と固まっていった。
日向先生の手が、廊下の向こうを示した。
「じゃあお前はもう帰れ。ここからは俺個人の用事だからな」
レジ袋を抱えて私は日向先生の目をちゃんと見た。ついてこいと言っておきながらこんなに中途半端なところで私を帰す。ただ単にサタンの下に戻るのならば最初から私なんて呼ばない。
日向先生は七海達の所に行くつもりなのだと思った。それは日向先生が出ていくに値する事件が起こっていて、しかも日向先生にしか解決出来ないのだろう。
黙っておくわけにもいかなかった。私は発作的に日向先生のスーツの裾をそっと掴んだ。
「日向先生」
微動だにせず日向先生は私の口をじっと見下ろしている。
「七海とセシルは、絶対サタンを封じます」
約束したのだ。セシルは七海を命を代えても守ると。あの二人なら絶対負けない。今までだってたった二人で前線に立ち率先して楽譜を集めてきた彼らならばサタンなんて余裕だ。
「・・・だから、安心して後のことは任せて。先生なんかいなくても大丈夫です」
日向先生が、自身がいなくなってしまった後で心配することなんて何もない。それだけを伝えたいのにどうしても余計な一言が付いた。普通の生活に戻ったら私はすぐに優しい言葉を使う方法について記された本を図書館で探すべきだ。
「お前な・・・。」
日向先生は呆れたように呟いて、私の頭に手をのせた。
「本当に生意気なやつ」
口調の割にはゆっくり私の髪ごと撫でている。日向先生を引き留めることが出来るのならばする。でも日向先生の意志はとても固い。自分の道を自分で決めてその上を真っ直ぐ歩いていこうとする人間の邪魔をするのは罪だ。
「聖川と仲良くしろよ」
「何で聖川」
「結構仲良いじゃねーか、ついでだからあいつに男嫌い治してもらえ」
「余計なお世話すぎる」
聖川について今は何も言うことはない。これに関しては冗談抜きで余計なお世話だ。
私は日向先生のスーツを手放す。私の頭から彼の手は外されて、日向先生はレコーディングルームで神宮寺達に囲まれている時のように笑った。
「じゃあな、後のことは任せたぜ」
無言で左手を指の先まで真っ直ぐ伸ばし、額にあてる。
「敬礼ってお前」
「左手でやる敬礼はテメーにはもう二度と会いたくねーよって意味で痛たたたたたた」
最後に日向先生は私の頬を一通りつねってから、私を置いて彼方に行ってしまう。
レジ袋を抱き締めて、私は日向先生とは反対方向の来た道を戻った。
一人でドアを開いたら一番近くにいた聖川と目があった。
「帰ってきたか」
「うん」
「早かったね」
「用事って・・・おつかいですか?」
「サイダー買ってもらった」
詳しくは言わず、テーブルにレジ袋の中身を並べる。
「おー」
「日向せんせえにお礼をしないといけませんね」
聖川が何も言わない私をじっと見てくる。
「何かあったのか?」
「なんにもないよ」
「・・・・・・。」
日向先生のことは、彼らに伝えてはいけない。舌をぎゅっと歯で押さえ込む。