目が覚める。とはいってもまだ頭はふらふらとしている。波間を漂うかのように前後する視界の中心に青い長方形が柱の如く立っている。目を凝らす。長方形の細部がようやくはっきりと浮かび上がった。楽譜を持った聖川が私の開いた目を見て固まっている。


ただでさえ薄い色素の聖川の顔色がさらに薄くなっていく。目を擦って、しっかり目を見開いて聖川を見上げる。


「・・・何?」


水槽のなかを泳ぐ熱帯魚のように青色の球体が移動して、観念したのか瞼を閉じ、彼は私に頭を下げた。


「とんでもないことをしてしまった、すまない」


聖川の後ろにあるブース内部にて、一十木と一ノ瀬があからさまにこちらを見ている。動物園で飼われているキリンになった気分だ。
スカートめくーりだの、数々の変態行動と言動を解き放ち絶好調な状態であった彼を思い返す。ここぞとばかりに罵倒してやりたいし、腹は立つにしろ聖川に関してはたくさんの借りがあるのでそんなに酷くつつく気が起きなかった。私は腕を組む。


「そんな無駄なことする暇あんなら練習したら?」


私だって彼に謝ってもらう価値はないぐらい酷いことをしようとしたのだ。


「逆に迷惑よ、思い出したくもないことほじくりかえしやがって」


聖川はまだ頭を下げたままである。絆創膏の下が少しだけ痛む。もう少し柔らかい表現を使いたいところだが私は優しい言葉を駆使する応用力も、加減の付け方も未完成なのだ。
どんな言葉をかければよいいのか構想を練っている間にも表の私は目線を聖川から外した。


「七海には謝った?」


聖川の頭がさらに下がる。確かにあんな、可愛らしい七海の私服を蜜柑の皮のように剥いておいて謝罪したところで自分としてもそれで終わりというわけにはいかないだろう。


聖川の気持ちもわからないわけではないがいつまでも気を使ってほしくない。後ろなんて振り返っている暇だってないのだ。


「・・・七海のために精一杯右腕一本くれてやる覚悟で練習すべきと神は言っている、早くしやがれ」


ソファーから立ち上がって、停止したままの聖川の腕を無理矢理引っ張りブース内部に投げ込んでおく。私が言うことはそれだけで、本格的に叱ってほしいのなら愛島のところにでも行けばよろしい。
というか本人が一番ショックを受けている癖に他人を気遣うとは、あの男は馬鹿なのだろうか。ちゃんと正気に戻ってきちんと帰ってこれたのならそれで万々歳じゃないかと私は思う。


昼食後に帰ってきた日向先生は早速三人の練習の指導を始めた。
聖川は元々ピアノをやっていたので、一ノ瀬や一十木にそんなに遅れを取っていない。感心なものだ。
隣で様子を見守っている私に日向先生が話しかけてくる。


「お前、ずっとそうしてても暇だろ?」

「まあ」

「何か好きなことしてていいぞ」


別に暇ではないと言おうとしてやめた。今とても素晴らしい一文を聞いたような気がする。
日向先生の顔面をじっと見る。


「・・・本当に?」

「おう」

「本当にいいの?」

「随分と気使うやつだな、いいって」


笑う日向先生。


「そう」


確認作業を終了して即座に部屋から持ってきていた鞄を開いてニンテンドーDSを取り出す。サタン騒ぎが起こる前に購入しておいたゲームを起動した。四天王を倒すにはまだ手持ちのポケモン達のレベルが足りていないのでとても助かる。夜にやっていたら一ノ瀬が横からプレッシャーをかけてきて大変だったのだ。


「・・・・・・。」


私の行動を見守っていた先生は派手な音を立てて椅子から立ち上がる。


「ゲームかよ!!!」

「ちょっといきなり大声あげないでくれます?今トルネロス捕獲作戦中なんだから」

「好きなことしていいっつったのは俺だけどな!なんか読書とか他あんだろ!!!」

「ダークボール切れた」

「話を聞けこの詐欺アイドル!!」

「痛い!」


上から拳骨が落ちたあたりでトルネロスは逃げてしまった。画面が日常風景に戻る。腹がたつ程にすばしっこいやつである。


トルネロス騒動の後、一十木はにこにことしながらブースから出てきた。


「なんか盛り上がってたね」


返事はしない。盛り上がるどころの話ではなかった。DSではなく私の手に握られている一冊の本を見て一ノ瀬が目を丸くする。


「おや、読書なんて珍しい」

「1ページも読んでないけどね」

「ケン王珠玉の名台詞集・・・?」

「読む?」

「貸して貸して」


ぱらぱらとページがめくられていく。それを一ノ瀬と聖川が覗きこんでいる。
一十木は中身を読みながらさらに笑顔を輝かせた。よく笑う軟体動物である。


「翔が喜びそう」

「そういえば翔は大ファンでしたね」

「やっぱり翔もサタンに洗脳されてんのかな?」

「確実にされていると思いますよ」


来栖のことか。来栖翔。氏名だけは素敵な、Sクラスに在籍している豆のように小さい男子である。一ノ瀬やオレンジのタコに挟まれたら現代版ロズウェル事件だ。


「・・・そういや」


一十木は急に真面目な顔をした。赤い目が本からこちらへ下ってくる。


「何で苗字は大丈夫なんだろうね。楽譜も持ってないし、魔法?も使えないのに。購買にも堂々とポケモンパン買いに行くのにゾンビみたいなやつに襲われないし」

「仮にもクラスメートだった人をゾンビみたいなやつ呼ばわりするのはどうかと思いますよ」


へへへと一十木は悪意なく笑う。一ノ瀬が肩を落とした。苦労人はどこまでも苦労人らしい。

どう考えてみてもサタンに洗脳される程、物珍しい人類ではないことが定説だが。


「・・・食欲が呪いを凌駕してるとかじゃないの?」

「否定出来ないあたりがあなたの良いところだと思います」

「けなすならはっきりとけなせよ」


折角答えてやったのに一切一十木と一ノ瀬は私と目を合わさなかった。二人を除いて聖川が少しだけ笑っている。


「しかしもしお前がサタンに洗脳されてしまったら大変なことになるぞ」


聖川のその発言に一十木が爆笑した。


「まず俺らは駄目だね、秒殺だ」

「日頃の恨みも込めて秒殺の後、全裸でそこに吊るしてやるよ」

「死人に鞭を打つのはやめてくれ」


やるなら徹底的にやる可憐なアイドルなので一切手を抜く気はない。聖川の願いに耳を塞ぐ。
一十木はまだ爆笑しながら聖川の背中を叩いた。


「でも七海には何にもしないんでしょ?」

「七海には何にもしないけどお前達には酷いことするよ」

「宣言するな」

「嫌なら近づくなって話だよそういう時は」




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