海が近いなと思っていた。どこからか潮の匂いがしていて、頬を柔らかい水滴が滑り落ちる。海は近くないし、そもそもこの学園には牧場しかない。海なんか、ない。レコーディングルームを華々しく退出し、胸を張って歩いているのに私の目は情けないものでぼたぼたと液体を溢れさせている。何が決壊したのか。心のダムか。何て寒い字面だ。


様々なことを誤魔化すように走り出す。誰にも引き止められず、邪魔されず、決して足の速い方ではないが短時間で学園内に設置されている広大な草原にたどり着いた。短い緑の葉が一面に敷き詰められ、羊がのそのそと歩いている。


遠く果てしない空は鮮明な青色で塗りたくられており、それが何だか海のようで、私はその場に座り込んだ。地面だったが気にしていられなかった。
膝に顔面を埋める。スポイトから押し出すように一滴一滴、私の靴下に涙が滲んだ。不思議と、嘔吐感はない。


じゃり、と誰かが後ろに立つ音がする。


振り向いたら困ったような顔で青い軟体動物が立っていた。どうやら追いかけてきたらしい。


「この野郎」


目元の水滴を腕で擦り、私は声を絞り出す。


「色々暗躍してくれたみたいね、やっぱり言うんじゃなかった」

「たまにいるのよあんたみたいにおせっかいな世話焼きが」


社長みたいに、人が傷ついているときに林檎やら何やら送ってきたりするような。悲しきかな私はそういうおせっかいのことは余程のことがない限り嫌いになれない。


どうも帰る気がないらしい青い軟体動物に昔話をしてやることにした。


「初対面じゃないの」

「七海春歌と私」

「私すごい貧乏でね、このままじゃ共倒れだって父さんと母さんは私を親戚に押しつけたの」


いまとなってはもう両親の顔なんて全く思い出せないが。


「私の意見は聞かれなかったけど懸命な判断だと思う、子供のこと考えたらそうなる」


私もきっとそうする。


「でも親戚は快く思ってなくてね」

「揃いも揃って私を邪魔者扱いして」

「だからそこを飛び出してずっと一人で生きてたの」

小さい子供に一日を乗り越える程の金を稼げる力なんてあるはずもなく、親戚の家から逃亡してからはずっとゴミ箱をあさり公園の洋式トイレの蓋を閉めたその上で眠っていた。


「そういう生活のなかであの子に会った」

「びっくりした、他人に」

「優しくなんてされたことなかったから」


あの時は生まれてきた時代を間違えたかと思ったが、自分の掌をぎゅっと握りしめる。


「それにあの子のピアノの音」

「この世のものじゃないぐらい綺麗で暖かかった」

「・・・私ね」

「ずっと七海春歌の隣に並びたいって思ってたの」

「だからアイドルになって綺麗になって」


皆が皆私をいらないもの扱いしやがったからいつかシンデレラみたいに綺麗になって私に羨望の目が降り注ぐなかお高い城に乗り込んで七海春歌の隣に君臨してやろうと計画していた。
でも七海春歌が求めていたのは麗しきシンデレラとかじゃなくて。


「馬鹿よあの子が見かけなんて気にしなくて、どんな人間でも真っ直ぐ接してくれるってわかってたのに」


七海春歌の周りには不思議な人類で溢れている。やけに男気溢れる女の子とクラスの人気者、核兵器製造者にくそ真面目なピアニスト、他にも恐るべきタコやその他多種多様だ。


豪雨にでもあてられたように私の目尻から水が流れ出す。塩分を多少含んだそれは草の上に円を作った。


「・・・友達じゃなくて」


「好きなの」


初めて会って彼女の指から生まれてくる音を聴いて以来ずっと憧れていた。その憧れは成長の途中でねじ曲がり恋心になってしまったが私はそれを黙殺した。気づいたところで何もしてやれないし、七海春歌にも迷惑である。
あなたのことずっと尊敬しているからと過去の私が微笑んでいる。あの時押さえつけていた恋心が嘘つきだと叫んでいた。


「死ぬ程好きなの」

「私のこと見て欲しくて、私のこと好きになって欲しくて」

「でも駄目」

「手を伸ばしても」

「届く前に切れちゃうから」


七海春歌は女の子だし、私も残念なことに女である。いっそのこと野郎にでも生まれていたらまだ希望はあったが私はもう私として生まれてしまったのでどうしようもない。
誰にも言わないはずだったのにもう誰かに言わないと苦しくて喉が詰まりそうだった。真っ黒になったそれを外に出し、私は膝に額を押し付ける。


「だからこれは秘密」

「私の一生の秘密」


もう二度と面に出さない。こんな汚いものを七海春歌にもし知られたら私はきっと学園のプールに飛び込んであがってこれなくなる。

これ以上何も言いたいことなんてないので顔をあげて静かにしていたら、横からハンカチがやってきた。青い軟体動物の私物であるのを主張するように、ハンカチの向こうに白くて長い指がある。


少し迷ったが無下にも出来ないのでそれを受け取った。大変柔らかい布である。一体何で出来ているのだろう。


「ううう軟体動物の匂いがする」

「そんなことを言うなら使うな」

「いやでもこんな顔で帰れない」


ハンカチで顔を押さえながら鼻水をすすった。


「これ返さないから」

「それは困る」

「私の鼻水付いてるし」

「洗って返してくれればそれでいい」

「なるほど」


涙が止まる様子がないのでハンカチで顔を覆い、そのまま静止していたら30センチ程私から離れた場所に青い軟体動物も座った。


「動かないのか?」

「もうちょっと、あと30分ここでうだうだする」


とにかく止まってくれないと帰る途中で誰かに会った際に大変気まずいことになる。それだけは何がなんでも嫌だ。
落ち着くようラマーズ呼吸を繰り返しているうちに青い軟体動物が何故か歌いだす。このタイミングで歌われるなど一体どんな反応をしたらいいのか戸惑ったもののなかなか上手かったので私はラマーズ呼吸をやめて聞き入った。


軟体動物の癖に優しい声の持ち主である。いや、実際性質もなかなか優しいのだろうが。
青い軟体動物が歌い終わったのを見計らってハンカチを顔面から外した。


「何でいきなり歌うし」

「妹はこれで泣き止むからな」

「妹何歳?」

「5歳だが」

「幼女扱いかよ」



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