朝食はメロンパンと林檎を部屋で食べた。さくさくでふわふわのメロンパンは一口噛むごとにまるで砂糖で出来た窓ガラスを食べるグレーテルのような気分になった。夢みたいに甘くて美味しかった。
林檎は昨日と何にも変わらなかったがあの普遍的な素朴さこそ、めまぐるしく蠢く私の日常に必要なものであり、部屋を出るときに何となく3つテーブルの上に飾ってきた。無事に帰ってきたらあの林檎達が私を迎え入れてくれるであろう。
胸元のリボンをしっかり結んで廊下をずんずん歩く。すれ違う同級生達は一斉に私から目を逸らした。天下のアイドルらしかぬ扱いであるが何も気にならなかった。
学校説明会にて初めて訪れたきり、一切近寄らなかったレコーディングルームの前に立つ。
朝早く予約しに行ったから今期限定で私のものである。遠慮なくドアノブを握り締めた。
「名字さん!」
愛らしいソプラノボイスが聴こえた。首を動かしたら本をぎゅっと抱き締めて少し離れた場所から私を見ている七海春歌がいる。
私もしばしの間彼女と視線を交わした後、何も言わずレコーディングルームの中に消えた。
レコーディングルームにはすでに月宮林檎がにこにことしながら私を待っていて、彼に軽く頭を下げこっそり壁を窺えば、そこは何事もなかったかのようにつるんとしていた。
社長には本気でお礼を言わねばなるまい。
当たり障りのない雑談を交わしつつブースに入る。透明な壁が私と外界を切り離し、私が触れるものといえばヘッドフォンとマイクと歌詞を書いた楽譜ぐらいのものだ。
楽譜を所定の位置に置いて、マイクの高さを合わせていたらブース外のドアが開く。
切羽詰まった顔の七海春歌が入ってきて透明なガラス越しに目があった。
やっぱりきた、そう思う。というか来なかったらどうしようかと思っていた。
「あらハルちゃん」
「先生、あの!」
ここは現在名前ちゃんが使用中よとでも言おうとした月宮林檎を制して七海春歌が肩で息をしながら声をあげる。
言葉を続けようとした七海春歌を今度は私が遮ってマイク越しに月宮林檎に言った。
「構いませんよ」
「というか」
「彼女には聴いて欲しいです」
不思議そうな顔をしている月宮林檎を無視してヘッドフォンをかける。
たったそれだけの間にまたブース外のドアが開いてぞろぞろと人が入ってきた。
赤髪の女の子と、赤い軟体動物と黄色い軟体動物と青い軟体動物である。おおよそ七海春歌を追いかけてきました、といったところだろう。
女の子が口を大きく開けて七海春歌に何かを言っていたがブース内で彼女達を見つめている私に気づき、面白いぐらいに目を丸くしている。
わざとらしく私は眉を下げてみせた。
「人数増えるのはいいけど静かにしててよね」
そう言えば女の子が両手を振り上げた。私に飛びかかってこようとするのを赤い軟体動物が止めている。何を言っているのか聞こえないがどうせ生意気だとかその辺の単語だろう。確認するまでもない。
「・・・先生、よろしくお願いします」
「はーい頑張ってねー!!」
月宮林檎が明るく笑った。現時点では全く敵わない相手だが担任としてはなかなか良いやつかもしれない。
夜明けまでずっと聞いていた曲が流れ始める。
膝を抱えて項垂れていた私の背中を押すように、真っ黒な暗闇のなかを走る誰かのことも守っていた音が弾けて私の鼓膜と心を揺らした。穏やかな波が満ちた後、それを断絶するような風が吹く。
七海春歌が作った曲は、決して派手なものではなかった。今どきのアイドルポップみたいにきらきらしていなくて、むしろしっかり研いだ包丁のような鋭い光を放っていた。あんなほんわかした女の子からどうやったらこんな曲が出来るのだと思いつつ最後まで聴いているうちにこれは私を体現していることに気づき、夜中にも関わらず私は赤面した。私はやっぱり近寄りづらいのかもしれない。
偶像の私と、しがない人類の私が楽譜のなかに存在していて、お互いの顔面を音速で何度も殴っているようなイメージが脳内に沸き上がり大変恥ずかしい思いを覚えつつも気づけばシャーペンを握り締めていて、朝日が昇る頃には詞が完成していた。
その時の私の驚きといったら、文字に出来ない。
この曲は強い。そんな強い曲に飲まれないように私も精一杯歌った。単調な線の上で愛らしくステップを踏んでいた馬鹿の腰を掴み、後ろに投げる。馬鹿はアイドルらしかぬ顔面で怒り狂って背中を蹴飛ばしてくるが負けじと回し蹴りを放つ。夢見るかわいこちゃんではいられないという話である。
傷ついても悲しいことが起きても例え涙と血にまみれても私と偶像は前に進まなくてはいけないのだ。
徹夜明けの癖に歌声は強く虹を描くように伸びていく。彼女の期待に応えなくては、彼女に恩返しをしなくては、そんな感情が私を後押しする。
私は、私は七海春歌がいたら無敵かもしれない。強くそう思いながら目を閉じた。音が私の手をしっかり握り締める。
歌い終わってブースを出たら月宮林檎に抱きつかれた。女装アイドルとは思えぬ剛腕で首を締められあの世でひらひらのドレスを着た私が手を振っているのを目撃したが女の子と赤い軟体動物が死にかけている私に気づき月宮林檎を引き剥がしてくれたのでなんとか現世に留まることが出来た。
息も絶え絶えに、首を擦っている私に七海春歌が駆け寄る。
黄色の瞳は夜空の星のようにきらきらとしていた。
「す」
「すごかったです!!」
眩しい笑顔の彼女に全細胞が歓喜の歌を熱唱しだしたが唯一冷静に事を見守っていた理性に沿って、私は七海春歌の無防備な手にそっとを手を伸ばして、握り締めた。
「・・・図星だったの」
笑顔をやめて、七海春歌はきょとんと何かを語り出した私を見上げる。
「見失ってたの無意識のうちに」
「上に行こう隣に並ぼうってことばっかりで、音楽のこと何にも考えてなかった」
やっぱり彼女の手は暖かくて、
「貴女の作る音はこんなに愛に溢れてるのにね」
「いったい何してたんだか私」
私は自分で自分が恥ずかしくなった。アイドルを極めてどうするのだ。当初の目的を見失って馬鹿じゃないのか。
偶像の私じゃなくて、私は私として立たないと七海春歌を偶像に取られてしまう。私はダメ出しを自分にした後、ちゃんと七海春歌には伝えておかなくてはいけないことを口に出す決意を固める。
「私じゃないから」
「貴女のこと、馬鹿になんかしてない」
教室での一件を思い出したのか七海春歌はあからさまに焦りを見せる。
「・・・私は貴女のことずっと」
何かを言っていた七海春歌は口を閉じて、私の言葉を待った。
私はずっと、
「ずっと」
あの時からずっと。何だ?
「尊敬してるから」
私の髪の毛が、ふわりと揺れる。
「これから先も」
「だから信じて」
七海春歌は私の恩人だ。もし彼女がいなければ私は今頃とんでもないクソガキになり、万引きと薬物乱用にしか価値を見いだせない人類と化していたに違いない。
ここにいる誰よりも私が七海春歌の才能を確信していると断言出来る。心ない人が七海春歌に何を言おうが私は声高に彼女の素晴らしさを主張しようと思う、だってこの人は私を泥沼から引き上げたのだから。
「はい!!」
七海春歌は笑って、私の手をぎゅっと握り返した。
「ありがとう」
初めて会ったときみたいに、雨あがりの空を照らすような笑顔の可愛さにつられて私も思わずぱっと笑ってしまった。
お礼を言い、しばらくにこにことしたまま手を握りあっていたがふと我に返って仏頂面に戻ったところ、
「笑った・・・。」
「可愛いです!!」
赤い女の子と黄色い軟体動物がそう言った。
七海春歌の手を握ったまま私は文句を彼等につきだす。
「・・・私だって嬉しいときは笑うよ」
「あたしあんたの顔面筋肉は凝り固まってるのかと」
「失礼な、笑ってたでしょうブス騒動のときとかも」
「あれはどっからどう見てもサディスティックスマイルだったじゃん!」
「アルカイックスマイルだよあれは」
なお否定し続ける彼女を放置して私は満面の微笑を七海春歌に向けた。
「あのファイルはもらってもいい?」
「え」
「家宝にするから」
七海春歌は何度も頷く。
「もももももちろん!」
「デレ期?」
「黙れ赤い軟体動物」
余計な一言を挟んできた軟体動物を睨みつける。赤い軟体動物はさっと青い軟体動物の背後に隠れた。
さわらない限り何もしないのにと思いながら私は七海春歌の手を解放した。
「じゃあ私寮に戻るから」
「全然寝てなくて正直もう限界なのよさっきから視界の隅でキューピーが手を振ってるこれはやばい」
ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせてこちらに手を振っている小さきものをちらと見て、私は足を動かした。
あのキューピーがキャベツとトウモロコシを引き連れてやってくる前に睡眠を取らねば。
昼に奴等とダンスなど勘弁願いたい。
「あっ」
「名前ちゃん!!」
思いがけない名称に心臓を先端の鋭い棒で突き刺されたような感覚が私を襲う。ぐらぐらしながら振り向けば七海春歌は恥ずかしそうに微笑した。
「明日の朝よければ、一緒に朝ご飯を皆で・・・。」
レコーディングルームの外に二歩足を踏み出して、
「起きれたら行く」
曖昧な返事を返して、目を細めた後、ドアを閉めた。