その夜、私は酷く追い詰められていた。

提出期日が迫っているのにいまだ曲が出来ていない。詞もつけなくてはいけないのに肝心の曲が出来ていないとどうしようもない。連日の徹夜に挟んで少しだけ取った仮眠は何の効果をあげず、私は上の空で白い壁と見つめあっている。頭のなかは絶えず金属音を鳴らしていて私の作業をとことん阻む。


もう、私の夢も終わりかなと考えた。


随分と長い夢だった。名前も知らない女の子を追いかけて今まで走っていたが、彼女に嫌われて曲も作れず、多分私がこの学園を追放となっても事務所の社長はいつもの笑顔で私を迎え入れるだろう。そして私に仕事を回し一生それが続いていく。
恋をしろ誰かを愛せとうるさく歌い、笑う。偶像である私が今必死に抵抗している私を頭から食べてしまう。

私がいつか自分の後ろを省みた時にそこに私は立っておらず笑顔できらきらとした偶像がいるのだろう。


椅子の上で膝を抱えた。


どんな風に生きたかったのか。もちろんアイドルとして生きていく覚悟はこの業界に入る前から決めていた。私にはこれしかない。無能で馬鹿でお金もない私にはこれしか生きていく術がない。それでも、そこでどんな批判を受けようが雑誌に心にもない暴言を書かれようがいつか七海春歌と遭遇して本当に幸せな気持ちになれる日が来るのだと信じていた。


しかしそれは高望みだったらしい。


こんな時に涙が出てくれれば私も少しは感傷に浸れるが生憎私は泣けない上に嘔吐して負の感情を誤魔化す悪癖がある。不都合な体質だ。
ここでうじうじとしても吐くだけなので私は椅子から立ち上がり、社長が送ってきた段ボール箱に手をつけた。封を開ければおよそ20個程の真っ赤な林檎が詰まっている。誰がこんなに食らうというのかと頭を押さえた後、私が余計なことを電話越しに伝えてしまったのを思い出した。まさか信じたわけではないだろうが、口は災いの元である。


丸い林檎をひとつ取って洗い、まな板の上に置く。包丁を取り出して四等分にし種と皮を実から切り離した。出先が器用でないのでうさぎにも出来ずシンプルな形のまま口に運ぶ。
意外とさっぱりとしていて美味しかった。


実だけになった林檎と、まだ残っているいくつもの真っ赤な林檎を交互に見てこれで一曲出来ないかなと考えたがやはり金属音しか聞こえてこなかった。
まあそう運の良いひらめきなんて滅多にない。


ふたつめの林檎をもぐもぐと食していたら部屋のドアをノックされる音が金属音に交えて届いた。
時計を見るともうだいぶ遅い時間である。どなただろうか。とりあえず段ボール箱の中からふたつ程特に綺麗な林檎を腕に抱えて、もし玄関先にいるのが担任もしくは知り合いであったなら手渡し、犯罪者ならば顔面がへこむまで殴打してやろうと思いつつ玄関のドアへ迎い、開ける。


ドアの向こうにはパジャマ姿の七海春歌が一人で立っていた。


ついに幻覚が見えてきたな、林檎を渡すことすら失念してそんな感想をまず始めに抱く。あの、七海春歌が。しかもパジャマ姿だ。いくら追い詰められているとはいえ私の理性の崩壊っぷりには盛大な拍手を送りたい。
遠慮なくじっと堪能していたら私の妄想の権化であるはずの七海春歌は頬を赤く染めて私を見上げる。


「あ」



「あのね」


七海春歌は大事に抱えていたファイルを私にぐっと差し出してきた。


「え?」


斜め上の出来事に徹夜のオンパレードな私もぽかんと口を開けたまま固まった。
それでも勢いに押されてファイルを何も考えずに林檎を持っていない方の手で受けとれば七海春歌はもじもじとし始めた。


「作ったんです、名字さんの曲」

「先生に頼んで今回は特別にって」

「最近の名字さん体調悪そうだったのにずっと一人で色んな本を読んでたりするの図書館とかで見てて」

そこまで言って七海春歌は私の手とファイルを悲しげな目で見つめた。


「私と同じだったから」

「頑張ってるのに」


柔らかい掌が、ファイルを持ったままの私の片手をそっと包んだ。
驚いたが全く抵抗出来ず私は困惑した。


「名字さんの歌声はとても素敵です」

「でも貴女は見失っている」

「音楽って楽しくて、自分の利益のために利用するようなものじゃなくて」

「心を」


私を怖がっていたはずの七海春歌はとても強い瞳で私を射抜いた。


「聴いてくれる人に真心を込めて」


無意識の内に私はぎゅっと口をつぐんで、七海春歌の目を真っ直ぐ見つめていた。七海春歌の黄色い瞳は昔見た時と変わらずきらきらと輝いていて、七海春歌が目を伏せたあたりで私も我に返った。


「ごめんなさい、私ずっと友達がいなくてこんなときどんな風に言ったらいいのかわからないけど」

「名字さんはとても優しい人です」


手首が暖かい。


「私が名字さんを勝手に怖がってたのに名字さんはそれを察して私と距離を置いてた」

「本当は」

「あの時私と友達になりたくて話しかけてくださったんですよね?」


私は何も言わないままずっと困ったような顔をしていたと思う。


「一回でいいから」


七海春歌の手が離れた。


「聴いてください」


軽くお辞儀をして、七海春歌は私の前から去った。こんな夜に彼女一人を歩かせるのは怖いことなのに私はじっと固まったままファイルと、ずっと包まれていた手首を見下ろしていた。
5分程立ち尽くした後ようやく玄関のドアを閉めて鍵をかけ、結局渡し損ねた林檎ともらったファイルを胸に抱えてパソコンの前に向かった。


林檎を置いてパソコンの近くにある宝石箱を開く、その中にはとても短いピンクのリボンが入っていて、私はそれを触らずただ黙って見つめてようやく七海春歌のファイルと向き合った。


ファイルのなかには楽譜とCD-Rが入っている。
私はぼんやりとした目を時計に向けながら、七海春歌が作った曲を聴いてみようと思った。


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