七海春歌が急にピアノを弾けなくなった。
授業の途中、月宮林檎にピアノを弾いてくれと頼まれた彼女は今大きなピアノの前で固まっている。彼女の実力を知っているため何も思うことはなかったしまさか黄色い軟体動物のお菓子のせいで(入学式にてお人好しなのか全員にクッキーを配っていた。寮に戻って食べたらとんでもない目にあった。あれは核兵器だ)彼女の神経がとち狂ったのかと心配になった。
しかし月宮林檎の横で固まったまま目を回しているあたり精神的なものが原因らしい。それを助長するかのようにクラスメイトが小さな声で彼女を罵倒している。全員この場で末代まで呪ってやろうかと思いつつも下手に手を差し伸ばしたところで問題を克服出来たとはいえないので私は黙った。
後に赤い軟体動物が制止したおかげでクラスメイトは口を閉じる。
七海春歌の問題は七海春歌が自分で向き合って治していかなくてはならない。身体面なら手伝えるが精神面は無理だ。
というかそもそも私にそんな、七海春歌に関わる権利がない。
無慈悲にも授業終了の時間が迫る。
昼食にたまごサンドとポケモンパンを購買で買って教室に戻ったところ、何やら教室が騒がしかった。
不思議に思いながら入室したところクラスメイトが一斉に私を見る。黒板の前には赤い軟体動物と女の子が黒板消しを持って立っていて、私の前には七海春歌と青い軟体動物がいる。
困惑しつつ黒板をよく見れば途切れ途切れで詳しいことは判別出来なかったが七海春歌への暴言がつい先程まで描かれていたらしい。不覚にも私は苛立った。誰だこんな天使のごとき女性に酷い仕打ちをする輩は。相当な不細工であろうことを想像していたら、
「てかさァ」
私のパートナーである女の子が声をあげた。
「犯人あなたじゃないの?」
開いた口が塞がらないとはこのことである。赤い軟体動物と女の子が別に犯人探しなどしていないと主張するがクラスメイトは盛り上がった。
「そういや名字さんって七海さんのこと嫌いだよね」
「なんだっけ七海さんが知らないって言ったからでしょ?」
「女のアイドルって嫉妬深いっていうし」
「陰湿」
好き勝手言われるのは慣れている。妄想は集団に共有されることによって時に現実すら覆い隠す程の醜悪なものに膨れ上がる。
構っていられない。
私が自分の席が無事なのを遠目で確認してそちらへ移動しようとしたらまた、腕を掴まれた。
男か確認してやったところ白くて細いまさしく女性の手であり、ばりばりアイドルコースといった顔をした女の子が目を歪ませて私を見ていた。
「逃げるの?てか完全にあんただよね?七海さんに謝ったら?」
私はニコッと微笑む。
「黙れブス」
女の子が動揺して無表情になった頃を見計らって鼻で笑い、矢継ぎ早に攻撃を繰り出した。
「馬鹿じゃないのこんな小学生以下なことして今時黒板に誰かの悪口でここまで盛り上がれるのって一部を除いた皆さんったら結構子供心を忘れていないというか幼稚というか貴女のご両親の顔が見てみたいそんな心の狭さと頭の悪さでよくお宅のお嬢さんはアイドル目指しましたわねって聞いてもいいかしら?というかブスって単語にそこまで動揺するって貴女まさか自分のこと相当可愛いと思ってたんだ言っておくけど貴女のレベルじゃあの業界ではセミ以下だから」
息を吸って、もう一度しっかりと微笑した。
「じゃがいも畑で咲いたたんぽぽ扱いされる内に夢を諦めるってのはどう?」
言い切った瞬間、女の子がぽろっと目から涙を落とした。あら喧嘩を売ってきたわりには歯ごたえがないと考えている内に誰かが私に近づいてきて片手を少し振り上げ、私の頬を叩いた。
「・・・・・・。」
思考が停止する。叩かれた頬に指を伸ばしたところ熱かった。
茫然としたままゆっくり目をあげたら青い軟体動物が私をじっと見つめている。
男に叩かれたと分かった瞬間、爪先が冷えた。
「・・・殴ったね」
「社長にも殴られたことないのにてか」
「男が私に触ってんじゃ、」
言い終わる前に脳みそが絶叫して、泣きわめき始めた。激しい頭痛に襲われつつ何とか静まり返った教室を飛び出す。
トイレにて、美しく磨かれた便器の前で荒い呼吸を繰り返しながら顔面を両手で覆った。
「あーくそ」
頬が痛みを訴える度に、悪寒が走る。
吐きながら私は必死に美しい想い出を脳裏に浮かべるが小さい七海春歌は私を見て笑わない。