彼女の華奢で小さな身体は同性であれ異性であれ、守ってあげたい、という気持ちに駆り立てられる。その肩を抱き、隣に寄り添う人物は数ヶ月前までわたしと愛を囁きあった人。こうして二人の背中を見つめていると、なんともいえない感情で胸が押し潰されそうになる。痛む胸を左手で擦り、息を吐く。それでも二人から目を逸らさない。…逸らさないんじゃない。逸らせない。身体が芯から冷えていくような感覚になった。そんなわたしを他所に未だ二人は気づかない。わたしという存在を。他人の視線などお構いなしに二人を包むのは、幸せ以外、他はない。ましてや、彼女に関してはわたしという存在がいたということすら知らないのだから、無理はない。
それもその筈、わたしたちはあの日、誰にも言えない秘密の契約を交わした二人。けして他人には言えない、彼とわたしだけの、秘密の関係。
彼と、マルコと出会ったのは、朝から降り出した雨が、勢いを増した夜のこと。たまたま一人、立ち寄った店が彼が経営するダイニングバーだった。どこか妖しげな、大人の雰囲気を醸し出すお洒落なバー。その中で一際オーラを放っていたのが、マルコだった。
「一人かい?」
ゆっくり開いた唇は、そう言った。低くもなく高くもない声。店内では他の客たちがいたというのに、マルコの声だけがわたしの耳にすんなりと届いた。そこでわたしの運命は決まっていたんだと思う。彼に恋に落ちるという運命が。
マルコから視線を外さないまま頷くと、カウンター越しに立つマルコの目の前の席へ案内される。腰をおろすと、何にしようか?と言ったマルコに何でもいいですと呟くと、少し考える素振りを見せた後、手を動かし始めた。タンブラーに氷を入れ、ジンやトニックウォーターを入れた後、カットしたライムを搾り、軽く混ぜる。慣れた手つきで作り上げられたカクテル。オーダーからたったの数分でわたしの前にはライムが添えられたそれが置かれた。
「飲みやすい酒だよい」
「…ありがとう」
この日交わした会話はたったこれだけ。なのに、わたしはこの次の日からマルコの店へと毎日のように通うようになった。
「また来たのかよい」
「売り上げに貢献してるんだから文句はないでしょ?」
いつもの頂戴、と初めてこの店に来た時と同じカクテルを頼む。シンプルだからこそ、人によって様々な顔を見せるこのカクテル。わたしは単純にマルコの味が好きだった。
「一緒に来る男もいねェのか」
半ば呆れたようにそう言うマルコに苦笑いを返す。男なんてここ数年ご無沙汰気味。いい出会いもないし、特別出会いを求めているわけでもない。一人の生活に慣れてしまったわたしには、いま彼氏がいる生活が煩わしく感じてしまう。
「寂しい女だなァ」
「変な話し方をする男よりマシよ」
「こんな男でも結婚してくれる物好きもいるんだよい」
「ああ。…奥さんでしょ?」
マルコは既婚者だった。子供はいない。これは三度目にこの店に来た時に知った。一度目も二度目も、店内は空席はなくマルコとは一言二言の会話を交わしただけ。だけど三度目のこの日は珍しく空席が目立つ日だった。そこで初めてまともにマルコと会話を交わした。
「で、結婚生活何年目だっけ?」
「もう五年になるなァ」
不安にならないのか?と聞いたことがある。マルコの仕事はお酒を扱う仕事。主に夜の仕事になる。色んな客が来る中、けしていいお客さんばかりじゃないのは言わなくても分かること。普通の女なら、きっと色々な不安を抱く職業だと思う。
「それは問題ねェよい」
「あら?じゃあ、浮気の心配とかは?」
「…信頼してるらしいよい」
「お熱いことで…」
彼女の話をするマルコの顔はいつも穏やかだ。きっと彼女を愛しているんだろう。手に取るようにそれが分かる。マルコにそこまで想われる彼女に嫉妬という名の感情を抱いたのはいつからだっただろう。胸に抱いた醜い嫉妬心をわたしは隠した。悟られないように、わたしは彼女の話題をわざとマルコに話を振る。
「ほんとに愛してるのね。奥さんのこと」
「いきなり何言ってんだよい」
「今更隠さなくてもいいわよ。しらじらしい」
「やけに今日はつっかかるじゃねェか」
「別にそんなことないわよ」
そう。今日のわたしはマルコの言う通りやけに苛々する。マルコの口から彼女の話が出るたびに(自分から振ったくせに)無性に体が熱くなる。これはアルコールのせいなのか。でも、いつも以上に飲み過ぎているわけでもない。
すると何杯目かのカクテルを飲み干したところでマルコは、今日はもう閉めるか。と小さく声に出した。
「え?もうそんな時間?」
「いや、今日は客も少ねェしな」
「あ、いつの間にかわたし一人になってたのね」
残ったカクテルを一気に煽りバッグから財布を取り出す。ごちそうさま、と言ってマルコを見ると、なんだか複雑な顔をしている。
「なに」
「いや、帰るならこれ飲んでから帰れよい」
差し出されたのはウーロン茶。どうして?と疑問を浮かべるとマルコは「今日はちょっと酔ってるみたいだしな」と。そんな彼にありがとう、と一言を返しグラスに口をつける。マルコは表情を緩めて微笑する。その顔を見て、また急激に身体の温度が上がった。
「ねえ、マルコ…」
求めたのはわたしの方からだった。ブレーキの効かなくなった感情はきっとお酒のせい。全部お酒のせいにして、今日は自分の本音をぶつけてみようか。マルコは既婚者だからとかもうそんなの関係ない。わたしは今、マルコが欲しくて欲しくてたまらない。
「さようなら…」
小さくなった二つの背中。手を伸ばして掴んだものは、今はもう何も残っていない。愛していたのは間違いない事実。だからといって、彼女からマルコの存在を奪うつもりは毛頭なかった。いつか来る終わりに怯えて、彼女の存在を越えられることはないといつも不安を抱いていた。それでもわたしは幸せだった。世間では許されない恋でも、マルコはきっとわたしを愛してくれていたから。
今はまだ前を向いて歩いて行ける気にはならないけど、わたしはマルコの幸せを素直に願える。それはきっとこの恋には期限があると、知っていたから。
遠ざかる二人の背中を見つめ、さようなら、ともう一度口にすると、痛む胸と共に二つの背中に背を向けてゆっくり一歩、足を踏み出した。
きみはしあわせでしたか?
title/るるる
20110908
スパンコール・ヴァージン!/ユーキ様