「んー?何でだよ、勿体ねェ。そんな艶のある黒髪なのによー」
甲板で伸びた髪の毛を器用に自ら散髪していたシャチに声をかければ。不思議そうに目を丸くして、ダメだダメだと首を横に振られる。ある意味予想通りのその反応に答えることなく、サラサラと肩先を滑る髪の毛を一房つまみ上げた。
脳裏に浮かぶ姿はもちろん、同じ色の髪を持つこの船で唯一の人物――…
「なまえ、こんな所にいたのか」
「あ…ロー」
「ローじゃねェ。ったく、何度言や分かるんだ」
「だって、ローはローだもん」
「あのなァ…俺はこの船の船長で、お前の…―」
「パパ、」
「……」
「でしょ?」
ローが言わせたようなものなのに…わたしが"パパ"と呼んだ瞬間――眉間に刻まれた皺は深くなって、お揃いの灰色の瞳がほんの少しだけ揺れた。
「…ああ、そうだ」
そう言って刺青の入った手をわたしの頭の上に乗せると、ポンポンと軽く二回叩く。それはわたしが小さな頃からの、慣れ親しんだローの仕草だった。でも少しぎこちなく感じるのは、わたしが大きくなってしまったから?
わたしよりもずっと高い位置にあるローの瞳を、じっと見つめ返せば。何も言わずに視線を逸らして背中を向けるもんだから、膨らみ始めた小さな胸にチクリと痛みが走った。
ローに言っても「成長痛だ」なんて無粋な返事しか返ってこないけれど。わたしは知っている、この胸の痛みが何なのかを。
「……昨日出した課題、ちゃんとやっとけよ」
船内へ続く扉の前で、ピタリと歩みを止めて。背中越しに静かに届いたローの声は、厳しくも穏やかな"父親"そのものだった。
「…わかってる」
パタンと音を立てて閉まった扉。その奥へと消える、大きな背中。生まれてからずっと、後ろをついて歩いてきたその背を見送って。
小さく吐き出した溜め息は、船体にぶつかる波の音に掻き消されてしまった。
「そういや最近、船長に医学の勉強教えてもらってんだろ?」
「うん」
「やっぱ親に似るのかねェ〜。海賊船に乗ってっけど、そこらのガキより絶対頭イイもんなーなまえは!」
「……別にローに似たわけじゃ、ないもん」
「ハハッ、まぁ確かに…顔は母ちゃん似かなー」
真っ白な歯を見せて笑いながら、シャチがわしゃわしゃとわたしの頭を撫でる。その笑顔はどこか遠い昔を懐かしむような、優しい色を浮かべていて。こんな時、嫌でも意識してしまうのは―…わたしを通してみんなが見ている"影"だった。
物心ついた時にはもう既にそばにいなかった"その人"に、未だに縛られているのは…わたしとローだけじゃないと思う。
「…ママは……ずるいよ」
「……なまえ、」
なんでママは、わたしを産んだの?ママの子供じゃなかったら、よかったのに――なんて。そんなささやかな反抗心から、ローのことを"パパ"って呼ばなくなったのは、いつからだっけ。
ううん、でも本当はわかってる。ママがわたしを産んでくれたからこそ、わたしがローの子供として生まれたからこそ、今があるんだって。
でも、でもね。それじゃダメなんだよ。この小さな胸の中で育ってしまった想いは、際限なく膨らんでいってちっとも満足してくれないの。
幼い頃、怖い夢を見て泣いてしまったわたしの頭をやさしく撫でてくれた大きな手。迷子にならないようにいつも繋いでくれていたその手で、呼吸が止まるくらいぎゅっと強く抱きしめて欲しい。朝も昼も夜もずっと、あの逞しい腕の中に閉じ込めていて欲しいの。
実の父親に対してこんな想いを抱いてしまうわたしは、どこかおかしいのかもしれない。
だけれど――…
母の命と引き換えに、わたしが女として生まれてきた時点で。
あのひとの隣にいちばん相応しいのは、わたしでしょう?
後悔ならば置いてきた、母の胎内に。
title / hmr
slow pain/小鳩様