熊野と逃げ出したい
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これの続き ボツ話
部屋のドアを開け、台所でお盆を片付けてから来た道を戻る。建物が古く、廊下がミシミシといやな音を立てた。ふと、わたしとは違う足音が聞こえることに気が付いた。それは反対方向からやって来る。恐らく大人の男性だ。
「提督」
すれ違おうとしたのは提督だった。彼の表情は疲れきっており、笑顔を浮かべる余裕もないようだ。見習いのわたしでもわかる。異常な事態が発生しているに違いない。何か胸騒ぎがする。彼の話を聞いてはいけない、そう本能が告げているのだ。
「何かあったのですか」
何故尋ねてしまったのだろう。心の中で激しく後悔しながら、やめろと叫びながらも口からは言葉が滑り出す。
「熊野が轟沈した」
提督の目元は赤く腫れていた。ついさっきまで泣いていたのかもしれない。告げる言葉は血が滲むような痛みを持ち、わたしの胸へと流れ込んでくる。熊野、とは航空巡洋艦の熊野のことだ。ああ、聞いてはいけなかったのだ。わたしはこのまま彼のもとを立ち去らなくてはならない。それなのに足は床にぴったりとくっついたまま離れない。膝は今にもかくんと折れてしまいそうだった。
「明後日からそちらの熊野…重巡洋艦の熊野が演習に入る。荷物をまとめておくように」
提督は震える声で命令を下すと、重い足取りでどこかへ行ってしまった。すれ違い様、彼の薬指に何か光る銀色の輪が見えたような気がした。わたしにはそれが何を意味をするのか、考えるほど余裕がなかった。逃げ出すなら、彼女と共に生きるなら今しかない。悲しむべきなのか喜ぶべきなのか、わたしには分からなかった。
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