「それ、陸酔いっていうんだよ」と、私と肩を並べて歩くシャニがのんびりとした口調で教えてくれた。磯の香りをたっぷりと含んだ風が、私たちの頬をべたべたと無遠慮に撫でていく。私服姿のシャニと海岸沿いの道を歩くなんて、白昼夢の出来事のようだった。港から離れれば離れるほど人の気配は薄れ、海辺に押し寄せる躍動的な波音が耳の奥にいつまでも残る。
私の足取りは、光り輝く海へ吸い寄せられたかと思えば、はっと我に返ったかのように車道側へ向かい、あちらこちらへ乱れておぼつかない。何度かシャニの肩や腕にぶつかってしまい、そのたびにごめんと謝った。最初の方は彼も「もー」と軽く呆れていたけれど、お目当てのCDショップが道端に姿を現す頃になると、「歩く気あんの?」ときつく睨みつけてきた。基本的に、彼は短気な人間だ。
「陸酔いってどれくらいで治るかなあ」
「んー、数日とか?」
「数日かあ。じゃあ治る頃には出港してるのかもね」
真っ青な地平線を一瞥すると、沸き立ちはじめた雲の上を悠々と横切る輸送機が見えた。早く海へ戻りたい。けれど、戦場に身を置く方がほっとするなんて変だ。
「シャニは陸酔いしてないの?」
ふと感じた疑問をシャニに問いかけると、彼は鼻先でふんと笑った。
「陸酔いするようなやつは、パイロットになれねえだろ」
満ち溢れる自信に圧倒され、私は「それもそうか」と返すしかなかった。巨大な機体をまるで自分の体のように操る彼の姿を思い出す。あの操縦席に座ることが決まった日まで、彼は研究施設でどんな訓練を受けてきたのだろう。きっと、パイロットになれなかった人もたくさんいる。その人たちは今どこでなにをしているのだろうか。
CDショップはさびれた小型ビルの1階に店を構え、誰に主張することもなくひっそりと営業していた。店の駐輪場に停まった自転車は車輪と荷台が赤茶色に錆びつき、破れたサドルからぼろぼろのスポンジが飛び出ている。もう何年も人を乗せていないように見えた。自転車のハンドルを押したら最後、部品がばらばらに弾けて崩れ落ちてしまいそうだ。
シャニは入口付近の新譜コーナーを物色したあと、店内の奥へ奥へと移動し、隙間の目立つ棚から黒っぽいジャケットのCDを何枚か選んだ。バンドのロゴは稲光か木の根っこのような形を描いてる。収録されている曲はたぶん、以前彼の部屋で聴かせてもらったようなジャンルの音楽だと思う。そういえば、シャニの部屋の中にCDは1枚も見当たらなかった。休暇のたびに、彼は音源を手に入れては携帯用音楽プレーヤーへ取り込み、用の済んだCDをクローゼットにしまい込んでいるか、あるいは廃棄しているのかもしれない。
レジへ向かうシャニの背中に着いていく。CDを選び終えた彼は、もう陳列棚をちらりとも見なかった。ポップスにクラシック、ロックやヒップホップ。ジャケットを飾るように配置されたCDには、店員直筆のポップが添えられていた。在庫は少ないけれど、店内に整然と並ぶ棚には、古今東西の音源が誰かの耳に届く日をじっと待っている。その中に、目を引くジャケットがあった。
まっさらな紙の上に、一筆書きの四角形が3つ重なり合っている。気がつくと、私はその棚の前で立ち止まり、シンプルなジャケットを手に取っていた。情報を削ぎ落とした飾り気のないジャケットの中に、一体どんな音楽が収録されているのだろう。どうぞこちらで聴いてくださいと言わんばかりに、棚にはヘッドホンと試聴機まで設置されている。
使い込まれたヘッドホンに手を伸ばしかけ、はっとして店の前方へ視線を戻す。レジの前で立ち止まったシャニが、観察するようにこちらをじっと見ていた。職務放棄を責められるのではないかと、一瞬だけひやりとしたけれど、彼は大して気にしていないようで、そればかりか「聴けば?」と促した。
「店の中にいればいいんでしょ」
ほどよく力の抜けた声音でそう言うと、彼は私の返答を待たずに会計を始めた。シャニは私を待っていてくれる。彼を信じ、重いヘッドホンをおずおずと装着する。経年劣化のせいか、イヤーパッドはところどころひび割れていた。やや古いデザインの試聴機のボタンを押すと、穏やかなピアノの旋律が耳を包み込み、柔らかくも芯を感じるベースがゆったりと合流する。ヘッドホンで音楽を聴くなんて、いつぶりだろう。私はしばらくの間、ピアノとベースのデュエットが織り成すジャズに聴き入っていた。
ふと、右隣に誰かの気配を感じた。面識のない赤の他人が不躾に近寄ってきたときのような不快感はまったくなかった。ちらりと視界の隅を覗く。案の定、会計を終えたシャニが、私が装着したヘッドホンの外側に耳を近づけている。頭からヘッドホンを外し、弾んだ声で「シャニ」と彼の名を呼ぶ。本当に店の中で待っていてくれていたことが、素直に嬉しかった。
シャニは私の手元からヘッドホンを奪い、断りなく自分の頭に装着した。普段から音楽ばかり聴いていることもあって、様になっている。彼は再生されたままの音楽を数秒聴き、不思議そうに目をしばたたかせ、「音ちっちゃ」とつぶやいた。
「シャニのが大きすぎるんだよ。毎日毎日あんなに大きな音で聴いてたら、いつか耳がおかしくなっちゃうよ」
「雑音なんか聴いても仕方ねえじゃん」
ヘッドホンを外しながら、シャニが思わせぶりに笑う。この世界はありとあらゆる雑音であふれている。海鳴りが聞こえないビルの中でも、空気はひっきりなしに震える。試聴機から流れる音楽を停止するボタンを押す無機質な音。店内を満たす知らないバンドの曲。私のかすかな呼吸音と、はるか遠くから聞こえてくる低い雷鳴。
「へえ、嵐が来るな」
彼は今にも雨が降り出しそうな薄黒い空を窓から眺め、退屈そうだった瞳を鈍く輝かせた。雷が轟く音は、シャニにとっては雑音ではないらしい。店のくすんだ白い壁はますます灰を帯びた色に染まり、部屋の中をいっそう寂しくさせる。彼の見張りを続けて分かったことがある。シャニ・アンドラスという人は、ほの暗い景色がよく似合う。
シャニは窓の外から目をそらし、私の手元に残るCDへ視線を注いだ。その過程で彼と一瞬だけ目が合ったような気がして、無防備な心臓が小さく跳ねる。私はジャズのCDを見つめるふりをしながら俯いた。彼を監視することが私に任された仕事であり、彼を見守ることは日常茶飯事のはずなのに、どうして後ろ暗い気持ちに襲われているのだろう。
「それ、買うの」とシャニが関心の薄そうな声色で訊ねる。私は頷き、急いでレジへ向かった。こうしている間にも、白く濁った窓ガラスに雨粒が落ちてきている。室内にもかかわらず、どこからともなくペトリコールのにおいが漂ってきた。
最初は無視できるくらいの小雨だった。けれども、店を出て5分もしないうちに雨足は強まっていく。さめるような青色をきらめかせていたまばゆい海は色を失い、うねる波が消波ブロックにぶつかっては白い飛沫を撒き散らす。不安定な雷鳴を奏でる空はフラッシュを焚いたように何度も明滅し、ときどき地上に向かって稲光を伸ばした。耳を抑えてうずくまりたくなる衝動を必死にこらえる。ここは家じゃない。私には帰るべき家なんてどこにもない。
念のために持ち歩いていた折りたたみ傘を開き、一応「傘持ってる?」とシャニに訊ねる。彼は当然のように首を横に振った。腕を少しだけ上げ、シャニが濡れてしまわないように傘を傾ける。とはいえ、折りたたみ傘のサイズはひとりで使うときでさえ少々小さく、ふたりでさすとさらに窮屈だった。肩や脚にぼたぼたと冷たい雨粒が落ちてくる。おまけに、シャニの頭に傘のつゆ先が当たってしまっているようで、業を煮やした彼は、私の手から持ち手を奪い取った。
「ごめん」と「ありがとう」を続けて言うと、彼の返事を遮るように、私たちの体に鋭い突風が吹き抜けていく。折りたたみ傘はばこっという間抜けな音を立て、あっという間にひっくり返った。
「あれ」
いくつもの骨組みがあらぬ方向に折れ曲がっている。布地がだらしなく垂れ下がった傘を見つめ、シャニはうっすらほほえんだ。雷光と雷鳴の間隔は徐々に短くなり、地面に落ちる雨粒は打楽器のような音を打ち鳴らしている。雨宿りしようにも、CDショップの一角からはもうずいぶん離れてしまい、あたりを見渡したところで吹きさらしの道路に街路樹が並んでいるだけだった。塩害に強い種類だけを集めた街路樹は強風に吹かれ、濡れて重くなった葉を狂ったように踊らせていた。
「どうしよう」
途方に暮れて立ち尽くす私に、傘の残骸を持ったシャニは、意外にも「どうしようって、ホテルに帰るしかないだろ」と冷静に言い放った。彼が身にまとうTシャツはびしょびしょに濡れて色が濃くなり、ゆるやかなウェーブをえがく髪は水気を含んで伸びきっていた。私の服もあちこちが肌に張り付き、雨に濡れた体が芯から冷えてきている。この場で立ち止まるのは危険だ。シャニの言うとおり、一刻も早くホテルに戻らなければ。
一歩先を歩くシャニにすぐ追いつこうと、重たくなった片足を前に出した。小さな水たまりにつま先をつけ、びちゃびちゃと水音を立てながらかかとを着地させる。足首に水たまりの飛沫がかかり、眉をしかめる。ふいに、視界が白一色に光った。目がくらむような閃光は、驚いてこちらを振り返ったシャニの姿を霞ませる。ばりばりと空が裂けるような激しい轟音が私の頭上から足先にかけてを貫き、なにかを焦がしたような強烈なにおいが、鼻の奥を通って喉の水分を奪っていった。
時が止まってしまったかのような錯覚を覚えたけれど、実際には一瞬の出来事だった。閃光のせいで白んだ風景が、すぐに元の雨景色を取り戻していく。雷雨に打たれるシャニは、宝石のように美しい目を潤ませて私を見つめていた。そのまなざしは熱に浮かされ、ありもしない安らぎを求めてもがいている。彼にそんなふうに見つめられるなんて、露ほども思っていなかった。彼は私ではなく、私の体の向こう側にあるなにかを見ているのではないか。そんな気さえした。
おそるおそる後ろを振り返る。数メートル先に、雷に打たれて煙を上げる街路樹があった。樹皮は稲光そのもののように裂け、中の繊維が飛び出している。少し距離があったから助かったものの、私たちの近くに植わった街路樹にあの雷が落ちていたらと思うと、ぞっとする。事実を確認した途端に、ようやく額から冷や汗が流れ、心臓が早鐘のように鳴り響きはじめた。
「早く帰ろう、シャニ」
立ち止まるシャニにそう呼びかけても、彼は一向に歩こうとしなかった。落雷の衝撃が、シャニのおかしな変化に対する困惑へと上書きされていく。うっとりと私を見つめ、紅潮した頬に雨粒がつたうのを拭いもしない。
シャニ、ともう一度呼ぶと、彼は濡れてつやつやと光る唇を開いた。
「きれいだな」
「雷が?」と私は力なく付け加えた。なぜか声はかすれ、弱々しく震えていた。
「お前のこと、俺が殺してやりたいよ」
シャニは私の背後になにを見たのだろう。私となにかを重ね合わせたのだろうか。私が雷に打たれたと思い、ひどく興奮したのだろうか。
デッキで会ったあの日と今日が、雷を通じて乱暴に繋がる。私は小刻みに震える足を踏み出した。靴はとっくに浸水し、歩くたびに靴下がぶよぶよと肌にまとわりつく。
「いいよ、シャニになら」
彼を追い抜きながらそう宣言する。私はいつだって臆病者だから、せっかくのチャンスが舞い降りてきたにもかかわらず、シャニの目を見て「いいよ」と言えなかった。シャニと違って弱いから、漠然とした恐怖を口にした。
「死ぬときって痛いのかな」
「痛くたって一瞬だよ」
すぐさま追いついたシャニがひょうひょうと答える。「そんな一瞬のこと、心配してどうすんの」
「分かんない」
まつげの先からすべり落ちた雨粒が眼球に広がり、今度は視界が雨ざらしのガラスのようにぼやけた。死ぬときに体が痛むかどうかなんて、ほんとうはどうでもよかったのかもしれない。私が感じた恐怖は、彼と一緒でなければ死にたくないと思ってしまったことだった。誰よりも死に近く、誰よりも死に疎いシャニが、私と添い遂げるなんてありえない。冷えきったはずの身体が火を吹いたように熱くなり、急激な変化に耐えきれずめまいを覚える。行きと同じようにシャニの肩にぶつかったけれど、彼はなにも言わなかった。ただ隣に寄り添い、私の歩幅に合わせて歩いていた。
ホテルに帰った私たちはシャワールームへ直行し、ずぶ濡れの体を熱いお湯で温めた。窓のない密室でシャワーを浴びているときも、絶え間なく聞こえる雷鳴が鼓膜をびりびりと響かせていた。今日の天気予報は晴れのちくもりだったのにな、と不満に思ったが、すでに降られてしまったのだから文句を言っても仕方がない。
シャワールームの外へ出ると、ちょうどシャニも廊下に出たところだった。濡れた服をまとめてランドリーサービスに預けてから、ふたりでエレベーターに乗り込んだ。スウェットを着込んだシャニは眠たそうに目を細め、ときどきこくりこくりと船を漕いでいた。時折触れ合う肩がほんのりと温かい。髪はエレベーターの照明を受けてしっとりと輝き、毛先からしずくが滴っている。部屋に戻った彼は、きっと髪を濡らしたまま眠りこけてしまう。せっかく熱いシャワーを浴びたのに、濡れた冷たい枕で眠るシャニのことを不憫だと思った。
「髪の毛、乾かしてあげるよ」
私の提案とともに、エレベーターの扉がなめらかに開いた。シャニは唇を閉ざしたまま、「うん」とか「ううん」とか、あいまいな返事をして目をこする。照明を控えめに落とした廊下には、激しい雨音と人の話し声が渦巻いている。夕方の客室は静かな部屋もあれば、仲間同士で寄り集まり話に花を咲かせる部屋もあった。
シャニに割り当てられた部屋は、私が過ごす部屋とさほど変わらないごく普通のシングルルームだった。飾り気のないデスクの前に彼を座らせ、備え付けのドライヤーで湿った髪を乾かしていく。彼は椅子の背もたれに背中をべったりとくっつけ、完全に脱力していた。ぴかぴかに磨かれた鏡の中を覗き込むと、髪にブラシをすべらせるたびに穏やかな寝顔がゆっくりと揺れる。あまりにも気持ちがよさそうだったのでずっとこうしていたかったけれど、頃合いを見てドライヤーのスイッチを切り、コードを折りたたんで引き出しにしまう。大雨に洗われる窓ガラスは荒々しい風を浴びてがたがたと音を立てて震え、雷火はなにかを突然思い出したようにまたたく。外と違って、客室の中は奇妙なほど静かだった。
ふわふわと波打つ髪を取り戻したシャニはベッドに寝転び、唇の先でなにかむにゃむしゃとつぶやいたあと、やがてぐっすりと眠ってしまった。私は彼の肩に布団をかけ、デスクに置いたふたり分のレジ袋を手に取った。びしょ濡れだったので水気をタオルで大方拭き取ったものの、CDショップの袋はひんやりと冷たい。中のCDケースを取り出し、嵐が吹き荒れる窓に向けて掲げてみる。透明なフィルムに包まれた白いジャケットは、明かりを消した部屋の中で沈んだ色に染まっている。
シャニが目を覚ました頃には雷雨も治まり、水滴にまみれた窓は何事もなかったかのように港の星空を映していた。ルームサービスでかんたんな夕飯を食べたあと、シャニはパソコンを立ち上げ、買ったばかりのCDから外側のフィルムを破き、慣れた手付きでプレーヤーに取り込み始めた。まだ寝ぼけているのか、私が買ったCDまで同期している。プレーヤーに表示されたジャズのアルバムを確認すると、シャニはあっ、と一瞬目を丸くし、そしてすべてを諦めたようにそれを枕元へ放った。
「いいの?」
「消すのめんどい」とパソコンをシャットダウンしながらシャニは言った。不本意とはいえ、限りある容量のプレーヤーに私の買ったアルバムが入っているのかと思うと、どうしてもくすぐったい気分をおさえきれなかった。
「ありがとう。その、私のも入れてくれて」
「なにが? 俺もう寝るから」
彼は大きなあくびをし、目を細めた。にじんだ涙が目尻からこぼれ、ゆるんだ頬にすべり落ちる。その穏やかに流れた涙を、指先で拭ってあげたい。それができない代わりに、私はただただ下唇を噛み締める。そして、朗らかに笑顔を作った。
「いっぱい歩いたもんね、おやすみ」
布団にもぐり込んだシャニは「うん」と短く返事し、しばらくもぞもぞと動き回り、電池が切れたようにおとなしくなった。布団の中からすうすうと可愛らしい寝息が聞こえる。私は白いジャケットのCDが入った袋を提げ、彼の部屋をあとにした。シャワーを浴びたあとのシャニは、私の目を見なかった。なぜかほっとした。デッキで魅惑的に誘ってきたシャニや、落雷で命を落とす私を夢想するシャニに、私は恋焦がれていたはずなのに。
陸酔いはいつの間にかすっかり治っていた。ホテルのロゴが入った藍色のスリッパを履いた足は、廊下に敷かれたカーペットを着実に踏みしめる。
自分の部屋まであと数歩だった。エレベーターから降りてきた上官が、背後から私を呼び止める。休日だというのに、彼の表情は妙にやつれていた。一言二言ほど雑談をし、彼はわざとらしく咳払いをする。上官の顔を見たときから分かっていた。この人は、おしゃべりをするために私を呼び止めたわけではない。
上官は私に転属命令を言い渡し、来た道を引き返していった。
2024.09.01
タイトル「失青」様より