三回転半と閃き宙返りA
ふと頭上を振り仰ぐと、火球がひとつ、薄緑色の光を放ちながら星々の間を流れた。目がくらむほど激しく光り輝いた火球は、じゅわ、じゅわと焦げたような音を立てたかと思うと、濃紺の夜空と溶け合い、やがて跡形もなく消えた。
「……フォビドゥン」
明かりが消えつつある住宅街の前で凍りつくように立ち止まり、手に提げた鞄をすべり落とす。思わず口にしたその懐かしい単語は、数年前に付き合っていた恋人が乗っていた機体の名前だった。冬の寒さで乾いた唇が、根から熱を持ちはじめる舌が、アイスグリーンの響きを憶えている。頭の端に無理やり押し込んでいた記憶が息を吹き返し、膿んだ傷口を切り広げながらとめどなく溢れてくる。するどい棘が生えた追憶は、一度よみがえれば簡単に身体を蝕んでしまう。
私たちはドミニオンに乗艦していた。
私はフォビドゥンを整備するグループの一員だった。
私はフォビドゥンのパイロットであるシャニ・アンドラスを愛していた。
それなのに私は、シャニを残したまま宇宙を離れた。
ドミニオンもフォビドゥンも、大好きなシャニも、もうこの世に存在しない。
今は何食わぬ顔で労働に励んでいるけれど、私は艦長の指示に従って脱出艇に乗り込み、奇跡的に助かったドミニオンの生き残りだ。複数あった脱出艇のうちの一隻が戦闘に巻き込まれ、乗員は一人も助からなかったと聞く。
ボタンをひとつかけ間違えていたら、私も真空空間で命を落としていたかもしれない。背筋がぞっとする体験ではあるけれど、命の尊さをしみじみと噛みしめるよりも深く、別のなにかを渇望してしまう。そんな自分が恐ろしくて、地球に帰ってきた私は逃げるように除隊し、長い休養を挟んでから一般企業に就職した。形のない記憶と化したシャニを、日に日にぼやけて冷たくなっていく思い出を、震える手で温め続けたくなかった。けれども、過去にとらわれて生きるのはいやだと思いながら、実際は過去にとらわれながら生きている。今のように。
シャニはふわふわと波打った髪にアメトリンのようなオッドアイを持ち、いつも大音量で音楽を聴いていて、ミステリアスな容貌とは裏腹に少し子供っぽいところがある男の子だった。若くして軍隊に身を置いた私は、大人たちが大勢いるなかで、彼の冷えびえとした童心に救われていた気がしてならない。当時は自分が救われていたなんて考えたこともなかった。あるいは、私が大人になったせいで、都合の良い追憶を生み出しているだけなのかもしれない。
ともかく、膝の上ですやすやと眠るシャニを見ているだけで、広大な宇宙に漂う恐ろしさを少しだけ忘れることができた。今は文字通り地に足をつけて生きているにもかかわらず、シャニがいなくても平然と回る世界が、自分が、ときどき怖くて仕方ない。
友人はみな、シャニのことを元彼と呼ぶけれど、私は彼と別れたつもりはなかった。繋がった糸がぷつんと千切れてしまっただけ。わざわざ「さようなら」を言う必要はなかったし、言われたこともない。
でも結局、と深いため息をつくと、白い息が路上に舞い上がる。実際のところ、私たちは艦の中でけんかばかりしていた。出会いからして険悪そのものだった。もう少し関係が続いていたら、本当に別れていたかもしれない。
最後にシャニと会話をしたときも、二人の間にはぴりぴりとした空気が立ち込めていた。二人だけではない。ブリッジも、医療班も、私たち整備スタッフの間にも、ドミニオンのあちこちで金臭い空気が充満していた。
「シャニ、待って」
持ち場の格納庫からキャットウォークの入り口に駆け込んだ私は、出撃を控えたシャニの前に立ちはだかった。廊下の暗がりの中で、彼の片目が夜行性の生き物みたいに光っている。パイロットスーツを身に包んだシャニは、息を切らす私を冷淡な眼差しでとらえ、威圧するように見下ろした。
「どいて」
「やだ。もうこれ以上、シャニの苦しむ姿なんて見たくない」
焼けつく喉を震わせながら懇願すると、彼はばかにしたように鼻で笑った。
「なに言ってんの。お前、メカニックだろ。俺がぼろぼろになっても、ちゃんと元通りに直してくれるんでしょ。あの白衣の人たちみたいに」
シャニのささくれだった発言に頬がかっと熱くなる。私が、あの研究員たちと同列だと言いたいのだろうか。出会う前はともかく、親密な関係を築いた今も? 私はシャニの恋人なのに、私がどんな眼差しでシャニを見つめているかよく知っているくせに、彼はときどき、突き放すような言葉を私に浴びせる。
「シャニこそなに言ってんの。私、シャニをパーツとしてなんて見てないよ。シャニは私と同じ人間なのに」
「俺とお前が、同じ人間? 全然同じじゃないよ」
私の反論はシャニの苛立った声に遮られる。自分のことを物怖じしない性格と自負していたのに、このときばかりは彼の凄まじい怒気にすくみ上がった。普段から怒りっぽい人ではあったけれど、迫りくる刃物のような殺気を向けられたのは初めてだった。
「なんで。なんでそんなこと言うの」
「うるさいな、事実だろ。そばで散々見てきたくせに」
シャニはがたがたと震えだした私の肩を押しのけ、キャットウォークの柵に手をかける。ここからフォビドゥンのコックピットまで宙に浮きながら移動するつもりらしい。
「行かないで」
私は悲痛な声で叫び、ふわりと浮き上がったシャニの腰に死に物狂いで抱きついた。まとわり付かれた彼はゆっくりと振り向き、追いすがる私を視野の中に入れた。無重力空間に浮かぶ前髪は、シャニの見開いた両目を数秒だけ露わにすると、着地とともに左目を再び覆い隠してしまう。
シャニの背中が柵にぶつかり、二人してずるずると床に座り込む。私は彼の首元に腕を回し、体重をかけてぎゅっと抱きしめた。分厚いパイロットスーツは彼の鼓動の音を封じ込める。彼にはきっと、私の音も伝わらない。私の耳に届くのは自分自身の煩わしい心音ばかりで、悔しさのあまり涙がこぼれ落ちた。
ほんの少しだけ機嫌が良くなったのか、シャニは私の後頭部に手を回すと、二人きりの部屋でそうするみたいにやさしく頬擦りをした。
「ほっぺ、熱いね。なんで泣いてんの」
触れた頬同士がお互いの体温を確かめ合うようにやわらかく擦れる。シャニの肌は普段よりも水分が失われていたけれど、温もりはたしかに存在していて、薄い皮膚の下には血潮が滲んでいた。
「ナマエって、泣いてるときはいつも身体が熱くなる」
物静かな声色に喜々をわずかに含ませながら、シャニは口元を綻ばせた。そして、泣きわめく子供をあやすような手つきで頭を撫でると、愛おしい時間を潔く断ち切る。立ち上がったシャニに引きずられるように、私もよろよろと腰を上げた。束の間の幸せに浸っていた脳内は急激に凍てつきはじめ、涙でぼやけた視界から彩度が失われていく。絶望の味は無味無臭だった。シャニの頭の中では、死という文字が定義ごと吹き飛んでいるのだと、私はこの瀬戸際にようやく理解したのだった。
死の恐怖を忘れた彼の手がもう一度柵を掴む。そのまま身を乗り出すと、投薬を繰り返して疲弊した背中が、キャットウォークからフォビドゥンに目掛けて徐々に降下していった。
目的地にたどり着いたシャニは、いつものように研究員から渡された薬を一気に飲み干した。遅れてやってきたパイロットを待ち受けるかのように、コックピットハッチが颯爽と開く。その一連の流れはもう何度も見た光景のはずなのに、この日だけはコマ送りの映像をガラス越しに眺めているような気分だった。私は何か、予感めいたものを感じていたのだと思う。冷や汗が背中をつたい、柵を握りしめる拳が小刻みに震えていた。
コックピットへ乗り込む前に、彼はキャットウォークに立ちすくんだままの私に向かって、ちらりと視線を送った。その表情が笑っていたのか怒っていたのか、はたまた無表情だったのか、機体との距離が遠すぎて判断できない。ぼんやりした横顔を網膜に焼き付けるのが精一杯だった。シャニの姿はあっという間に格納庫から見えなくなってしまう。
発進シークエンスと共に熱い風が起こり、私は思わずまぶたを閉じた。聞き慣れた轟音が格納庫に響き、床と壁が振動する。風はすぐに止んだ。目を開けたときにはすでにフォビドゥンの姿はなく、機体もパイロットも二度と帰ってこなかった。
運良く助かってしまった私にも、地球に戻ってからはようやく友達と呼べる人が何人かできた。新しく始めた仕事も順調に進んでいる、と思う。多分、周りの人も前向きに評価してくれている。でも、成功した実感も喜びも、砂に塗れているようでうまく飲み込めない。自分を取り巻く環境すべてが張りぼてみたいだ。
入隊前や軍属のころよりも、除隊した今の方がずっと豊かで幸福な生活を送っているはずなのに、私の心に開いた穴はいつまで経っても塞がらず、どんなに清らかな水を注いでも満たされることはない。満たされないまま、なんでもないような顔をして生きていけてしまう。シャニが私の膝の上で眠らなくても、ほんの些細なことで言い争いをしなくても、やわらかな唇でお互いの温もりを感じなくても、私の世界は工場のベルトコンベアのように忙しなく動き続けている。その薄情さがどうしようもなく悲しい。私はシャニが大好きだったのに、彼が隣にいなくても平然と息をしている。自分の手で首を絞めてみても喉と顔がびりびりと痺れるだけで、肺は酸素を求めて浅ましく膨らむ。
川の流れに身を任せて生きようとしている自分が、死に損なった後悔に苛まれるときと同じくらい恐ろしかった。ゆるやかな川の先に待ち受けるのは、だだっ広いだけのつまらない海だ。そこにシャニはいない。
「私もやっと大人になったんだね」と自分で自分に語りかけてしまえばそれまでだ。あのころの私は、例え相手が誰だろうと、不満があれば反抗的な態度を取るろくでもない子供だった。だから、シャニとは頻繁に衝突した。気持ちをちっとも分かってくれない彼にいちいち腹を立て、みっともなく泣き喚いた挙句、拗ねて数日間口を聞かないときもあった。
大人になってしまった今なら、難儀な性格のシャニを受け入れる余裕も以前よりはあるし、説明を試みる胆力も、ごめんねと素直に謝る柔軟さだって持ち合わせている。それなのに、これらを発揮する機会は二度とやって来ない。もうシャニと会えないのなら、大人になんてならなければよかった。
命を賭して逃がしてくれた艦長の心遣いを無下にするようで心苦しいけれど、私のこの命は、ドミニオンやフォビドゥン、そしてあの炎に包まれた脱出艇と一緒に散るべきだったのだ。肉体から解き放たれたシャニは、もうあの忌まわしい薬を飲まなくていい。シャニを取り巻くしがらみは消えて無くなり、機体の消耗パーツとして扱われずに済む。そうすれば、私たちはきっと救われる。私だけ救われるのは公平じゃない。挑戦に年齢は関係ないと、どこかの誰かも言っていた。今からでも遅くないはずだ。
火球が流れた位置に向かって目いっぱい手を伸ばすと、舞台上を照りつけるスポットライトのように、満天の星空がぎらぎらと輝き始めた。何度も祈りかけては中断した願いが鎌首をもたげる。私が行きたい場所は母なる海なんかじゃない。シャニが漂っている冷たくて暗い宙だ。
ふいに後方から、ばりばりと空気を切り裂く音が聞こえた。驚いて道路に目をやると、一台のバイクが風を切りながら猛スピードで走り抜けていく。おだやかに瞬く星を散りばめた暗幕が、静かに降りてくる感覚があった。
私は膝からへなへなと崩れ落ち、路上に落としたまま放置していた鞄を凍える手で掴んだ。耳をつんざくようなエンジン音が、私を現実の世界に引き戻したのだ。少し先の道に立つ街灯が頼りなく明滅し、高層マンションから漏れる光がひとつ、またひとつと音もなく消えていく。
ああ、と声にならない声を上げながら、私は地面を踏みしめるように立ち上がった。やっぱり、私には死へ突き進むだけの度胸がない。きっとこれからも、シャニへの情愛をひっそりと抱えたまま、傷ついていないふりをして上手に生きていく。私は本当に大人になれたのだろうか。胸に深く突き刺さった悲しみをひたすら隠して生きることは、はたして大人の振る舞いなのだろうか。
子供の私がささやく。いつか何かの拍子に、フォビドゥンの破片が地球に降り注いでくれたらいいのに。私はかつて自分が整備を担当していた機体の、氷のような色の破片に身体を潰されて死にたい。
その日見た夢の中に、本当に久々にシャニが出てきたような気がする。けれども、そんな気がするだけだった。
2023.01.21
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より