三回転半と閃き宙返り@
20秒、40秒、60秒。深く息を吸って、また秒数を数える。30秒、60秒。騒音がけたたましく響く床に、硬いブーツの先端を数回ぶつける。火にかけた熱湯が鍋からあふれ出るように、沸き起こる苛立ちを抑えられない。一体、いつまで待てば作業に入れるのだろうか。
私は乾いた下唇を噛み締めながら、氷山に落ちる陰影のような色の機体を見上げた。宇宙空間での演習を終えたフォビドゥンがこの格納庫に帰投してから、ゆうに10分は経過している。カラミティとレイダーの方はとっくに整備に取り掛かっているというのに、こちらはパイロットすら降りてこない。
もう限界だ。これ以上待ちぼうけを食らうなんてまっぴらごめんだ。しびれを切らした私は、床を強く蹴り上げて宙へ浮かんだ。下にいる整備班の誰かが「おい、よせ!」と私を咎めるが、形だけの忠告など知ったことではない。私を止めるくらいなら、フォビドゥンのパイロットを今すぐ引きずり出してほしい。それができないのなら、黙ってそこで事の顛末を見ていれば良いのだ。
コックピットの扉を平手で叩く。思い切り叩いたにもかかわらず、景気の悪い音がバンと小さく鳴るだけで、頑丈な扉はびくともしない。当たり前だ。
「ちょっと、早く出てよ! 整備できないんだけど!」
周囲の作業音に負けないように声を張り上げてみても全く反応がない。握った拳を怒りに任せて思いっきり振りかぶると、下から「馬鹿げた真似はやめろ!」と主任の怒鳴り声が聞こえた。
ふいにコックピットの扉が開き、私は握り拳を顔の横に置いたままぴたりと硬直した。頭に上った熱い血が引き潮のようにさっと引いていく。開放されたコックピットの中は異様な空気に包まれている。その重苦しい空気はゆっくりと私の足の間を通り抜け、格納庫の騒々しい空気と触れ合った。
パイロットはなんとか座席から立ち上がってはいたものの、そこから一歩も先に進めないようだった。折り曲げた身体を小刻みに震わせ、紫色の美しい瞳を嵐に見舞われた河川のように濁らせている。彼はぜえぜえと息を切らしながら、透明感のある声を苦しげに歪めた。
「うるさい、うるさい……」
繰り返し吐き出すうわ言は、熱に浮かされた病人が悪夢に苛まれながらふらふらとさまよっているように見えた。呆気にとられ、その場でただ立ちつくしていると、早く降りろと喚き散らす別の声が耳に届く。格納庫へ慌ただしく降りてくる研究員らしき足音も一緒に。
パイロットの姿を一目見た瞬間から、燃え滾る怒りの炎はとっくに消え失せている。彼らの警告通り、大人しくコックピットから降りる素直さを持ち合わせていたはずなのに、私はあろうことか扉を殴るはずだった拳を解き、その手でシャニ・アンドラスの左手を掴んだ。どうしてそんな出過ぎた真似をしてしまったのか分からない。メカニックとしての――禁断症状に陥った生体CPUへの憐れみか、それとももっと別の感情が湧いたのか、やっぱり理解できないけれど、私はパイロットスーツ越しに伝わるほど冷たくなった彼の手を取り、力いっぱいに引っ張った。
コックピットを離れた二人の身体は後方へ流されていく。涼しげな色合いの癖毛が無重力空間の中でふわりと舞い上がり、ひとつの乱れた瞳が私をとらえた。唇の表面はひび割れ、ところどころ切れて血が滲んでいる。私は、誤って落として砕けた鉱物を、急いで拾い上げているような気持ちになった。それも、ただの鉱物ではない。アメジストに加熱処理を施して作ったアメトリンだ。
彼は片手を繋いだまま、持てる力を振り絞るように動き出し、私の腰あたりにすがりついた。必死にしがみつく指は鋭い爪を突き立てるように食い込み、腰の骨をぎしぎしと軋ませる。
「いたっ……!」
突然襲いかかった痛みに顔を歪ませると、背中に軽い衝撃が走った。格納庫の壁にぶつかったのだ。私たちはもつれ合った体勢のまま、ゆるゆると壁伝いに落ちていく。床の感触を足で感じた途端に、彼の身体が事切れるように崩れ落ちた。驚いて肩に触れると、パイロットはしっかりと息をしていた。
私の膝の上で呼吸を乱す彼を、駆けつけた研究員と衛生兵たちが手際よく介抱する。軽々と担架に乗せられ、あっという間に医務室へ運ばれていくパイロットを呆然と見つめていると、「歯ァ食いしばれ」という怒号とともに、整備主任の鉄拳が頬にめり込んだ。
戦闘状態とは比べ物にならないほどましではあるけれど、今日は本当にひどい目に遭った。自室のベッドの端に一人腰掛け、ずきずきと痛む頬をさすりながら深いため息をつく。
あのあと、主任たちにこっぴどく叱られた。もちろん私のせいだ。私が怒りをコントロールできなかったのが悪い。拳一発と叱責で済んだのはむしろ幸いだったかもしれない。
なぜ宇宙に上がってしまったのだろう。今更後悔しても遅すぎるけれど、私には軍隊に身を置くだけの素質がないように思える。一刻も早く荷物をまとめ、すみやかに除隊してしまいたい。――除隊したところで、その先に何か希望があるわけでもないのに。
足の裏を床に付けたまま仰向けに倒れこむ。少なくとも軍を抜けたら、こんなごわごわのシーツで眠ったりしないだろう。もっと手触りの良いシーツを敷いて、綿をぱんぱんに詰めたふかふかの布団を合わせて、枕もしっとりと頭に馴染む柔らかいものを選んでやる。
ぱたぱたという足音とともに誰かが部屋に入ってくる。ここは相部屋だから、同室の同僚が任務から帰って来たのだろう。きっと今日の悶着を面白おかしくからかわれる。憂鬱に身を浸しながらまぶたをぎゅっと閉じると、ベッドがトランポリンのように弾み、くたびれた膝の上に何かが落ちてきた。このざらついた感触を、私はよく知っている。つい数時間前に格納庫で体験したからだ。
おそるおそる半身を起こす。部屋に入ってきたのはルームメイトではなく、制服姿のシャニ・アンドラスだった。例の薬を投与され、医務室で休んでいるはずの彼は、我が物顔でベッドに倒れこみ、癖毛の頭を私の膝の上に乗せている。わけが分からない。どうしてこんな場所に迷い込んでしまったのだろうか。
「ここ、私の部屋なんですけど」
おずおずと訊ねてみても、返ってくるのはうめき声ばかりで全く埒が明かない。
「いたい……」
身体のどこかがまだ痛み続けているのか、彼は時折背中を丸めては苦しげな息を漏らす。コックピットで見たときよりは顔色が随分良くなっているけれど、まだ完全に回復したわけではないらしい。医務室の見張りは一体どうなっているんだと舌打ちをしたくなった。
「どうしよう」
頭の中が非常事態の混乱に陥っていく。面識がほぼないとはいえ、弱った人間を部屋から叩き出せるほど非情ではない。数時間前はパイロットをコックピットから引きずり出してやると怒り狂っていたのに、自己矛盾にげんなりする。
「ねえ、痛み止めの薬がいる? 取ってこようか?」
「いらない。そんなの俺に効くわけない」
「じゃあ私にどうしろと」
困り果てて肩を落とすと、膝の上に乗る頭がもぞもぞと動いた。長く垂らした前髪の間から金色の瞳が覗く。格納庫で見た瞳は紫だったのに、と不思議に思ったけれど、すぐに合点がいった。右と左とで瞳の色が違う人なのだ。色の組み合わせまでアメトリンとよく似ている。
「痛み止めなんかどうでもいいから、ここにいて」
無遠慮に見惚れる私に杭を打ち込むように、鋭く光った彼の瞳がぎろりと睨みつけてくる。ぎこちなく頷くと、彼は深呼吸を何度か繰り返し、うつろな瞳を静かに閉じた。
その様子を固唾を呑んで見守っていたものの、ほどなくしてすうすうと安らかな寝息が聞こえてきた。緊張感に包まれた上半身がへなへなと脱力する。私だけではなく彼の方も、強張った身体から力がすっかり抜けている。無事というべきか、ぐっすりと眠ってしまったようだった。
露わになったまぶたを覆い隠すように、彼の割れた前髪を指でそっと整える。なんとなく、これ以上この人の姿を細部まで捉えてはいけない気がした。この場所に余計な人間関係など必要ない。軍人の適性がないことをますます自覚してしまうけれど、正直私はモビルスーツの整備ができればそれで良いのだ。
ではなぜあのとき、私は彼の手を引いてしまったのだろう。ばらばらに壊れてしまいそうだったこの人を、あのまま放ってはおけないと強く思った。人間関係を煩わしく思っていても、目の前で誰かが苦しんでいるのなら、その相手に手を差し伸べるのは当然だ。研究員の到着など待っていられない。
私は膝の上で眠るこのパイロットを、巨大な機体を動かすためのパーツとされる生体CPUを、自分と同じ人間として強く認識したのだと思う。いずれは廃棄される運命にある消耗品が、耐え難い痛みにもがくものか。
前髪の位置を崩さないよう慎重に、うねった薄緑の髪をつむじからうなじにかけて指でこわごわとなぞる。奇怪な行いだ。崩したくないのなら、触らなければいい。あのあと医務室で激しく暴れたのか知らないが、つやのある髪はぐしゃぐしゃに乱れている。だから、直すだけだ。髪型を手櫛で申し訳程度に整えるだけ。
私は彼の絡まった髪の束を解きほぐし、頭皮を引っ張らないように指で慎重に梳かした。ちょうど左半分を整え終えたころ、彼はようやく目を覚ました。ゆっくりとした動作で私の膝から体を起こす。案の定、髪の右半分はくしゃくしゃに崩れているけれど、体調はだいぶ良くなったように見える。
ほっと胸をなで下ろすと、彼は眉根を寄せながら私を見据えた。
「なんだよ」
不機嫌そうな声色は、目が合った人に難癖をつけて絡む不良学生のようだった。お礼を言われるとは全く思っていないけれど、第一声がそれか、とがっかりした。
「なんだよじゃない。部屋を間違えてるよ」
「全然間違えてない」
彼の態度は驚くほどあっけらかんとしている。追及をすればするほど労力を無駄にする気がして、閉口した。
「頬が腫れてる。真っ赤」
なにかを探るような手が伸びてきて、私の腫れた頬に触れる。彼の手は程よくひんやりと冷えていて気持ちが良かった。飛んできたボールが顔面にぶつかり、保健室で氷を当ててもらった鈍臭い子供時代を思い出す。氷嚢の色は確か薄緑色だった。薄緑色で、へんてこな柄がプリントされていた。
「あのあと、整備主任に怒られちゃって。当たり前だけど」
「ふーん。てか、なんでタメ口なんだよ。階級は俺の方が上。知ってた?」
知っているに決まっている。謝るべきか開き直るべきか考え込んでいると、私の返答を待たずに、シャニ・アンドラスの表情から目先の興味が失せていく。頬に当たっていた氷嚢のような手のひらも一緒に離れていった。
「まあいいや。お前が今更敬語とか、なんかキモいし」
怒る気力は格納庫の一件ですっかり削り取られてしまっていた。代わりに「ひどい言い草」と肩をすくめると、彼はすでに私の方を見ていなかった。ベッドから足を下ろし、私が座った場所から少し離れたところへ腰掛ける。前髪で隠れた横顔を眺めながら、手櫛を入れて正解だったとぼんやり思った。
「それで、どうして私の部屋に来たの」
「あれ、なんでだっけ」
彼はうーん、だとか、えーっと、などと口ごもったあと、まだ眠たそうな顔を私に向けた。
「あーそうだ。医務室なんかで寝てられねーって思ったから」
「自分の部屋があるのに?」
「コックピットの外でお前にしがみついたとき、なぜだか居心地がよかった」
そんなこと言われても、正直困惑してしまう。浮遊した数分間に見た彼の姿をひとつひとつ思い返しても、居心地の良さそうな瞬間は一切無かった。パイロットスーツ越しに食い込む爪、跳ねるように乱れる痛ましい呼吸音、私よりも背が高く体つきも逞しいはずなのに、ずっと小さく見えた震え続ける身体。
彼が嘘をついているとは思わない。けれども、だからといって素直に喜んでいいのか分からない。
「そう。私は少尉の枕代わりってわけ」
口を衝いて出た言葉は刺々しい響きを持っていた。胸の端っこが針で突かれたみたいにちくちくと痛む。
「また怒ってる」
「怒ってない。ただ、おかしなことを言う人だと思っただけ」
「お前も十分おかしいよ」
彼はそう吐き捨てると腰を上げ、私に背を向けてドアの方へゆったりと歩いていく。後ろの髪も右半分は鳥の巣のように絡まり合っていた。
「ちょっと待って」
とっさに呼び止めたあと、少し迷いながら「シャニ」と彼のファーストネームを付け足す。名を呼ばれた彼は黙って立ち止まり、後ろを振り返った。
「髪の毛がぐしゃぐしゃだから梳かしてあげる」
「枕だけじゃなくて理容院も兼ねてるんだ?」
シャニの唇が弧を描く。お世辞にも穏やかとは言えない、挑戦的な笑顔だった。
「髪の毛は切れないけどね。座って」
彼が座っていた場所をぽんぽんと叩くと、シャニは大人しく戻ってきた。ベッドサイドの引き出しにしまったブラシを取り出す。柔らかい毛質が気に入っているブラシだ。
私はベッドの上に膝立ちになり、シャニの髪を整えていった。絡まった毛を丁寧に梳かし、地肌をマッサージするようにブラシを動かしていくと、髪はみるみるうちにふわふわと波打つ。
「私、ナマエ・ミョウジ。知らなかったでしょ、私の名前」
「うん。興味ないし」
「ファーストネームを覚えてくれたら、私のこと枕にしてもいいよ」
シャニの後頭部にブラシをかけながら、私は保湿した唇を噛み締める。あんなに疎んでいた人間関係を、とうとう構築し始めてしまった。私という個人を誰かに必要とされたのは、生まれて初めてのことだったから。――今のところは枕扱いのようだけれど。
「ナマエ」
シャニは私の名を呼んだ。柔らかな声音で音の響きを確かめるように、ゆっくりと呼んだ。
誰かに名前を呼ばれて、吹き渡る風を受けた草原のように胸がさわさわと涼やかに揺れたのも初めてだった。
2023.01.07
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より