散開
- ナノ -

願い続けてあげようか

※現代転生

 膝の上で眠るシャニが微かな声でなにかを呟いた。言葉に満たないその声は、紙の匂いが薄っすらと漂う室内と私の鼓膜を小さく震わせ、すぐに静寂が戻った。
 私はソファに腰掛けながら、彼のうねった癖毛を手のひらで撫でる。膝の上で丸まって眠りこけるシャニは大きな猫みたいだった。髪や頬以外の部位はあまり柔らかくない猫だ。けれど、柔らかくなくても私は、彼の皮膚の下に流れる血潮の温度を知っている。
 この触り心地の良い髪も、膝に乗る頭の重さも、太ももに添えられた手からじんわりと伝わる温もりも、随分身体に馴染んだ。もうシャニのいない生活など考えられないほどだ。彼を手放さなくて本当に良かったと心の底から思う。
 大学の後輩であるシャニがうちのマンションに転がり込んできたのは、半年ほど前の土曜日だった。バイト先のレコードショップで、中古レコードを乱暴に扱う客のおやじと喧嘩になり、騒動があったその日のうちにクビを切られたのだという。正直なところ最初は、いくら仲の良い後輩とはいえ、恋人でもない人間をうちに住まわせるのはどうなのかと悩ましく思った。
 けれども、日を重ねるごとにシャニは、パズルのピースのように私の生活にぴったりと嵌まっていくのだった。事の発端から今日までたったの半年しか経っていないはずなのに、今では彼を自分の身体の一部のように愛しく思っているのだから、人生というものはいつ何が起こるか分からない。
 そう遠くない過去を懐かしみながら、シャニの髪の流れに沿って指先を滑らせると、いつもは前髪に覆われている左目が現れる。閉ざされたまぶたは余分な力が抜けていて、とても安らかに見えた。緻密に縁取られたまつ毛と、両目で異なる色の目を持つシャニはミステリアスで美しい。学生時代の頃からきれいな目元をした人だとは思っていたけれど、シャニの瞳がオッドアイであることを、私はこの同棲生活を始めてからようやく知ったのだった。でも、不思議と驚きはなかった。右目が紫なら、左目は当然金色だろうなと、シャワーを浴びたあとの彼を目の当たりにしながら平然とそう思ったのを覚えている。
 物心のつく頃から、よく変な夢を見る。巨大な宇宙船に乗り、このマンションと同じくらいの高さを持つ機械のお世話をして、物憂げな雰囲気の男の子と日々を過ごす薄ぼんやりした夢だ。
 大学でシャニと出会ってから、その夢の輪郭線ははっきりと刻まれるようになり、モノクロの映像は色彩を宿し、音声が流れるようになった。宇宙船は黒い戦艦、大きな機械は甲羅を担いだような形をしたアイスグリーンのロボットだ。気だるそうな男の子はそのロボットのパイロットで、コックピットの中にいるとき以外は大抵音漏れしたイヤホンで耳を塞いでいる。男の子もロボットも戦艦もときどき揺れ動くものだから、夢の中の私はその度に肝を冷やす。
 宇宙空間での夢は日に日に解像度を上げながら再生されるけれど、ラストは必ず同じ点に着地する。混乱のさなか、戦艦に、ロボットに、男の子に向かって目いっぱい手を伸ばしてみても、私自身がどこかへ遠ざかっていくのだ。暗い宇宙にたった一人で放り出されたような、底冷えする寂しさが身を蝕んでいく――それが覚醒の合図だった。
 寂しいといってもそんな感情は夢の中の世界の話であって、一旦目を覚ましてしまえばなんてことはなかった。学校は楽しかったし、社会人になってからは慌ただしく会社に向かい、幻から現実に引き継がれたほのかな寂しさなどすぐに忘れてしまう。それに、今はシャニが側にいる。
 温かい後頭部を撫でながら、夢の中の戦艦を脳内に描いていると、シャニの肩がびくっと震えた。うっすら開いたまぶたは二、三回まばたきを繰り返す。まだまどろみの中にいる彼に、私はそっと声をかけた。
「起きたの。おはよう」
 おはよう、とは言ったものの、窓から射し込む光はすっかり夕暮れの色に染まっている。西日がまぶしいのか、シャニは子供のように目を擦り、丸めた身体をさらに縮めた。
「夜勤明けだもんね。まだ眠っていて大丈夫だよ」
 そうささやくとシャニは小さくあくびを漏らし、私の腹部に柔らかい頬を埋めた。そして、枕を抱きしめるように私の腰に手を回し、掠れた声で「夢をみた」と呟く。
「夢?」
「そう、夢」
 シャニは寝起きの顔を上げ、私を上目遣いに見た。膝に乗ったまま見つめられると、やっぱり猫みたいだな、なんて愛おしく思ってしまう。
「どんな夢を見たの」
「なんか、でっかい船に乗ってる夢。あれと同じやつ」
 そう言うとシャニは部屋の隅にある机を指差した。机の上には、ペーパークラフトで作った真っ白な戦艦が無造作に置かれている。両手にすっぽり収まる大きさのそれは、私の夢に繰り返し出てくるあの戦艦を図面に起こし、印刷して組み立てた工作物だ。といってもまだ未完成で、カッターマットには色決めのためのラフスケッチと紙の切り屑が散らばっている。
「毎日眺めているものだから、夢の中にまで出てきちゃったのかもね」
 なめらかなうなじを癖毛越しに撫で付けると、彼は「うーん」と考え込んだ。
「ナマエは船の中で大きいロボットの整備をしてた。よく分かんないけど、俺に怒ってきて怖かった」
「ふふ、なにそれ。今まで私がシャニに怒ったことあった?」
「ない。一度も」
 シャニは眠たそうに返答し、またあくびを一つこぼした。
 おだやかに微笑みかけながらも、私の胸中は初めて流れ星を見た日のように打ち震えていた。なんてよくできた偶然だろう。私は、誰かにあの夢の話をしたことは一度もなかった。もちろん、シャニにだって打ち明けたことはない。
 あの夢の中に出てくる男の子はシャニにそっくりだった。そっくりというより、あの子はシャニ・アンドラスだ。大学で初めてシャニと出会ったとき、私は衝撃のあまり雷が目の前に落ちてきたような心地で立ち尽くしていた。まだ見たことはないけれど、あの子もきっと、前髪の下に隠れた左目には儚げな金色が淡く光っているだろう。
「……どうしたの」
 シャニの頭に手を置いたまま固まった私に、彼は華やかな紫の目を丸くしながら不思議そうに訊ねる。
「ううん、なんでもないよ」
 私は彼の長い前髪を指先で払い、身をかがめて温かな額に唇を寄せた。夢とは違ってこちらはきちんと感触がある。それでいい。これ以上夢を追い求めてはいけない。夢で感じた物寂しさを現実で反芻してはならない。
 でも、夢の中でもシャニと恋人になれたらいいのに、なんて願ったら欲張りすぎだろうか。


2022.12.04
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より