寄る辺なく降り注ぐ
- ナノ -

4話

 残り少ない生気を浴室に搾り取られたような気分だった。久しぶりに外を出歩いたせいか、はたまた都合のよい幻を見続けているせいか、シャワーを浴びた途端に、猛烈な眠気に襲われたのだ。濡れた髪を乾かす時間さえも惜しい。うすのろい身体は一刻も早く眠りにつきたいと訴え続けていた。
 部屋へ戻ると、クロトは席につき、花束と拾った灯籠を見つめていた。頬杖をついているせいで姿勢が悪く、居眠りをしているようにも見えた。
 真っ白な照明に照らされた彼の背中に「シャワー浴びる?」と声をかける。自分でも驚くほど不明瞭な声色だった。
「僕はいい」とそっけなく返しながら、クロトは破れた灯籠を指でつついた。生乾きの灯籠は彼の指を否応なく受け入れ、浅くへこむ。破けた穴と同じように、二度と元に戻らない跡を残す。
「そう。私、なんだか無性に眠たくて。少し横になってもいい?」
「ご自由に」
 クロトの言葉に甘え、私はベッドに倒れこみ、気だるい身体に布団をかけた。くたびれた背中がマットレスにずぶずぶと沈み込み、やがて地球の裏側まで達してしまいそうだった。
 彼はベッドの縁に腰掛け、足を組んで私の顔を覗き込む。身じろぎひとつ見逃さない、とでも言うようにじっと見つめるので、私はうまく働かない頭の隅で狼狽した。そんなに見つめられたら眠れないと思うのだけれど、意に反してまぶたはどんどん重たくなってくるものだから不思議だった。普段は眠気などめったに感じないというのに、どうして今日に限って眠くなってしまうのだろう。クロトには少し横になると断ったけれど、この調子だと朝まで熟睡してしまう気がした。
 目をこすり、まぶたに力を込め、容赦のない睡魔に抗い続ける。私の努力もむなしく、こちらを覗き込むクロトの顔はみるみるうちに霞んでいった。柔らかな輪郭はぼやけ、赤い髪も鮮やかな青いジャケットも、視界に映るものすべてが薄暗くなっていく。せっかく取り戻した彼の記憶が、今日の思い出ごと私の頭の中から溶け出し、蒸発するように消えてしまう気がして恐ろしかった。
 クロトは呆れた声で「ねえ、寝ないの」と訊ねた。
「眠りたくない」
「なにガキみたいなこと言ってんだか」
 あどけない顔立ちが妙に大人びた笑みを浮かべる。以前はクロトに子ども扱いされるたびに、多少はむっとしたものだったが、今は自分のちっぽけな尊厳などどうでもよかった。
「だって、私が眠ったらクロトはいなくなっちゃうんでしょ」
「そうだよ。よく分かってるね」
「眠りたくないよ」
 わがままを言うと、私のまぶたの上にクロトのほんのりと温かい手が覆いかぶさった。わずかに漏れる光が彼の指の隙間を赤く染め、小さな暗闇をうっすらと照らし出している。クロトは知らない。私は暗い場所では一睡もできないのだ。いつもは部屋の照明を点けたままシーツの上に丸まり、布団を鼻まで引き上げる。本当は頭まですっぽりと布団をかぶりたいけれど、目元に布団が触れるだけで過呼吸になり、舷窓越しに目撃したあの死の光景がまばゆい部屋の中に浮かび上がってくるのだった。
 けれども今は違う。薬物の支配から逃れた彼の温もりを感じながら、安らかに目をつむることができる。眠りたくない。もしくは私が眠りに落ち、夢から覚めても、クロトとこうしてずっと触れ合っていたかった。
「いい加減寝ろよ」
 彼は優しく言った。まぶたを閉じたことを確認すると、クロトは目元から手を離し、今度は布団の上に置いた私の手のひらを柔らかく握りしめる。私も睡魔に襲われる意識を振り絞り、彼の手を握り返した。こうやって、お互いを愛し合う恋人のように手を繋ぐのは初めてだった。私たちが手を繋ぐときは、いつもなにかしらの乱暴なやり取りがあった。
 すべての感覚が身体から遠ざかっていく中で、私はクロトのかすかな声を聞いた。
「おやすみ、なまえ」
 私も途切れ途切れに返した。「おやすみ、クロト」
 眠りにつくと同時に、唇になにか温かいものが触れた。僕も好きだよ、とつぶやく声も遠くで聞こえた。意識を手放しながら、あれはあのときの告白の返事なのだと気付いた。彼は私の永遠の恋人だった。夢から覚めたとしても、クロトの姿を再び忘れてしまったとしても、彼にまつわる記憶を失ったとしても、私たちは恋人だった。
 私はその晩、夢を見なかった。今まで眠れなかったぶんを取り返すかのように、深く深く眠った。

 目を覚ますと、案の定クロトの姿はどこにもなかった。天井からぶら下がった照明は消えていて、真っ白な部屋は薄暗い。布団から這い出ると室内は思ったよりも肌寒く、カーテンを開け放ったときにはくしゃみがひとつ出た。朝の清々しい陽光が寝ぼけ眼を容赦なくつらぬく。無意識に目を閉じると、まぶたの裏側が明るい赤色に染まり、ここが夢の世界ではないことを思い知った。目を閉じたまま、おはよう、と誰にも伝わらない挨拶をした。
 その一方で、テーブルの上は夢と現実が入り混じっている。昨晩クロトが持ち帰ってきた灯籠は、彼と同じように跡形もなく消え去っていた。鍋の中の花たちはからからに乾いて色褪せ、ドライフラワーと化している。鍋底を覗き込むと、水面には狐につままれたような顔と、水分を失った細い茎と花が映った。
 私は乾いた花たちをぼんやり眺めながら、昨日買ったパンの残りをかじった。朝食を食べる習慣は久しくなかったが、起きたときからひどい空腹を覚えていた。パンを咀嚼し、これでよかったのだろうかと喉を静かに震わせる。私は生きることを選び、クロトは私の前から姿を消した。彼のいない世界で生きていても仕方がない。にもかかわらず、私はすっかり硬くなったパンに手を伸ばす。一口目に感じた罪悪感のようなものは、すべてを平らげる頃にはいくらか薄れていた。
 お腹を満たし、花を生けた鍋を持って家を出た。街中にただようべたついた潮のにおいが鼻の奥に流れ込んでくる。一歩一歩歩くたびに鍋の中の水が跳ね、服と靴がびしょびしょに濡れた。
 さざなみの音が耳に届く。海岸へ向かう一本道で、犬の散歩をしている人とすれ違った。全く面識のない人だったけれど、私はすれ違いざまに質問をした。
「すみません、今日って何日でしたっけ」
「9月28日です。あの、どうかしましたか」
 怪訝そうな顔をしたその人は、親切にそう答えてくれた。ホーロー鍋を持った私を不審に思ったのか、リードに繋がれた犬は鋭い歯をむき出しにし、道に響き渡る声量でワンと吠えた。
 私はその人にお礼を言い、そそくさとその場を立ち去った。海が近付くにつれて、道を覆うコンクリートは灰がかった砂がまぶされていく。
 朝の海辺は清涼な風が吹き渡り、波は見る者すべてを圧倒するように絶え間なく押し寄せていた。昨夜見た鈍色の曇り空とは違い、すっきりとした青空が目にしみる。クロトと一緒に眺めた暗闇の海はだだっ広く感じたけれど、明るくなってから改めて見ると浜辺は意外とこぢんまりしていることに気付いた。
 波打ち際へ近寄り、濡れて色の変わった砂浜にしゃがみ込むと、鍋を彩る花が一本、突風にさらわれて海に落ちた。とっさに手を伸ばしたものの、乾いて軽くなった花は白波に揉まれながら沖へ流されていく。水分の抜けた花びらが一枚、また一枚と散り、塩辛い海水を浴びながら沈んでいった。
 しばらくの間、私は鍋に残ったドライフラワーがこれ以上風に飛ばされてしまわないように手で抑えながら、波に運ばれていく一輪の花を呆然と眺めていた。花びらと茎がすっかり見えなくなった頃、私は自分の足元がぐっしょりと濡れていることにようやく気が付いた。熱を帯びた指先を冷たい海に浸す。昨晩、クロトがそうしたみたいに。手首のあたりまで海水に浸し、指を柔らかい砂に埋めると、はじけた波しぶきが膝に置いた鍋を濡らした。
 昨日はクロトと繋いでいたこの手も、今では彼にもらった花束と触れ合っている。もう片方の手は、クロトがその指を浸した海と触れ合っていた。私は細かな砂が混じった海水を鍋に汲み、その中に干からびた花たちを生けた。赤い鍋を胸元で抱きしめると、海水はちゃぷんと音を立てて揺れる。私、クロトの顔も、声も、彼との思い出も、全部ちゃんと覚えてる。


2023.12.03

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