3話
私のとりとめもない憂いなどお構いなしに、太陽は今日もすとんと落ちてしまった。白いドレープカーテンを隙間なく閉めると、まだ少しだけ昼間の続きが部屋の中に残っているような気がする。白色に光る照明は地上を照らし出す太陽とは似ても似つかないけれど、ここには華やかな花束も、大好きなクロトもいるのだから。
ゲームで遊んでいたクロトはベッドから起き上がり、鍋に生けた花をぼうっと眺める私の傍らに立った。
「ねえ、外行こうよ」
「外?」と聞き返すと、彼は焦れったそうにため息をついた。
「好きだったでしょ、散歩。休暇のたびに川とか海とか飽きずに見に行ってたじゃん。僕もたまに付き合わされた」
そこまで言われてようやく、私は「ああ」と脱力しきった声を漏らすのだった。クロトの記憶の中に収まるかつての私は、現在の私にとってはもうずいぶん昔の姿のように感じた。補助輪を外した自転車にやっと乗れたときの興奮や、初めてネイルポリッシュを買ったときの高揚感。散歩を好む過去の私は、それらと同じ箱に入っている。
「地球に戻ってきてからは全然出かけなくなっちゃったな」
「そうだろうね。冷蔵庫の中を見たとき、ちょっとびっくりした」
クロトは小さな冷蔵庫を横目で一瞥し、そう言った。非常食くらいは用意してもいいんじゃない、とも言った。私は曖昧に頷いた。今よりも過去の方が、神経をすり減らしながら生きていたはずなのに、まだ自分の内側に目を向ける余裕があった。
あの頃の私は、きゅうくつな軍隊生活にうんざりしていて、暇を見つけては外に出かけていた。行き先はできるだけ人混みから離れた場所を選ぶ。白い波しぶきが砕け散る岩石海岸や、人間の腰くらいの高さまで草が生い茂った原っぱ、それから、せせらぎの音が心地よい川のほとりを好んだ。海辺の散歩に付き合わされたクロトは「水なんか毎日飽きるほど見てるのに」とふてくされていた気がする。
先の大戦はいくつもの尊い命を奪い、多分、生き残った人たちの心にも暗い影を落とした。私の唇の傷はふさがり、折れた足の骨は元どおりに修復し、杖を使わなくても歩けるようになった。けれども私は、みるみるうちに回復する身体をこの目で眺めるたびに、自分はまだ生きるつもりなのかと身震いしてしまう。レイダーが撃墜された日から、私の身体と心はばらばらに切り離されてしまった。クロトの生きた証が消え去ったこの世界で、どうやって生きていけばいいのか分からなかった。
「またひどい顔してる」とクロトは苦笑し、私の背中を後ろから抱きしめた。恋い焦がれた温もりが私を包み込み、首筋に彼の吐息がかかる。外の季節がなんだろうと、私の身体はいつも死んだように冷たかった。長らく忘れていた感覚が高まる鼓動とともによみがえる。クロトに触られると、胸の奥が火照ってくるのだ。火照るなんて生易しいものじゃない。ぽかぽかと優しく暖めてくれるストーブのような熱ではなく、始末しそびれた一本のマッチがそこらじゅうを焼き尽くすのと似ている。クロトと一度でも触れ合えば、私の身体はたちまち激しい熱気を帯びてしまう。
取り戻した情念は息が詰まるほど苦しく、それでいて目が潤むほど甘美だった。うなじに頬を寄せる彼の視界から私の表情は見えない。私がどんな思いで抱きしめられているのか、彼は知らないのだ。
クロトは私を抱きしめたまま、いじけた声でささやいた。
「僕が聞くのもなんだけど、なんで君は外に出たがらないわけ?」
小さな部屋がしんと静まり返った。私は素直に答えるべきか考え込み、迷った末に口を開く。気の短いクロトが、私の返事を辛抱強く待ってくれたからだ。
「私だけ置いてけぼりみたいでさみしくなるから」
私の返答を聞いたクロトは、ふふ、とくすぐられたような笑い声を上げ、抱きしめる腕の力をわずかに強める。彼はため息混じりにこう言った。
「もしかして、僕のこと責めてる?」
「責めるつもりなんてないよ。だって、責めたところでクロトは――」
そこまで言いかけておきながら、私は口をつぐむことを選んだ。生前と全く変わらない姿のクロトが突然私の前に現れ、今はこうして抱きしめてくれている。どうしてこんなことになっているのか、全然理解できないけれど。
やっぱり、今日という日は私が生み出した都合のよい幻なのかもしれない。そうだとしたら、私は今日一日だけでもクロトに置いていかれずに済む。ついさっきだって彼と一緒にパンを買いに行ったのだから、そうに決まっている。クロトが側にいてくれさえすれば、光の届かない夜だって怖くない気がした。
「外に行きたいな」
絞り出した私の声はあまりに小さく、おまけに小刻みに震えている。ドミニオンに乗艦していた頃も、私はクロトに向かって同じようなことを言っていた気がする。外の世界へ行きたい、こんな日々から一刻も早く逃げ出してしまいたい。クロトはうんざりした態度を隠すことなく、私の泣き言を聞き流していた。艦の外へ出たところで、行き場などどこにもない。生体CPUとして生きてきたクロトはそのことをよく知っていたのだと思う。すべてを受け入れてくれるわけではなかったけれど、それでもクロトだけが、かろうじて生じた彼の隙間に私を押し込んでくれる。
「決まりだね。ほら、早く支度してよ」
彼は私の手をぐいぐいと荒っぽく引っ張り、椅子から引き剥がすようにして立ち上がらせた。
どこに行く? とクロトに聞かれ、私は言葉に詰まってしまった。昼間ですら必要最低限の外出しかできないのに、夜に行きたい場所などひとつも思い浮かばない。「外に行きたい」だなんて、ずいぶん漠然とした願いだ、と少し前の自分の発言を恨みたくなった。
「なまえは知らないだろうけど、海岸が近くにあるよ」と、見かねたクロトが提案してくれた。私が靴を履き終える前に、彼はブーツを履いたつま先をとんとんと打ち、ドアの鍵を回し開ける。手慣れたその手つきは、自分がここの家主だと言わんばかりに馴染んでいた。
家から少し歩いた場所に海があることを、私は今日初めて知った。言われてみれば、買い出しへ出かけるたびに、家の前の空き地に潮の匂いがかすかにただよい、なにかを絶え間なく洗い流す音が聞こえたことを思い出す。私が知らなかっただけで、クロトはずっと近所に住んでいたのだろうか。もちろんそんなはずはない。にもかかわらず、夜の暗がりを歩くクロトは、私なんかよりもずっとこの風景に解けこんでいる。
クロトが教えてくれた海は、入り組んだ路地を通り抜け、ひらけた一本道を繋ぐコンクリートの階段を降りた先に広がっていた。あたり一面に墨を流したような海辺には、私たち以外誰もいない。引いては寄せる波の音と、黙々と砂浜を歩く私たちの足音だけが響いている。学校に通っていた頃、海は生命の源だと先生が言っていた。昼だろうと夜だろうと、海には生と死が満ち溢れている。けれども、この静かな海辺に生命らしいものはなにも見当たらない。それは私とクロトも例外ではなかった。
足場の悪い場所に訪れるのは久々だったこともあって、私は柔らかな砂に足を取られ、ぐらりとバランスを崩した。砂浜に転がる自分のイメージが頭によぎり、ぎゅっとまぶたを閉じる。けれど、結局は転ばずに済んだ。クロトが私の手首をとっさに掴み、彼の胸元まで引き寄せてくれたのだった。
あやうく転びそうになった恥ずかしさと、触れた手の体温に動転しながら「ありがと」と短く伝えると、彼は不機嫌そうに鼻を鳴らした。暗くてよく見えないけれど、おそらくこれがクロトなりの照れ隠しなのだと思う。その証拠に、彼は私の手に指を荒々しく絡めてくる。
「もともと鈍臭いうえに今は引きこもりなんだから、気をつけて歩きなよ。ほら、手を繋いでいてあげるからさ」
「半分くらい悪口じゃないの」
「はあ? 事実しか言ってないだろ。転びたくなかったらちゃんと繋いでよ」
おずおずと彼の手を握り返すと、見た目の割にはしっかりとした骨の感触が指に伝わってくる。かつてクロトは、この小柄な手で機体の操縦桿を握っていたのだ。急に胸の奥がしくしくと痛みだし、私は力なく俯いた。私の靴とクロトのブーツが、鈍色の砂浜に沈んでは足跡を残す。穴ぼこだらけの地面を見ていると、どこか懐かしい気持ちになった。
「この砂浜の色、月面と似ている気がする」
「月面はもっと白っぽかったよ。忘れちゃった?」
「そうだったっけ?」
「そうだよ、忘れっぽくなっちゃってもう。あーあ、月が出てたら答え合わせできるのに」
さくさくと心地よい足音を立てながら、クロトは夜空を仰ぐ。部屋のカーテンを閉めきっている間に天候が変わったのか、空には灰色の雲がかかり、月どころか星はひとつも見えない。肌を撫でる空気は暖かいを通り越して雨季のように蒸し暑く、私はここに来るまでの道のりでシャツの袖をまくっていた。
波打ち際にたどり着いたクロトは座り込み、血色のよい手を凪いだ海に浸した。彼の意外な行動に当てられ、私も指先を海水に浸してみる。泡立った波が皮膚の上でぱちぱちと弾けて気持ちよかった。
ふと沖に目をやると、淡く小さな灯りがひとつ、ふたつと波に揺られているのが見えた。濡れた手で前髪をかきあげ、じっと目をこらす。紙でできた箱の中にろうそくのようなものが入っているらしい。白い紙は中身が透けるほど薄く、炎の放つ光が箱をオレンジ色に染め上げている。黒い海面に映り込むとろんとした光は、まるで機械でできた色鮮やかな魚がちょろちょろと泳いでいるみたいだった。
私は黙りこくったまま地平線を横切る灯りの観察をしばらく続けていたが、灯りは行列に加わるように次から次へと増えていったので、次第に数を数えるのを諦めてしまった。
「どこかで灯籠流しでもやってるのかな」
ぽつりとつぶやくと、クロトは私の横顔と灯りを交互に見つめ「なにそれ」と訊ねた。
「川とか海に、死者を弔うための灯籠を流すの。子どものときにやったっけ」
「ふうん」
そっけない反応を示すと、彼は不意に立ち上がり、幾分かにぎやかになった海に背を向けた。彼と手を繋いだままの私もやむなく立ち上がる。クロトは彼にしてはゆっくりとした足取りで、海岸と街を繋ぐ階段に向かって歩きだした。
もう帰ってしまうつもりなのだろうかと、クロトの背中をすがるように見つめながら不安に思った。もっとクロトと一緒に夜の海をさまよいたかったのに。ううん、あちこち歩き回らなくてもいい。ただ二人きりでひとところにとどまり、ほの明るい海を眺めるだけでいい。
私の寂しさを見透かすように、彼は階段の一段目に腰掛ける。私もクロトの隣にそっと座った。砂浜に面した階段だというのに、不思議とコンクリートに砂は付着していなかった。
海にたゆたう灯籠の群れを遠目に眺めながら、私たちは生暖かい潮風をたっぷり浴びた。この穏やかな時間は、きっと誰にも邪魔することはできない。どんよりとした曇り空が私とクロトを包み、過酷な世界から覆い隠してくれる。
安堵した私は彼の肩に頭を預け、深く息を吸った。ふと、かつてクロトの衣服や身体から香っていた薬品のにおいは、もうすでに過去のものなのだと気付いた。再び深呼吸をすると、湿った海の匂いと花束の残り香が私の肺を満たしていく。何ものにも代え難い幸福なひとときだった。
「クロトって今、幸せ?」
私の唐突な問いかけにクロトは「うーん」と唸り、珍しく煮え切らない態度をとった。すぐに返事が返ってくるはずと思っていたので、予想外の展開に面食らってしまった。私は慌てて付け足した。
「言っておくけど、私と海を眺めて幸せ? って意味じゃないよ」
我ながら、なんて回りくどい聞き方だろう、と自分自身を嘲る。彼の死を一度は飲み込んでおきながら、本人の前ではまだ明確に言い表すことができない。それに、死んだら楽になった? なんて、不躾に聞けるわけがなかった。私だって、彼の死を一旦は飲み込めても、きれいに消化できたわけじゃない。ひとたび口にすれば、この平穏な時間が音を立てながら崩れ去っていく気がして怖かった。
再び「今って幸せ?」とおそるおそる訊ねる。クロトは戸惑ったように息を震わせ、私の手をおもむろに握り直した。肩に預けていた頭を上げ、彼の横顔をちらりと覗く。そこには、意外にも落ち着いた表情のクロトがいた。
「どうかな。つまんない毎日だけど、少なくとも苦しくはないよ」
彼の返事を聞いた瞬間、私は無意識にクロトの温かな身体を抱きしめていた。血の通った人間だというのに、彼らを機体のパーツとして扱う連中が許せなかった。薬の禁断症状に悶え苦しむクロトを、ただ唇を噛んで見守ることしかできなかったのが本当にいやだった。私にぶっきらぼうな愛情を投げ渡してくれたクロト。冷たく広大な宇宙で、命を散らしてしまったクロト。彼がもう苦しくないというのなら、私だってきらびやかな星空を見上げることができる。
私に抱きしめられたまま、クロトは「顔を上げて」とささやいた。彼の言うとおり顔を上げ、夜の暗がりに沈む瞳を見つめる。クロトは慈しむような手つきで頬に触れると、私の唇にキスをした。陽だまりの中でうとうととまどろむような、穏やかな口づけだった。
「君、こうやってキスしてきたよね」
彼は唇を離し、熱い吐息を漏らしながらいたずらっぽく笑った。至福のあまり今にもとろけてしまいそうな頭の中で、クロトと初めてキスをした日の記憶が鮮やかによみがえる。血の味を上書きしたくて、できるだけ優しくキスしたこと。私のキスはクロトにとって本当に優しかったのだろうかと不安に思ったこと。私の感じた心配はどうやら杞憂だったらしい。
「私、夢でも見てるのかな」
かすれた声でつぶやくと、クロトは「夢?」と聞き返した。
「ううん、ずっと夢を見続けてるような気がする。クロトがいなくなってからずっと、なにが現実でなにが夢なのか分からなかった。今も本当は分かりたくない」
下唇を噛んで俯くと、彼は私の頬を親しげに撫で、噛み跡がついたばかりの唇に指先で触れた。
「僕も君と再会したとき、夢でも見てるのかなって思ったよ」
「ほんとう?」
「そりゃあもう。前よりも痩せこけてるし、顔色も悪いし、家に引きこもってるし、ひどい有り様だったからね。これじゃあ、どっちがお化けか分かりゃしないよ」
クロトが冗談めかして笑うので、私もつられて笑みをこぼしてしまった。自分の身体のことなのに、まるで他人事のように思っている。だから私はのんきに笑っていられるのだ。
「クロトは以前よりも元気そうに見える」
「言っただろ、少なくとも苦しくはないって」
うん、と噛みしめるように頷き、今度は私からクロトにキスをする。クロトは生命という名の牢獄から解き放たれた。けれど、あのときと全く変わらない柔らかな唇がここにはある。
お互いの存在を確かめ合うような口づけを交わしたあと、彼は黒い海を一瞥して言った。
「海なんかしょっぱいだけの水たまりで、面白くもなんともないけどさ。今はなんだか、こうしてるのも悪くない気分だね」
私はさっき、クロトに「今、幸せ?」と訊ねた。これが彼のもうひとつの答えなのだと思う。私が慌てて取り消した質問を、クロトはわざわざ答えてくれたのだ。
「私もだよ」と同意すると、彼は気まずそうに海を見つめ直した。私も彼の視線の先を見つめる。波に運ばれてきたひとつの灯籠が、グレーの砂浜に打ち上がろうとしている。海面に揺れていた他の灯籠は、いつの間にか忽然と姿を消してしまった。
彼は階段から立ち上がり、波打ち際へ向かって一人で歩き出した。私はクロトの小柄な背中を少し遅れて追いかける。階段から海までの間は大した距離ではないけれど、クロトに追いつくまでの時間は永遠にも思えた。
仮初めの永遠の中で、なんとなく、宇宙から地球に帰ってきたあとの生活を思い出した。昨日食べたものも、毎日なにをして時間を潰していたのかもよく覚えていないにもかかわらず、薄い膜が張ったような記憶を必死に呼び起こす。クロトの姿が消えた日から、私は暗闇を避けて生きてきた。満点の星空は恐ろしくて直視できなかった。でも、今日からようやく、なにかが変わるのかもしれない。
浜辺に打ち上がった四角い灯籠は、海水をたっぷりかぶったせいで火が消えていた。クロトはそのずぶ濡れの灯籠を拾い上げる。打ち上がるときに砂浜と擦れたのか、灯籠はところどころ破けていた。
「どうするの、それ」
「別にどうもしないよ」と言いながらも、クロトはそのひしゃげた灯籠を私の家に持ち帰った。一体どこに飾るのだろうと不思議に思っていると、彼はそれを花を生けた鍋の横に置いた。見れば見るほどおかしな部屋だ。赤いホーロー鍋から花束がすらりと伸び、その隣では形の崩れた灯籠が花の淡い影を映し出している。こうして、寒々しい部屋は一日にして賑わってしまった。クロトの手によって変化した自分の部屋を、私は彼そのもののように愛おしく思った。
2023.11.25