寄る辺なく降り注ぐ
- ナノ -

2話

 おぼろげな思い出に溶けて消えたはずのクロトが、生身の身体を得て私の目の前に立っている。彼の肌は薬を充分に与えられたあとのようにつややかで、この寒さにもかかわらず唇は血の色を保っていた。まるで春先に姿を現す新芽のようだ。彼は死から最も遠い存在に思えた。
 耳の奥でなにかがばちんと弾ける音がした。私にだけ聞こえたその音は、長い長い悪夢から覚めた合図だったのかもしれない。けれども、ようやく目が覚めたからといって、状況をすぐに把握できるとは限らないのだ。私の口からこぼれ落ちた言葉は混乱そのものだった。
「どうして、どうしてあなたがここに」
「君って相変わらず知りたがり屋だね。少しは嬉しそうな顔しろよ」
 彼は目を細めながら薄暗くほほえんだ。あいにく、私は今自分がどんな顔をしているかなんて知らない。 おだやかな愛想笑いを浮かべる余裕などどこにもなかった。一歩ずつ後ずさるうちに膝の力がすっかり抜け落ちてしまい、私は床の上にへたり込んだ。クロトは放心する私などお構いなしに玄関へ足を踏み入れ、素早く鍵を閉めた。
「お邪魔しまーす、っと」
 口ではそう言っていたけれど、彼はまるで自分の家に帰ってきたかのように、平然と私の部屋へ上がり込む。私はそんな彼に「上がって」とも「おかえり」とも言えなかった。クロトが持ってきた花束の鮮やかな香りが辺りをただよい、私の鼻腔を刺激する。後ろを振り返ると、示し合わせたかのようにクロトも立ち止まり、こちらに向き直った。ドライフラワーでも作るみたいに下向きに提げられたその花束をおずおずと見つめると、彼は私の視線に気づき「ああ」とつぶやく。
「これ? 遅れた退院祝い」
 クロトはそう答えるやいなや、私の膝の上に花束を放った。大きすぎず小さすぎない、中くらいの花束だった。色とりどりのガーベラやバラが焦点の合わない視界に焼きつき、繊細な形のかすみ草が切なげに揺れる。かぐわしい香りと植物特有の青々とした匂いが立ちのぼり、私は誤嚥したときのように咳き込んでしまった。花の香りでむせるなんて、と思ったけれど、すぐにそれは間違いだと気がついた。荒波のように押し寄せてくる現象を受け止めきれず、身体が拒絶反応を示しているのだ。
「あなたは私に花束をくれるような人じゃなかった」
 熱を持った喉から細い声を絞り出すと、彼は眉を歪めながら笑い、もったいぶったため息をひとつ漏らした。
「僕のこと忘れてたくせに」
 その声色にとげは含まれていなかったけれど、私はたちまち居た堪れない気持ちになった。ごめん、ととっさに謝ると、クロトはもう私を見ていなかった。横向きに分けた前髪から頬へ滴った雪のしずくを手の甲で拭っている。
「この家にタオルってある?」
 黙って頷き、やっとの思いで立ち上がる。私の膝はかたかたと小刻みに震えていた。突然姿を現したクロトに恐怖を感じているのだろうか。それとも、やっと再会できた喜びに打ち震えているのだろうか。どうしても飲み込みたくなかった事実が、空っぽの胃に落ちていく。今更だけれど、クロト・ブエルはもうこの世にいない。
 引き出しから取り出したタオルを渡すとき、彼の指先と私の指が触れ合った。ほんの少し触っただけだった。にもかかわらず、爪の硬い感触は明確に私の指の腹へと伝わり、なにが現実でどれが幻なのかいっそう分からなくなる。私は長い悪夢から覚めたあと、またすぐに眠ってしまったのかもしれない。きっとまだここは夢の中で、ひとたび目を覚ませばクロトの顔も声もすべて忘れてしまう。
 混乱する一方で、死んだも同然だった私の人生が息を吹き返していくような心地があった。手渡したタオルで濡れた髪や肌を拭くクロトを眺めていると、冷たい刃で貫かれたように痛み続けた胸が徐々に熱く高鳴っていく。この身悶えしそうな感覚はよく知っている。懐かしいという感情を抱いたのは久々のことだった。
 身体を拭き終えたクロトは私の部屋をぐるりと見渡し、「病室みたいだね」と率直な感想を述べた。カーテンと壁紙は漂白したように白く、必要最低限の家具が壁に沿ってぽつぽつと置かれている。言われてみれば確かに、少し前に入院していた病室と似ている。人の気配が希薄なこの部屋に花を飾れば、ますます病室じみた部屋になることだろう。
「人をもてなせるような部屋じゃなくてごめんね」
「いいんじゃない。物が少ないと掃除が楽だし」
 人懐っこそうな笑顔(でもそれは見かけだけの話であって、彼はいつだって孤独を好んでいた。私は彼が無邪気な少年のように笑うたび、不思議な気持ちになった)を浮かべると、クロトは私の手に握られたままの花束に視線をやった。はっと我に返る。このままではせっかくの花束がしおれてしまう。
「花瓶を探してくる。待っていて」
 私はクロトに熱いお茶を淹れ、狭い食器棚の引き出しをひとつひとつ開けていった。今うちにある数少ない器は、すべてこの家に住まうようになってから買い揃えたものだった。
 花を飾った日などあっただろうかと退屈な日々を思い返す。案の定、花瓶は地球に帰ってきた私にとって不必要だったらしい。おまけに鋏もない。念のため隅から隅まで探したけれど、キッチンばさみすら見当たらなかった。
 呆然とした私は赤いホーロー鍋を取り出し、火の消えたコンロの上に置いた。その両手鍋の中に包装を解いた花束を入れてみたものの、茎が長すぎてどうも安定感がない。
 お茶を飲み干したクロトがキッチンを覗き込み、不安そうな声を上げた。
「なにしてんの、君。ひょっとしてパスタでも茹でるつもり?」
「花瓶を持ってなかったから……」
「あー、そこまで考えてなかった」
「鋏もない。せっかくクロトに花束をもらったのに」
 がっくりと肩を落とすと、彼はばつが悪そうな顔で考え込んだ。
「要するに、茎が短くなればいいんだろ」
 クロトはおもむろに花を一束掴んだ。一体なにをするのだろう、と彼の手元を見つめると、クロトは茎を乱暴に折り曲げ、素手で力任せにねじ切ってしまった。青臭い汁がクロトの手を汚し、折れた茎の断面から細い表皮が糸のように飛び出ている。クロトは「うへえ」と気の抜けた声を漏らし、「これ、何回もやるの嫌かも」と口元を不満げに歪めた。
「包丁くらいは持ってるよね?」
 私が返事をする前に、クロトはシンクの下にある棚の扉を開き、収納ケースから万能包丁を取り出した。そして、まな板の上に可憐な花束を乱雑に置くと、包丁を茎めがけてまっすぐに振り下ろした。野菜を切るときのような小気味好い音ではなく、まな板と包丁がぶつかり合う鈍い音が狭苦しいキッチンに響く。まるで大きな肉の塊を処理してるみたいだった。淡々と花束を解体するクロトの背中を、私は少し離れた場所から見守っていた。
「この包丁さあ、いくらなんでも切れ味悪すぎじゃないの」
 彼は茎の断面を確認しながら、つまらなそうにぼやいた。それは別に面白い光景でもなんでもなかったけれど、私は一人で乾いた笑い声を上げてしまった。包丁でぶつ切りにされた茎がまな板から床に転がり落ちる。おかしくておかしくて笑いが止まらない。みっともなく笑うたびに唇の端がびくびくと痙攣し、空虚な生活が少しずつ満たされていく。私はクロトのことが大好きだった。今でも、どこかいびつな彼を愛している。
 私があまりにも笑うので、クロトはむっとしながら振り返った。
「僕、笑われるために遥々会いに来たわけじゃないんだけど」
「うん、別に面白くないのに……」
「それはそれでムカつく。いいけどさ」
 呼吸を整えながらまた笑う。クロトは拗ねたように唇を曲げ、ちょうどいい長さに切り揃えた花束をホーロー鍋に生ける私を睨みつけた。
 殺風景なテーブルに花瓶代わりの鍋を置くと、病室のような部屋はますます病室らしくなった。それでも、鍋の赤い塗装と華やかな花束は目に眩しい。花束もクロトも急に現れたというのに、彼らが揃うことによってやっと私の部屋らしくなった気がする。
「きれいだね」と花を眺めながら独り言を言うと、彼は「そうかもね」とゆるやかに同意した。クロトは勝手に私のベッドに寝転び、在りし日のようにゲーム機に向かっていた。指をせわしく動かしながらも、彼は「そういえば」と会話を続けた。
「店員の奴が花言葉がどうこう言ってたけど、意味分かんないから全部無視したよ」
 彼のどこかおどけた発言に思わず吹き出しそうになった。花言葉の説明を聞き流すクロトは容易に想像がつく。私の頭の中で、クロトはあでやかな花々に囲まれながら冷めきった表情を浮かべている。そんなアンバランスな光景を、私も一目見てみたかった。
「ありがとう、私のためにお花を選んでくれて」
 クロトは立ち尽くす私に視線をやり、また画面上に戻した。どんな基準で花を選んでくれたのか知らないけれど、彼は私のために、自分自身の判断で花の種類を考えてくれたようだった。クロトのことだから、もしかすると直感で選んだのかもしれない。そうだとしてもしみじみと嬉しかった。彼の意思で選んだ物が私の元に訪れる。物だけじゃない。彼の方から私に会いに来てくれること自体に、私は激しい喜びを感じるのだった。それらはまだ軍にいた頃の私がひそかに欲しがっていたものだった気がする。
「お腹すいた」と、急に誰かが控えめな声音で言った。
「夕食にするにはまだ早いんじゃない」
 ベッドから起き上がったクロトが、ゲーム機を懐にしまいながら窓の外を見やった。そっか、と私が呟くと、今度ははっきりとした空腹感が身体を蝕んだ。そこで初めて、空腹を覚えていたのは私だったのだと気付いた。
 数日ぶりに冷蔵庫の扉を開けた。ほの明るい冷蔵室の中には、保存のきく加工肉と、しなびた野菜が二つほど転がっている。いつの間にか私の後ろに来ていたクロトは、冷蔵庫を覗き込み「うわあ、普段なに食べてんの」と低くぼやいた。私はその質問には答えなかった。冷蔵庫の扉を閉めると、銀色に光る塗装に輪郭を失った私たちの姿が映る。
「パンがない」
「買いに行く?」とクロトが訊ねる。私は頷き、厚手のコートに腕を通した。少し迷って、身にまとったばかりのコートを脱ぐ。私よりも、クロトの方がずっと薄着だったからだ。
 彼にコートを差し出すと、クロトは「いらない」と首を横に振った。

 二人で家の外に出ると、地面を薄く覆っていた雪はすっかり溶けて、赤茶けた土を色濃く濡らしていた。銀鼠色の雲の切れ間から青空が覗き、侘しい空き地をなぐさめるように暖かい風がそよいでいる。歩いているうちに空はすっかり晴れ、まるで小春日和のような気候になった。私はうららかな陽気に耐えきれず、途中で着ていたコートを脱ぎ、腕にかけて歩いた。
 目的地のベーカリーが近くなると、歩道に沿って植えられた街路樹が薄ピンク色の可憐な花を咲かせていた。たった今開花したばかりとでもいうように、桜たちは薄い花びらをぴんと張り、いきいきと咲き誇っている。
 この街はどこかおかしい。さっきまで雪が降っていたというのに、と首を傾げるけれど、クロトは特に気にする様子もなく、例の涼しげな格好でしれっと歩いている。最初は怪訝に思っていた私も、パンを買って帰る頃にはおかしな気候のことなどさほど気にならなくなっていた。私の隣に、私の幻が歩いているのだ。生と死が曖昧に混ざり合ったクロトと比べれば、雪が舞おうが桜が咲こうが、大した変化ではないように思えた。

 帰宅した私は久しぶりにスープを作り、買ってきたパンと一緒にクロトにふるまった。テーブルの上にはクロトにもらった花と、質素な食事が並んでいる。手料理を誰かに食べてもらうのは初めての経験だった。
「こうして誰かとご飯を食べるなんて、すごく久しぶり」
 私はそう言って真正面に座る彼に向かってほほえみかけた。クロトはパンを一口大にちぎり、平然と口へ運ぶ。当たり前のように咀嚼し、細い喉を上下させながら飲み込む。薄く色づいたスープがクロトの喉を通る。
「なまえが最後に他人と食事をしたのはいつ?」
 彼の問いに、すぐには答えられなかった。スプーンを握ったまま視界の斜め上をぼんやりと見やる。茹ですぎたマカロニのぐにゃぐにゃした食感や、舌先がびりびりと痺れるほど塩辛かったベーコンの味とともに、退屈そうに料理をつつくクロトの姿が脳裏をかすめる。今までは、白い天井をどんなに眺めたところで記憶の収穫はなにひとつなかった。けれど、今日は薄ぼんやりとした思い出が途切れ途切れに浮かび上がっていく気がした。
「クロト。最後はクロトと一緒に食べたよ」
「ふーん、ちゃんと覚えてたんだ」
 試すような口ぶりだったけれど、クロトの表情はどこか嬉しそうだった。もちろん、私は彼との日々をつぶさに覚えていたわけじゃない。今日ようやく思い出したのだ。だから私もクロトと同じように、同じ記憶を共有する喜びを噛み締めた。
 まだ湯気が立ち昇るスープを一口すすると、塩気も旨味も限りなく薄く、しなびた野菜は寝ぼけた味がした。一人きりで食べるならまだしも、誰かに――それもクロトに食べさせてしまうなんて、たちまち申し訳ない気持ちが募る。
「このスープ、あんまり美味しくないね。ごめん」
「あのとき食べたレーションのスープよりは美味いよ」
 彼は平気な様子で答え、スプーンでしわしわの野菜をすくった。真っ白な皿に注いだクロトのスープは半分以下の量まで減っている。私は思わず息を呑んだ。
「味が分かるの」
 以前の彼は食に無頓着だった。海上や宙で味気ない食事をするたび、私はまともなご飯が食べたいとぼやいたものだけれど、クロトは違う。彼は呆れながら「味なんかどれも一緒じゃん」と食事を喉に流し込んでいた。
「まあね。なまえの方こそ、記憶がはっきりしてきたんじゃない」
「少しずつ」
「少しずつ? なに弱気なこと言ってんだか。今日中に全部思い出してよね」
 今日。今日って、あとどれくらい時間が残っているのだろう。窓ガラスの向こう側を見ると、外の世界は潜水艦の舷窓から眺めた景色のように青く染まっていた。ブルーアワーが消え失せると、すぐに真っ暗な夜がやってくる。夜は私の嫌いな時間だ。あたり一面が暗くなると、レイダーの散り際を鮮明に思い出すから。
 クロトは残ったパンを平らげ、お世辞にも美味しいとはいえないスープを飲み干した。赤いホーロー鍋に生けた花たちが、彼が席を立つと同時に儚げに揺れる。皿を洗う水音に耳を傾けながら、私はぶよぶよした食感の野菜を飲み込んだ。


2023.11.12

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