寄る辺なく降り注ぐ
- ナノ -

1話

 初めてのキスは血の味がした。クロトの鋭い歯が私の唇にぶつかり、柔らかな粘膜を刃物のように切り裂いたのだ。
 か細い悲鳴は彼の薄い唇によって塞がれ、火照った薬臭い舌に絡め取られてしまった。居住区付近の物陰で乱暴に唇を重ねる私たちに、通りかかった白衣の研究員が奇異の目を向け、すぐに興味を無くし素通りしていく。私の中に、この状況を他人に見られたという羞恥心はどこにもなかった。それどころじゃない。私の頭はクロトにキスをされたことから来る衝撃を受け止めるだけで精一杯だったから。
 クロトはつい先ほど投薬を済ませたばかりだった。顔色はいたって健康そうで、数時間前まで医務室のベッドに転がり、禁断症状の苦しさに身悶えしていた人とは思えない。その劇的な変わりようはかえって不安を煽る。彼の帰りを待っていた私は、何事もなかったかのように戻ってきたクロトを一目見るなり、すがるように胸元へ抱きついてしまった。今後のことを考えると、涙が出るほど恐ろしかった。このままだとクロトは心身ともに擦り切れてしまう気がする。ひょっとすると、もう取り返しのつかないところまで来ているのかもしれない。
「ひどい顔してるね」と、クロトは私に抱きしめられたまま鼻先で笑った。これから私が何を話すのかすべて分かっている、とでも言いたげに、余裕をたっぷり含んであざ笑う。
「どうして、どうしてクロトたちはあんな目に遭わなくちゃいけないの。ひどすぎるよ」
「君さあ、そんなどうでもいいことを言うためにここで待ってたわけ?」
「クロトが心配なの。他に方法はないの?」
「あるわけないじゃん。君だってよく知ってるでしょ」
 クロトは素っ気なく答えると、まるで泣きわめく赤ん坊をあやすように私の背に手を回した。私の心臓はばくばくと狂ったように脈打っていたけれど、クロトの胸元から伝わる鼓動は一定のリズムを保っていた。彼は死というものに無頓着なだけではなく、生そのものに関心がないのだ。少なくとも、表面上に見えるクロトはそういう人だった。うすうす感じてはいたけれど、現実を改めて眼前に突きつけられると視界がだんだん真っ暗になる。
 あのさあ、とクロトが耳元でささやく。その声色は背筋が凍るほど甘やかだった。クロトは私の両肩に掴みかかり、彼の胸元からたやすく引き剥がす。そして面と向かってこう言った。
「僕らってさ、そんなにみじめな存在に見えてるの?」
 あっけにとられ目を丸くすることしかできない私に、彼の青く澄んだ瞳が迫る。きれい、と場違いな感想を抱いたそのとき、唇に鈍い痛みが走った。血の味が広がる口の中に、クロトの舌が荒々しく入り込んでくる。痛い。息が苦しい。それでも、この場から逃げ出そうという考えは微塵も浮かばなかった。
 熱を持ち始めた唇をあっさりと離し、クロトは冷たく言い放った。
「べつにどう思われようが興味ないけど、ごちゃごちゃとうるせえんだよ」
 私の両肩に置かれた彼の手は、もうそれほど力が入っていなかった。にもかかわらず、鉛のようにずしんと重く感じる。彼の手荒で曖昧な言動は私の頭をよりいっそう混乱させた。クロトは邪魔な私を突き放したいくせに、どうしてキスなんかするのだろう。
「私、クロトが好き」
 思わず口からついて出た言葉は、脈絡のない告白だった。なぜ今、と自分の発言に自分で困惑する。対するクロトは顔色ひとつ変えず私を睨みつけていた。無視するわけでもなく、否定でもなく、もちろん肯定でもなかった。
 私はクロトの顔へ恐る恐る手を伸ばした。指先で彼に触れると、頬は弾むように柔らかく、無意識に身がすくんでしまう。無茶な投薬を続けた身体だというのに肌はみずみずしく、幼い子どものように豊かな頬を持っていた。クロトは好き勝手に触れる私の手を振り払わなかったし、互いの息が触れるほど顔を近づけても暴力に訴えるような真似はしなかった。ただ私の目をじっと見つめたまま、微動だにしない。
 ゆっくりと時間をかけながら唇を重ねると、彼の頬と同じくらいか、それよりも柔らかい感触が、傷ついた私の唇を覆う。クロトは薄いまぶたをぎゅっと閉じた。彼の小さな動揺がようやく指先に伝わる。血の味のキスを上書きするように、私はできるだけ優しく口付けた。もっとも、経験の浅すぎる私には、あれが本当に優しいキスだったのかどうかよく分からない。唇を離すと、クロトはつむったまぶたをこわごわと開き、私を見た。その瞳が、知らない街で迷子になったかのように寄る辺なく揺れていたことはなんとなく覚えている、ような気がする。
 薄暗い空間でぼんやり見つめ合っていると、彼は突然我に返り、後ずさりながら身を引いた。
「もう寝るから」
 戸惑いの混じった声で言い切ると、クロトは普段より幾分か重い足取りで自分の部屋に戻っていった。じんじんと痛み続ける私の唇は、受けた傷とはまた別の熱を持っている。私は物陰の壁に背を預けて座り込んだ。そして、消灯時間の直前までその場から動けなかった。



 私たちの母艦が沈んだ。ひしめき合う脱出ポッドの中で、整備班のうちの誰かが「レイダーが」と力なくつぶやいた。疲弊しきったクルーのみんなは、それでも視線を一斉に窓の外へと注ぐ。私もこわごわと窓の外を覗いた。宙に広がっているはずの星明かりは、人間の手によって作られた兵器の閃光に遮られ、艦やモビルスーツの冷たい残骸があたり一面に散らばっている。
 おびただしい数の死がここには存在している。そんなぞっとする光景の中にレイダーはあった。
「クロト」
 声にならない声が私の唇からかすかに漏れる。胸の奥は端からちりちりと火がついたように痛みだし、肺が潰れたみたいに苦しかった。とっさに手を伸ばすと硬く分厚い窓が私とクロトの間を隔て、再会を無機質に拒絶する。
 致命傷を負ったレイダーは上昇気流に身を任せる鳥のように飛び立ち、やがて激しい爆発を起こした。真空空間で起きたその光景は、私の網膜と脳に鮮やかに焼きつく。指先を置いた窓ガラスが、ほんの一瞬だけ熱くなった。
 一部始終を目撃したというのに、何が起きたのかよく分からなかった。喉は絶え間なく痙攣していたけれど、涙は一滴も出なかった。そもそも、涙を流すのはおかしい気がした。
 実感を伴わない現実の世界で、私に分かっていることはたった一つだけ。あの機体には、レイダーにはクロトが乗っている。がれきと化した機体を目が乾くまで凝視し、あのとき彼がそうしたみたいにまぶたを固く閉じる。全部全部、悪い夢だったらいいのに。

 ふと目を覚ますと、よそよそしい肌触りの布団が私の首筋を撫でた。光が射す方へ顔を傾ける。こちらを見下ろしていた看護師と目が合ったので、おはようございます、ととぼけた挨拶をした。
 地球に帰ってきてからというもの、私はずっと軍の病院で入院している、らしい。唇にできた傷はすっかり治っていたけれど、足の骨が折れているだとか、あっちの具合がよくないとか、一方こっちはすっかりよくなっただとか、主治医の先生がぶっきらぼうに説明してくれた。言われてみれば、ドミニオンから脱出するときに派手にすっ転んだ気がする。軍服を着ていたころの記憶は、虫食いのように穴が空き、そこへ霧や霞を流し込んだみたいに曖昧だった。記憶のすり合わせをしたくても、病室で治療を受けているのは私一人だけで、なにが正しくてなにが間違いなのか分からず途方に暮れる。
 唯一はっきりと思い出せることといえば、黒を基調とするあの機体がばらばらに弾け飛ぶ光景だけだった。その光景は夢の中で繰り返しよみがえり、ベッドの柵に触れるたびに舷窓の温度を思い出し、誰もいない病室で脱出艇のざわめきを聞いた。目がくらむほどの光を放ちながら爆ぜたレイダーと、真空空間に散った機体の残骸。あの中にはクロトが乗っていた。確かに乗っていたと思う。
 私はクロトの声も顔もすっかり思い出せなくなっていた。彼を好きだったという残滓のみが心にとどまり、レイダーの夢を見たあとはひどい罪悪感に襲われる。本当に彼のことが好きだったのだろうか。今ここにクロトがいさえすれば確かめられるというのに、病室には看護師と医者しかやってこない。
「大好きだったんです。愛していました。それなのに、あの人がどんな声で喋っていたのかも、どんな表情で私を見つめていたのかも忘れてしまったんです」
「ショックで記憶が抜け落ちているのでしょう。一時的なものですよ」と先生は乾いた声音で淡々と告げた。そうですか、と相槌を打つ。私はショックを受けているらしい。でも、それってなにに対して? 口まで出かかった疑問を飲み込むと、苦い液体が喉元までせり上がってきた。
 
 退院後にようやく除隊手続きを済ませた私は、知らない街の小さな家に一人で住み始めた。日の出と同時に目が覚めて、太陽が天頂に昇るころにお湯を沸かし、日没は布団の中で身体を丸めがたがたと震えていた。
 朝と夜をいくら繰り返しても、私の記憶は一向に戻らない。静かに呼吸しながら死んでいるような心地だった。形だけの生を消費している、とコンロの青い炎を眺めながら思った。代わり映えのしない同じ毎日がただ薄く長く引き伸ばされていく。今が何年の何月何日なのか私は知らないし、同じ脱出艇に乗り合わせたクルーたちが今どこでなにをしているのかも相変わらず分からなかった。
 その日の天気は雪だった。起き抜けに見た外の景色は雲ひとつない青空だったような気がするけれど、誰かが私の家のドアをノックしたときにはすでに厚い雲が広がり、真っ白い雪がしんしんと降っていた。
 うちにやってきたのは訪問販売か、宗教勧誘か、近所の子どものいたずらか、はたまた私の聞き間違いだろうか。のろのろとした足取りで玄関へ向かうと、吐いた息が白く色づく。触れたドアノブはすっかり冷えきっていた。
 ドアを少しばかり開けると、やはり雪が降っていた。玄関の前に広がるさみしい空き地は、薄く積もった雪のせいで一面カビが生えているみたいだった。
 ドアの隙間から見えたのは雪だけではなかった。どこかで見たようなブルーのブーツと、それから逆さまにひっくり返した花束が視界に滲み出た。ドアのノックは気のせいなどではなく、本当に誰かが私の家にやってきたらしい。
 そこに立っていたのは連合軍の制服を着た少年だった。あどけない顔立ちに燃えるような朱色の髪がよく似合う。雪が降っているというのに彼が身にまとうジャケットは半袖で、髪には溶けかけた雪がくっつき、服や露出した腕は点々と濡れていた。彼は突然雪に降られ、傘を貸してほしくてここまでやってきたのかもしれない。それとも迷子? どうして連合の人が今更うちに来るのだろう。ドミニオンの元クルー? 様々な憶測が脳内を飛び交い、少しだけ頭が痛くなった。
「どちらさまですか」と彼に訊ねたつもりだったけれど、私の口からこぼれ落ちたのは小さくかすれた音だけだった。咳払いをし、もう一度言い直そうと口を開くと、その男の子は幼さの残る声で楽しそうに笑う。その達観したような笑い声はどこか懐かしく、ざわざわと不安が渦巻く胸の中でやるせなく響いた。
「ひどいなあ、あんなに懐いてたのに忘れちゃうなんてさ。薄情だね」
 彼は――クロト・ブエルは、そう言ってわざとらしいため息をついた。


2023.10.29

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