8周年記念リクエスト企画
- ナノ -

この距離と隙間を埋めるものが僕達の愛になればいい

 本丸の突き当たりにある避暑地の扉を開けると、いつものように主と近侍の弟が僕を迎え入れてくれた。避暑地といっても、軽井沢の別荘ではなく主の部屋なのだけれど。
「うん、今日もひんやりしているねえ」
 北に位置する主の部屋は、かんかん照りの真夏日でも程よい涼しさで、窓から差し込む光は夏特有のぎらついた眩しさが無い。ときどき外から入ってくる中途半端に温まった風も、この環境下ならむしろ夏らしくて好ましく感じるのだから、不思議だ。
 その辺に落ちていた藍色の座布団に頭を乗せ、窓際の前で仕事を再開した二人に「おやすみ」と声をかける。
「ああ、おやすみ兄者」
「おやすみなさい」
 二人とも「寝るな」と座布団を引ったくって止めたりしないし、「仕事の邪魔だから」と僕を追い出したりもしない。
 かすかに主の匂いがする座布団を腕で抱きしめる。お昼を食べたあとはどうにもこうにも眠たくて敵わない。かふぇいん、とやらを摂ると眠気覚ましになるらしいのだけれど、あの木の根っこのような色をしたかぐわしい飲み物は、残念ながら僕の舌には全く合わなかった。
 眠いときは我慢せずに寝てしまった方が良いのだ。だから、戦がない日の昼間は、こうして主の部屋で涼みながら昼寝をするのが日課になっている。弟も、僕をあちこち探す手間が省けて都合が良いらしい。
 寝転がって全身の力を抜き、ゆったりと目をつむると、実に様々な音が聞こえてくる。ボールペンが紙の上をぐるぐる滑る音、書類をめくる軽い音、パソコンのリズミカルなタイピング音、主と弟の静かな話し声。暑さが和らいだ部屋の中で、これらの環境音を味わいながら横になるとよく眠れる。特に、弟と会話する主の声は木々のざわめきのような響きがあり、質の良い安らかな眠気を誘う。青々と茂るもみじの下で木漏れ日を浴びながらうたた寝をしているような心地よさだ。――僕、青もみじの下で居眠りしたことあったっけ。
 睡眠の海をひと泳ぎしてから薄目を開けると、輪郭がぼやけてはいるが、人間にしては大きい生き物が見えた。二、三度まばたきをしてもう一度よく見ると、それはぴったりと寄り添う主と弟の姿だった。弟の手には小さなメモ用紙がある。二人はその紙を読み込んでいるようだった。
「主、買うべきものはこれで良いのか」
「うん。暑いから気をつけて」
「任された」
 あくびをしながら上体を起こすと、弟は寝ぼけた僕に声をかけた。
「兄者、俺はこれから万屋へ買い物に行ってくる。俺が不在の間、主の言うことをしっかり聞くのだぞ」
「はあい。行ってらっしゃい」
 間延びした返事と共にひらひらと手を振る。それを確認した彼は主に向かって軽く頷き、颯爽とした足取りで避暑地から出て行った。
 あくびをもうひとつしてから立ち上がり、窓際へ寄ってみる。視線を落とすと、セミが熱を含んだ空気をさらに摩擦するみたいにジリジリと鳴くなか、花々に囲まれた門をくぐって街の方角へ歩き出す弟の横姿があった。外はかなり暑そうだ。強烈な日差しに照らされたひまわりの黄色がひどく眩しい。
 いつの間にか主も僕の隣に立ち、窓の外を眺め始めた。光を避けるように目を細め、何気なく僕に話しかける。
「髭切は本当に気持ち良さそうに眠るよね」
「そうみたいだね。ここは環境が良いから、ぐっすり眠れてしまうよ。それに、なにより君の声が心地よくてね」
「私の声? 今まで生きてきて声を褒められたことは一度もないけれど」
 外の景色から僕に目を移した彼女は、あんなに眩しそうだった目を意外そうに丸くした。
「弟の……うーんと……。まあいいや。主が弟と話しているときはいつもそうだよ。事務的な会話なのに、どうしてだろうね」
 僕がそう言い終わらないうちに主の顔がどんどん赤らんでいく。その急激な紅潮は日陰にいてもはっきりと色が理解できるほど鮮烈で、あっという間に茹で蛸のようになってしまった。そして、消え入りそうな声で僕に訴える。
「誰にも言わないで」
「何をだい?」
 即座に聞き返すと、彼女は紅色に塗られた唇をきつく結んでしまった。人目を気にしているのか、主は忙しない目つきで再び窓の外を見下ろした。門から少し離れたところにある花壇では、打刀のみんなが草むしりをしている。でも、そこまで心配しなくても、その声量では誰の耳にも届かないだろう。僕以外は。
 近くに誰もいないことを確認した主は短くため息をつき、諦めたように重たげな口を開く。
「……私が、膝丸を好きってこと」
「へえ、そうだったのかあ」
「お願いだから誰にも言わないでね」
 また釘を刺された。「言わないよ」と笑ってみせると、主は気の抜けた表情を浮かべながらふらふらと文机の前に座り込み、パソコンの蓋を閉じて二度目のため息をついた。

 主の好きな人――ではなかった、好きな刀剣男士を知ってからも、僕は避暑地でお構いなしに昼寝をした。彼女の恋路にそこまで興味が湧かなかったし、主が弟を好いているおかげで僕は安眠できるので、ありがたい話だなあとすら思っていた。あの日、偶然目を覚ますまでは。
 その日の昼は例年よりも気温が高かったそうで、おまけに部屋の網戸にセミがくっ付いて盛んに鳴き喚いていた。
 一旦は眠りにつくものの、しばらくするとけたたましいセミの鳴き声に眠気が遮られて意識がぐんと浮上する。ああ、このままだと鼓膜が割れそうだ。
 ふと顔を上げると、書き物をする弟をじっと見つめる主の横顔が目に入った。ほのかな光に包まれた彼女は、俯いた弟に向かってとろけた視線を送っている。弟はともかく、彼女には耳をつんざくセミの鳴き声など一切聞こえていないようだった。
 なぜだか分からないけれど、僕はそんな主を見て「きれいだ」と思った。作業する手を止め、ちらりと弟を覗き、再びキーボードを叩く彼女のことを、いじらしくて可愛い人だと思った。
 それからというもの、僕は避暑地に来てごろんと寝転んでも全く眠れなくなってしまった。
 その代わりに、まどろむふりをしながら、恋に身を焼かれる彼女の様子を遠くから眺める。あんなに心地がよかった彼女の声も、今では網戸に引っ付いて鳴くセミよりも鼓膜に響く音となってしまった。
 ひょっとして、主が弟に恋をしているのと同じように、僕も主に恋をしているのだろうか。だって、ここに来る目的は当初とすっかり変わってしまった。おかげで僕は睡眠不足に陥っている。毎日毎日眠くてたまらない。けれども、熱に浮かされた主を無視して昼寝をするなんてどうしてもできなかった。彼女の美しい横顔を、まぶたの裏に焼きつくまで見ていたかったのだ。

 猛暑は数日にわたって続き、そうかと思えば日曜日の夕方は久しぶりに雨が降った。
 誰かに「雨が降る前に洗濯物を取り込むように」と頼まれたので、セミの鳴き声ひとつ聞こえない庭へ赴き、乾いた洗濯物を次々かごに放り込む。室内に入った途端、ぽつぽつ小雨が降り始め、たちまち激しい夕立ちになった。
 洗濯物かごをみんなが居る大部屋へ運ぶべく廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから雨音に混じってひそひそと話し声が聞こえてくる。あれは主と弟の声だ。
「俺は……主の想いには答えられぬ」
「困らせてごめん。今言ったことは全部忘れて」
 聞き耳を立てるつもりはなかったが、どうやら二人はお取り込み中だったようだ。薄暗い廊下が一瞬明るくなり、思わず立ち止まる。窓の外を見上げると、黒雲の下に稲妻が走り、地面が割れそうな勢いで雷鳴が轟いていた。
 雨粒まみれの窓には、神妙な顔つきをした僕の姿が薄ぼんやりと映っている。僕は、僕自身のことをいつもにこにこと微笑んでいる刀だと思っていたのに、実は意外と、戦でもない日にこんな表情を浮かべるときがあるらしい。
 別にそのまま二人の側を横切っても良かったのだけれど、僕は来た道を引き返し、遠回りをして大部屋に到着した。

 翌日は気温の上昇が少し落ち着いたものの、よく晴れていて、前日の夕立ちがもたらした大きな水たまりも朝にはすっかり乾き切っていた。
 今日の昼も、僕は飽きずに主の部屋へ足を運ぶ。
 木製の扉を開けると、薄明るいその部屋に弟は居なかった。今日は業務が落ち着いているため、手伝ってもらう必要がないそうだ。
 主は頬杖を付きながらノートパソコンの画面と睨めっこしていた。手元も目線も動かさずに固まるその姿は、境内の片隅に置かれた冷たい銅像のようだった。そのまま沈黙が続くかと思えば、押入れの中にあるはずの座布団を探す僕に、主は「そういえば髭切」と気まぐれに声をかける。
「最近は昼寝をしていないみたいね」
「ありゃ。君、知っていたのかい」
 藍色の座布団を引っ張り出しながら答えると、主の乾いた笑い声が聞こえた。
「うん。最近はずっと暑かったもんね」
「そうなんだよ。夜以外うまく眠れないんだ。困っちゃうよね」
「膝丸も心配していたよ。午後のあなたはどこか上の空だって」
 振り返って「君も?」と聞く。上の空だった主はパソコンから目を離し、やっと僕を見た。昨夜は夜通し泣いていたのだろうか。充血した目が痛々しい。
「君も、僕のことを心配しているのかなあって」
「そりゃ心配だよ」
 眉を下げつつも落ち着き払った声だった。適度な温度を保った優しい眼差しが僕を包む。僕は、燃え盛るような恋をする主のことだけを愛しているのだと思っていたけれど、案外それだけではないのかもしれない。不器用で、それでいて親切で、ひたむきな彼女のことが、ちゃんと愛おしいのだ。そう思うとふっと肩の力が抜ける。
「僕、なんだか今なら眠れそうな気がするよ」
 引っ張り出した座布団を文机の足元に置く。いつもより主との距離が近い場所だったので、彼女は少し面食らったようだった。
 横になると案の定まぶたが重たくなってきて、僕は長めに息を吐いた。主は僕の頭に向かってうちわを扇ぎ、夏から熱を削り落とした涼しい風を送ってくれる。そのひんやりとした風を浴びながら、僕は久方ぶりにぐっすりと眠ったのだった。


2022.06.26
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より