卵もきっと夢をみる
庭の木々が紅葉し始めたある日曜日、昼食を終えて大広間を出ると、扉の前で待ち構えていた膝丸に「主、折り入って頼みたいことがある」と頭を下げられた。改まった態度に面食らったがひとまず了承し、近くの空き部屋に入って話を聞くことにした。
一体どんなお願い事をされるのだろう。はたして私に解決できるだろうか。でも、出来れば膝丸には良いところを見せたい。私は膝丸にひっそりと恋心を抱いているのだから。
座卓を前にして、私と膝丸は向かい合って座る。こうして二人きりで過ごす機会はあまり無いので、自然と肩に力が入ってしまう。
「それで、頼みというのは」
肩をこわばらせたまま用件を尋ねると、膝丸はゴホンと咳払いをひとつして、極めて真剣な顔つきでぽつりぽつりと話し始めた。
「先日、兄者が初めて誉を取っただろう。そんな兄者のためにささやかなお祝いをしたい。そこで、兄者に菓子を振る舞うのはどうだろうかと考えた」
膝丸のいう兄者とは、二週間ほど前に顕現したばかりの太刀・髭切のことである。膝丸はこの本丸にやって来てからずっと、髭切が現れるのを心待ちにしていた。つくづく兄思いの刀だ。
「本題はここからだ。菓子を作ると決めたはいいものの、実際に何を作るべきかまでは思いつかん。それに、菓子を作った経験も無い。俺に君の力を貸してくれないだろうか」
切羽詰まった膝丸は私に深々と頭を下げた。座卓に額をぶつけてしまうのではないかと不安に駆られるほどの勢いだった。そんなに畏まってお願いされるとこちらも焦ってしまう。
「私でよければ手伝うよ! だから頭を上げて」
「本当か! ありがたい」
がばっと顔を上げた膝丸の瞳は、光に透かした琥珀のようにきらきらと輝いていた。そのまばゆい輝きを浴びたまま気を失いそうになるけれど、主として、あるいは依頼の引受手としてなんとか持ちこたえる。
「作るお菓子だけど、私が髭切のイメージから真っ先に思い浮かべたのはメレンゲクッキーかなあ。シンプルだから初めてでも作りやすいと思うし……どう?」
「ふむ、めれんげ……?」
膝丸は頭の上にクエスチョンマークが浮かびそうな表情で訝しんだ。あやかしの名前と思われてしまったかもしれない。
「泡立てた卵白を生地にしたクッキーだよ。絞ったクリームみたいな見た目で、食感は軽くて、口の中ですーっと溶けるの。子供の頃によく作ってたんだ」
「なるほど、卵白か。それは確かに兄者らしい菓子かもしれぬ。ぜひ教えていただきたいな」
膝丸の賛同を得てほっと胸を撫で下ろす。同時に、胸の底からやる気がむくむくと湧き上がる。この計画は絶対に成功させたい。本丸に来てくれたばかりの髭切に喜んでもらいたいし、大好きな膝丸の役に立ちたい。
「材料も道具も全部厨にあると思う。さっそく作ってみようか」
「ああ。よろしく頼む」
私たちは立ち上がり、いそいそと厨へ向かった。
「膝丸は大きめのボウルと泡立て器と粉ふるいと、それからゴムべらを持ってきてもらえる?私は材料と絞り袋を用意するね」
「分かった」
膝丸が道具を探している間に、私は卵と砂糖を用意し、オーブンを温めておく。一通り準備が終わったので、いよいよお菓子作りスタートだ。
まずは卵黄と卵白を分ける作業をする。いざ卵を割ろうとすると、膝丸の手が私の手の上にさっと重なった。驚いて卵を落としそうになる。
「主よ、これは俺にやらせてはくれまいか」
「わ、分かった。はい」
望みどおり、卵を膝丸の手のひらの上に乗せる。彼は鮮やかな手つきで卵を割り、卵の殻に黄身を移動させた。殻から溢れた卵白が透明なボウルの中へするすると落ちていく。
あまりにも手際が良いので感心していたのだけれど、ふと膝丸の表情を覗き込むと、彼は眉間に皺を寄せ口元をぴきぴきと強張らせ、必死の形相をしていた。――可愛い。しかし、ここで笑っては申し訳ないので、にやけそうになる顔の筋肉にぐっと力を込めて耐える。
「上手だね」
素直にそう褒めると、膝丸は唇の端をきゅっと引き締めて「そうだろうか」とほんの少しだけ俯く。照れているのかもしれない。ますます可愛い。
殻に残った卵黄を小鉢に移したあと、膝丸ははっと息を呑んだ。
「この余った卵黄はどうするべきなのだろう」
「うーん、醤油漬けにしちゃおうかな」
ひとまず小鉢に醤油とみりんを注いで冷蔵庫に仕舞う。出来上がったら膝丸に食べさせよう。
続いて、どろんとした卵白をメレンゲに仕立てるために泡立て器を掴もうとすると、膝丸に素早く止められた。どうやら膝丸はこの作業もやりたいらしい。そういうことならと、私はボウルを押さえたり砂糖を入れる係を担当し、泡立て器でメレンゲを立てる係は膝丸に任せることにする。
手作業なので泡立つまでに少し時間が掛かるかもしれないと思っていたけれど、さすが刀剣男士というべきか、卵白はあっという間に空気を含んでもこもこに膨れ上がった。
「すごい、ハンドミキサーいらずだね」
「これくらいお安い御用だ」
膝丸が得意げな声を発した瞬間、私の脳みそはぐらぐらと揺れ動きそうになる。耳から得た刺激のせいで、自分が置かれた状況に今更気がついてしまった。それは、ボウルを押さえる私と泡立て器を持つ膝丸は、あまりにも距離が近すぎるという事実だ。距離を意識した途端に膝丸の息づかいがこちらに伝わり始めてしまったので、私は唇をぎゅっと噛みしめる。――集中しなければ。今はこのお菓子作りを成功させることだけを考えなくてはならない。
「絞るのは私がやるね」
「ああ。頼む」
熱を帯びたときめきを胸に秘めつつ、絞り袋にメレンゲを詰めてクッキングシートの上にぎゅっと絞り出していく。あとは天板をオーブンに入れて、焼き上がるのを待つだけだ。
「六十分にセットして、っと」
温度と時間を設定し、オーブンのスタートボタンを押す。焼く段階まで来て安心したのか、膝丸は大きく息を吐いた。
「……君のおかげで助かった」
「私は少し手伝っただけだよ。それにしても、うちはお菓子作りをする刀剣男士が多いから、道具も材料も揃っていてすぐに出来たね」
私はそこではたと気がつく。お菓子作りに詳しい刀剣男士が複数人いるのなら、どうして膝丸は私に手伝いを頼んだのだろう。オーブンが放つ熱とは別の種類の熱気が頬に集まる。誰かに自意識過剰と思われても構わない。今日のこの日だけは、選ばれた喜びを噛みしめながら自惚れていたい。
洗い物を済ませたり、お茶を飲みながらおしゃべりをしているうちに、オーブンから「ピー」と電子音が鳴る。
「焼き上がったようだな」
オーブンの扉を開けると、ふんわりと優しい香りが厨中に広がる。クッキーは星型の形を保ちつつも表面がしっかりと乾いていて、見るからに美味しそうだ。
少し冷ましてから天板を取り出して、クッキーをそっと二つ剥がし、その一つを膝丸に渡す。食べてみると、メレンゲが口の中でしゅわっと溶ける。
「美味しい。ちゃんと焼けてる」
私の様子をじっと窺ったあと、膝丸も小さなクッキーを口の中へ運んだ。その口元から尖った八重歯がちらりと覗き、私の心臓はきゅんと跳ねてしまう。
さくさくと小気味良い音が響く。膝丸が私の方に目を向けていないのを良いことに、ごくりと上下する喉仏を見つめる。
「これは……初めて味わう食感だ。この菓子なら、きっと兄者も気に入るだろう」
彼はメレンゲクッキーを気に入ってくれたようで、嬉しそうな声を上げた。少しだけ跳ねた声音の端々には淡い期待が入り混じっている。
「さっそく兄者を探しに行こう。今日の兄者は池の鯉がお気に入りのようだから、庭にいるかもしれぬ」
お茶を新しく用意し直して厨を後にする。膝丸の予想どおり、髭切は膝をつき、紅葉が映り込んだ池の中で泳ぎ回る鯉たちをじっくりと眺めているところだった。
「兄者、よければ一緒に茶を飲まないか」
膝丸が声を掛けると、髭切は鯉から目を離して優雅に立ち上がる。
「お茶かあ。いただこうかな」
掴みは上々だ。池を離れ、三人で見晴らしの良い縁側に腰掛ける。
私は紅茶を三人分注ぎ、膝丸は金縁の皿に盛ったメレンゲクッキーを髭切に手渡す。皿を受け取った髭切はきょとんと目を丸くした。
「可愛いお菓子だね」
「初めて誉を取った兄者への贈り物だ」
「僕に? もしかして手作りかい? 弟の……えーっと……」
「膝丸だ、兄者。……そうだ、主と共作した」
突然二人の視線が私に集まり、驚いて慌てふためいてしまう。
「共作だなんて。ほとんど膝丸が作ってたよ」
「いいや、君の力が無ければ成し得なかったことだ」
私たちのやり取りを見た髭切はくすっと微笑み、穏やかに謝意を示した。
「ありがとう、なんだか嬉しい気持ちになってきたよ。いただきます」
髭切の口に私たちが作ったメレンゲクッキーが運ばれていく。緊張の一瞬だ。
「わあ、さくさくでしゅわしゅわだ。美味しいね、これ」
そう言って髭切は顔を綻ばせ、皿に手を伸ばし、二つ目、三つ目のクッキーを食べ始める。作戦は成功したようだ。
「気に入ってもらえて良かったぞ、兄者」
楽しそうにクッキーを口に運ぶ髭切と、そんな髭切を見つめる膝丸の安堵した横顔を交互に見て、私も心が満たされ、そして和やかな気持ちになったのだった。
おやつの時間を終えて、厨に戻り食器の後片付けをする。すべての食器を水切りかごへ乗せると、私もようやく一息つくことができた。
「髭切に喜んでもらえて良かったね」
「ああ、この作戦は大成功だった。ありがとう、主。これからも兄者共々よろしく頼む」
「……こちらこそよろしくお願いします」
気が緩んだせいでいとも簡単に照れてしまい、畏まった口調が飛び出る。膝丸から意識を逸らすためにタオルで念入りに手を拭く。
「そうだ。卵黄の醤油漬けは膝丸が食べなよ。きっと今夜が食べ頃だと思う」
「そうか。ではありがたくいただくとしよう」
膝丸は一旦了承しつつもしばらく考え込む。そして、答えが出たのか私の方にくるりと向き直った。
「君と一緒に食べたい、と言ったら君は困るか?」
「え」
「あの卵黄のことだ。半分に分けて一緒に食べよう」
曲がることを知らない真剣な眼差しが私の惚けた瞳を貫いた。濡れたタオルを指先でぎゅっと握りしめながら、私は頷き、誘いの返答を口にする。
「困らないよ。……楽しみにしてる」
私の答えを聞いた膝丸は、私がお菓子作りを手伝うことを承諾したときの輝かしい目や、クッキーを食べる髭切を見つめていたあの面持ちとは異なる表情を私に見せた。よく似ているけれど、少しだけ違うのだ。この視線を私が一人占めしているのかと思うと、胸がくすぐったくて、それなのに心地が良い。
ああ、今から夜が待ち遠しい。今夜また厨に集合する約束を交わし、私と膝丸はそれぞれの行き先へ向かった。
2022.06.17