せめてこの心の名前は美しくあれ
「それじゃ、面談してくるから」
「ん。行ってらっしゃい」
主に向かって手を振ってみせると、緊張しきった面持ちの彼女は、口角をぎこちなく上げて俺に応えてくれた。いつもよりかしこまった服を着た背中が、ひりついた雰囲気を醸し出す応接間へと消えていく。
今日の主は時の政府のえらい人と面談をするのだという。おえらいさんがわざわざ本丸に出向くなんて、珍しいこともあるものだ。
別に、そうしろと誰かに頼まれているわけではないけれど、応接間の前に立って見張りをしておく。扉の奥から途切れ途切れに話し声が聞こえる。しかし、どんなに耳をすませても会話の内容自体は聞き取れない。諦めて深く息を吸って吐き出すと、息の形が雲のように白く染まった。建物の中とはいえ、空調のない廊下にずっと立っていると体が冷えてしまう。指先に何度か息を吹きかけながら、窓の向こう側に分厚く広がる寒雲を眺める。今にも雪が降り出しそうだ。
一時間ほど経過した頃だろうか。面談が終わり、主と一緒に本丸の門までえらい人を見送った。
「どうぞお気をつけてお帰りください」
そう挨拶したきり、主は声を発さなかった。えらい人の気取った背中が曲がり角を曲がって見えなくなっても、玄関に戻っても、寒々しい廊下を静かに歩いているときも、主はここではないどこか遠くを虚ろな目で見つめて押し黙っていた。彼女は元々おしゃべりな性格ではないけれど、声をかけることをためらうほど徹底的に沈黙する日はめったにない。
執務室の扉を開けて一歩二歩進むと、主は書類にまみれた文机の前でがっくりと膝を折った。日没前の薄暗い部屋の中で主の小さな背中が小刻みに震えている。
「主」
具合が悪いの。側に駆け寄り、そう続けようとしたけれど、心配をする言葉は喉の奥に引っかかって詰まってしまう。彼女は泣いていた。張り詰めた糸がぷつんと千切れたみたいに、わあわあと声を上げて泣きじゃくっていた。
糸は今日のこの日だけに張られたものではない。半年前に審神者として本丸にやってきてからずっと、か細い糸は頑張り続ける主の意識に張り巡らされていた。詳細は分からないけれど、おそらく、さっきの面談がきっかけでその糸が切れてしまったのだろう。
「どうしたの」
嗚咽を漏らす彼女の背中をゆっくりさする。主は激しい混乱のなか言葉を紡げずに俯いていたものの、息を荒げながらもだんだんと理由を打ち明け始めた。
「お前は審神者になって半年も経つのに仕事が遅いって、もっと成果を上げろって言われた」
やはりあの面談が原因だった。以前からそんな気はしていたが、やはりあの政府の人間は嫌味な奴だ。次回からは近侍である俺も同席した方が良いかもしれない。
「……主は充分頑張ってるだろ」
俺の言葉に主は一瞬だけはっとした顔つきになったけれど、すぐにまた顔をくしゃくしゃに歪めてしまった。
「新人のくせにフレッシュさもなければ可愛げもないって責められた」
「そんな失礼な奴に愛嬌を振りまく必要ないって、ほら」
文机の上に置いてある箱から片手でティッシュを引っ張り出し、溢れる大粒の涙を拭き取る。それでも主は泣き止む気配がなく、拭えど拭えど壊れた蛇口のように涙が出てくるので、薄っぺらいティッシュはあっという間にぐしょぐしょになった。
正直、俺は途方に暮れている。主は普段、自分の弱さを曝け出したりしない人だったので、初めて起こったこの状況にどう対応していいのか分からないのだ。
困り果てた結果、正直に問いかけることにしてしまった。
「落ち着くまで側にいた方がいい? それとも俺、外に出た方がいい? 主のしたいようにするからさ」
彼女は肩を震わせながら、ぼろぼろと崩れ落ちてしまいそうな声で俺の名前を呼んだ。
「……加州」
「ん?」
「私を抱きしめてよ」
突拍子もない提案に思わず目が点になる。うっかり聞き間違えたのかもしれない。
「え、抱きしめる……?」
「今日だけでいいから。今日だけ抱きしめてくれたら、あとはちゃんと頑張るから。お願い」
どうやら俺の聞き間違いではなかったようだ。むしろ聞き間違いであってほしかった気もする。――本当にもう、どうしてくれようか。普段、彼女に事務的に触れるだけでも自分の気持ちを自覚しそうになるのに、この手で抱きしめるなんて、何が起こるかはっきりと想像ができてしまって嫌だ。けれど、こうして痛々しい姿を目の当たりにしてしまうと、断るに断れない。
「分かった、分かったよ。抱きしめればいいんだろ」
目を固く瞑り、自棄半分で彼女の身体を抱きしめる。主の身体は想像したよりも冷たかった。浅く呼吸をするたび、主が書類を書くときにいつも使っている黒いボールペンインクのべたべたした匂いと、頬を伝って流れた涙の湿っぽい匂いが漂っているのが分かる。この狭苦しい空間に存在する空気は深く吸い込んではいけない気がした。
目を開くと、きっちりと整えられたつむじが視界に飛び込んできた。安らぎを得た主は俺の胸元に両手を預けてさめざめと泣いている。そんなところに手のひらを置かないでほしい。俺たち刀剣男士の心臓の位置は、人間と同じなのだから。――まあ、すべての器官が同じ場所に位置しているのだけれど。
「頭も撫でて」
「注文が多いぞ」
「私がしたいようにしてくれるのでしょう」
「う……。そうだけど」
仕方なく、片手を背中に回したまま、もう片方の手で主の頭をぎこちなく撫でる。外に出たせいで冷えきってしまった髪の表面は絹のようになめらかで柔らかい。部屋に入った直後に見せた慟哭は消えたものの、彼女の息づかいは相変わらず荒々しく、呼吸をするたび頭が上下に揺れている。
「主、寒い? 頭がひんやりしてる」
冷たい頭を繰り返し撫でながら、ぽつりと小さく呟く。俺は背中にうっすら汗をかいているというのに寒いかどうか尋ねるなんて、心底ちぐはぐな問いに思える。
「暖かいよ。加州はすごく暖かい」
「そう、ならいい」
室温の具合を聞いたつもりだったのに、思いがけない答えが返ってくると心臓が変な音を立ててしまうではないか。主の手のひらにこの鼓動が伝わっていないことをひたすら願う。
俺の体温が髪に移った頃には主も落ち着きを取り戻し、鼻をすすりながらもすっかり大人しくなった。泣き疲れて呆然としているようにも見える。
「少しは落ち着いた?」
ゆっくりと頭を撫で続けながら囁くと、主は「うん」と短く頷いた。
「みっともないところを見せてごめん。私はこの本丸をまとめる主なのに。主である私がしっかりしなきゃいけないのに」
主は今にも消えてしまいそうな弱々しい声で自分自身を責めた。
「なーに言ってんのさ。生きていれば泣きたいときだってあるでしょ。それに、俺って頼りにされてるなーって思ったよ。ちょっとびっくりしたけどさ」
収まりのつかない感情をまくし立てるように一気に言葉を吐き出し、短く息をつく。懸命に努力してきた主がこれ以上傷つく姿なんて見たくなかったのだ。
「……別に今日だけじゃなくても、辛かったら俺が抱きしめてあげる」
さっきまで「嫌だな」と思っていたのに、今は「抱きしめてあげる」だなんて、心ってヤツは本当に厄介な働きをする。でも、変化に富む心の動きに揺蕩うのも悪くない。俺の胸元から頭を離した主が、今までに見たことがないくらい安らいだ表情を浮かべていたから。
「ありがとう、加州」
俺を見つめる主の目は泣きすぎたせいで赤く充血して、おまけに涙袋がぷっくりと腫れている。ああ、俺はこの人が好きだ。この人に抱きしめられながら深く愛されたい。
「俺のことも、もっともっと可愛がってよね」
軽口のつもりで口に出したはずなのに、この欲求は声にすると切実な響きを持つ。ずっと俺の心臓の上にあった主の手が今度は頭の高さまで伸び、俺のつむじを優しく撫でた。
2022.06.05
タイトル「草臥れた愛で良ければ」さまより