8周年記念リクエスト企画
- ナノ -

君の溜め息は深い

 ビルを出て駅の方角につま先を向けた次の瞬間、力いっぱい走り回る小学生の群れとすれ違う。勢いよく駆け抜けていく彼らに驚いた私は思わず立ち止まった。ランドセルを覆う交通安全の黄色いカバーが眩しい。あっという間に去っていく小学一年生たちの楽しげな後ろ姿を見遣ってから、私は桜の花びらにまみれた歩道を歩き始めた。
 年齢はともかく、一年目という点だけを挙げれば、私もあの子たちと同じだ。私が審神者になったのは今年の冬の話で、今でも数週間に一度のペースで時の政府が主催する研修に参加している。今日もつい数分前までその研修に顔を出していた。
 それにしても、今日の研修は散々な内容だった。講師の説明はいちいち回りくどく、そして無駄な雑談はいつまで経っても終わらず、結局予定した時刻を大幅に超えて終了した。早く駅に向かわないと、私を迎えに来てくれている薬研を待たせてしまう。研修は刀剣男士の同伴を禁じているため、お咎めを受けないように開催地からやや離れた駅前で待ち合わせているのだ。歩く速度を上げると、地面に落ちた花びらが舞い上がり、パンプスの上で踊った。
 五分ほど歩いてようやく駅の周辺まで辿り着く。架道橋を渡る電車のリズミカルな音と雑踏のざわめきがくたびれた身体に迫ってきた。この近辺はどうにも苦手だ。ビルの隙間から見える太陽は今にも沈みそうで、私の心をさらに焦らせる。
 今は何時ごろだろうかと、ビルの大型ビジョンに映る時計を確認しようと顔を上げたそのときだった。ガードレールに寄りかかった知らない男とばっちり目が合う。げっ、と咄嗟に目を逸らしたけれどもう手遅れだった。にやけ面の男は私の横に並んで歩き始める。
 男の声を極力耳に入れないように、歩くことだけに意識を集中させる。それでも「おねーさん可愛いね」だの、「これからどこ行くの?」だの、歯の浮くような誘い文句がチラチラと耳に入ってくる。こういうときは無視が一番効くはずだ。徹底的に無視を決め込みつつ、あと数メートルも歩けばこの男も諦めてくれるだろう。
「ねえ、なんでおれを無視するわけ? 一杯でいいからさあ、お茶しようよ。ね?」
 男の手が私の手首を無遠慮に掴む。――この男、断りも無しに他者の体に触れて良いと思っているのだろうか。想定外の挙動に怯んでしまい小さく息が漏れる。
「離してください」
 男の目を鋭く睨み付けながら手を振り払おうとしたけれど、まるで手錠のように手首を固く掴まれてしまい、簡単に振り解くことはできない。ああ、もう最悪だ。駅の改札口はあともう少し歩いた距離にあるというのに!
「なあ、そこの旦那」
 喧騒にまみれた街中に、芯の通った声が静かに響く。聞き覚えのある声にはっと息を呑む。声の主はいつの間にか男の腕を取っていた。今にも腕を捻り上げてしまいそうな勢いで力を込め、薬研は男に淡々と語りかける。
「お楽しみのところ悪いが、その女性を離してくれねえか。俺たちの大切な人でな、これ以上無礼な振る舞いをしたらただじゃ済まねえよ」
 いつもは涼しげな眼差しがぎらりと鈍く光る。男は「ひっ」と情けない声を上げながら私の手を解放し、人混みの中へそそくさと消えていった。
「大将、大丈夫か。怪我はないか?」
「大丈夫。ありがとう……。助かったよ」
「おっと」
 膝から崩れ落ちそうになる私の肩を、薬研が力強く抱き寄せる。短刀の中では身長が高い部類に入るとはいえ、小柄な体躯のどこにそんな力が宿っているのだろうかとつくづく不思議に思う。
「ごめん、本当に怖かったから……。安心して力が抜けちゃった」
「気にすることないさ。一人でよく頑張ったな、大将」
 薬研はそう言って肩を離し、私の手をやさしく握って歩行を助けてくれた。よろめきそうになる身体も、薬研が手を繋いでいてくれるおかげでなんとか平衡感覚を保つことができる。改札口を抜けて階段を降りるときも、騒がしいホームで電車を待つときも、私たちはずっと手を繋いだままだった。
 電車の発車を知らせる軽快な音楽がホームに鳴り響く。反対方向に停まった電車の窓には、背筋を伸ばして立つ私と凛とした佇まいの薬研が映っている。繋いだ手に違和感を覚えた私は、少し考えたあと「あのさ」と話を切り出した。
「薬研、私もう一人で歩けるよ」
 なんて回りくどい言い方だろうか。研修の講師と私はさほど変わらない気がして、なんだかいやになる。窓の中の薬研は握った手をまじまじと見つめていて、私の遠回しな提案の意味を汲み取ってくれたようだった。
「いや、繋いだまま本丸に帰らせてくれ」
 薬研本人の横顔に視線を移すと、私より少しだけ低い位置にいる彼はこちらを見てにっと笑っていた。薬研が私の要求を断るなんて珍しい。
「いいけど。もうへたり込んだりしないからね」
「あーあ、本当に鈍いなあ大将は」
 薬研はやれやれとでも言いたげに首を振り、私の手をぎゅっと握りしめる。指先のぬくもりを感じ取るのと同時に、私たちが立っているホームに電車の接近メロディが流れる。
「電車が来るね」
 ぽつりと呟くと、薬研は「ああ」と短く答えた。ホームに滑り込む電車の風に吹かれて、薬研の髪がスローモーションみたいに揺れる。なびく髪の隙間から見えた薬研の表情はいつもより凛々しく、そしてどこか憂いを帯びているようにも見えた。


2022.05.28
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より