砂漠の縁にて | ナノ
雨の日は案外良いものだ。私は好き。真紀ちゃんはこの前買った傘を可愛いと言ってくれたし、先月の私の誕生日のときに千佳子がくれたハンドタオルが今日は大活躍してくれた。それに何より、今日は奏也くんが迎えに来てくれる。
奏也くんの少しださい軽自動車は、彼が乗っていると良い感じに見える。たぶんギャップのせいだろう。奏也くんはわりとセンスが良い。それなのに、どうしてこの車を選んだのかと前に尋ねたことがある。彼の見た目はやや近づき難いものだと、彼自身も理解しているらしく、そこで引かれてしまわないように、近づきやすい少し抜けた部分をこの軽自動車で作り出したいのだと言う。だから彼はわりともてるのだ。彼の強い目つきと色素の薄い髪の色に初めは戸惑う人も、親しくなるうちに、彼に惹かれてゆく。そんな光景を目の当たりにする度、私は黒のクレヨンで心を塗り潰されたような気持ちになる。
奏也くんの、シートベルトしな、と言う声で我に返る。私がシートベルトをするのと同時に彼は車を発進させる。今日は何があったのと聞かれたから、桜井くんに一緒に帰ろうって誘われたと素直に言ったら、彼は怒った。私は彼に怒られるのが好きだ。変態では、たぶん、ない。

「どうやって断ったの」
「彼氏と帰るから無理って言った」
「嘘つきだなあ」
「じゃあなんて言えばよかったの」
「ううん、それでいいよ」

赤信号で止まったら、彼は私にキスをした。こういう少女漫画のようなことをされると、すごく恥ずかしいから、やめてほしいのに、やだとは言えない。本当は、すごく嬉しい。当たり前のように私の唇に触れる彼に、いつも私は勝てない。彼といるだけでドキドキする。千佳子は、その不道徳さにドキドキしているのであって、私のこの気持ちは勘違いに違いないと、いつも注意する。私は違うと思う。千佳子は本当はわかってる、私と奏也くんが相思相愛であることを。だから、口煩く警告してくるのだ。私は、奏也くんを、好きになってはならないと。
奏也くんは、私の兄である。

私が彼のことを奏也くんと呼びはじめたのは、いつからだろうか。お兄ちゃんと呼ぶことに抵抗を感じるようになったのは、いつからだろうか。私たちが初めてキスしたのは、どのくらい昔のことだろう。
奏也くんからは、濃密な夜の香りがする。私はその度寂しくなる。奏也くんと私はいつも遠い。彼と私の間には、5年という長い時間が横たわっている。そして、法律も私たちの間に立ちはだかっている。私たちはいつも何かに邪魔されている。奏也くんがお隣りの佐藤さん家の子だったら、なんの問題もなかったのかというと、そうでもない。何も気にせず一緒に住める。時に兄妹関係というのは都合が良い。

「不健全だなあ」
「なにが」
「あんたたちが」
「隣のクラスの斉藤さんだってもう彼氏とやってるじゃん」
「あんたの健全かどうかの基準はそれなわけ?」
「千佳子はどうなの、千佳子だって付き合ってる人いるでしょう」
「いるけど、戸田さんはそういうのじゃない」
「ふうん」

千佳子に昨日の放課後の話をしたら、顔をしかめられた。千佳子のことは好きだ。しかし奏也くんとの関係は、いくら千佳子でも否定することは許さない。
千佳子の彼氏の戸田さんは、私たちとは10歳くらい違う。千佳子にどこで会ったのと尋ねても、いつもうまくはぐらかされている。しかし、私は彼を一度だけ見たことがある。私にはなんでも気兼ねなく話す千佳子が唯一口を割らなかったのは、戸田さんのことだけだ。彼女がおしえてくれたのは、彼の名前だけだ。どんな人なんだろうと思ってはいたけれど、彼女から無理矢理聞き出すのは気が引けた。だから、あれは、事故なのだ。千佳子の家にふらっと遊びに行った私がいけなかった。千佳子の家から、彼女と清潔そうな白いシャツを着た人が出てきた。彼女には兄がいない。父親にしては若い。なんとなく、ああ、あれが千佳子の彼氏なんだ、とわかった。ふたりの距離は、友達にしてはなんだか秘め事のような甘さを持っていた。しかし恋人としては遠い気もした。ただ、彼の千佳子を見る目がとても柔らかいものだった。おそらく、彼が戸田さんである。
千佳子にはあの日のことは言っていない。彼女の可愛い顔を崩したくもなかった。

「でも私と奏也くんは、千佳子と戸田さんとは、違うの」
「それは、そうだけど、私は朱里が心配なんだよ」
「それは、わかってる。ありがとう」
「結局はあんたの問題だから私は口を出したくはないけど、ちゃんと考えなきゃだめだよ」

頷いてはみるが、それは言われなくともわかっている。でもそんなに理性を保っていられるほど、私はまだ大人じゃない。


家に帰ってから、奏也くんの部屋で彼と一回した。最中に千佳子と戸田さんのことを思い浮かべていると、なぜだかいつもよりぼんやりして気持ち良かった。戸田さんは千佳子とこういうことはしないのだろう、今日の千佳子の言葉を思い出した。じゃああの二人は、あの日、なにをしていたのだろう。そんなことを考えていたら、すぐに頭が白くなった。
ちかちかした感覚が収まるのと同じくらいに、奏也くんはさっさと服を身につけた。

「今日はどうしたの」
「どう、って」
「急に俺の部屋に来たりして」
「迷惑、だった?」
「そうじゃない、でも、朱里だってもうガキじゃないだろ」
「もう、やめるってことなの」
「朱里のことは好きだよ、けど、好きなだけじゃどうにもならないことって、あるよ」
「ないよ、奏也くん、私が嫌になったの、なんで、急にそんなこと言うの」
「朱里は俺以外の男のこと、もっとちゃんと見たほうがいい」
「やだ、なんで」
「俺も悪かったよ、でも、このままじゃ俺も朱里もだめになる」
「ならない、どうして奏也くんまで、そんなこと言うの、奏也くんだけはみんなと違うと思ってたのに!」

今のは終わりの合図の行為だったの。じゃあどうして今まではキスしてくれたの、抱いてくれたの。今までのは、全部、私が子供だったから付き合ってくれていただけなの。
言いたいことは山ほどあったのに、うまく言葉にならない。奏也くんは、好きなことは本当だよ、と私に服を手渡した。そんな言葉がほしいんじゃない。言葉なんていつもむなしい。何分か前にかえりたい。なにも考えなくていいあの快楽だけが、私にとっての真実だった。
今頃、千佳子と戸田さんは電話でもしているだろうか。それとも会って、なんでもない話題で笑いあっているだろうか。でも、どんな二人を思い浮かべても、抱き合っているところは想像できなかった。あの日の千佳子と戸田さんとの距離を、私は奏也くんと再現したかった。近くて、甘くて、柔らかい位置。雨が降っても、もう私に迎えは来ない。不安になっても、もう彼は私を抱いてくれない。これから先の長い時間、私たちは一番濃くて渇いた関係を、ただ淡々と続けるのだ。最後に触れた奏也くんの熱さは、もうすでに懐かしい夢のようだった。