birth | ナノ
後ろ姿を好きになったと言ったら、彼は笑うだろうか。それとも、困った顔をするだろうか。そもそも私は彼と片手で数えられるくらいしか話したことがない。物静かで、でもたまに言うことは妙に面白くて、恋なのか憧憬なのか迷ってるうちに彼はいなくなってしまった。スケッチブックには彼女のお気に入りだった彼の後ろ姿ばかりが残っている。
今になって冴子は思う。名前を聞いておけばよかったと。冴子は彼の苗字しか知らなかった。

「なに諦めてんのっ」
「…優ちゃんさあ、いつもそのテンションで疲れない?」
「それより!瀬古くん、美大やめたっぽいよ、噂によると」
「それ、本当?」
「あんた、疑ってるでしょ」
「少しね」
「ひどいなあ。冴子が思うほど、私嘘つかないよ」

じゃあ、この間私を騙してカラオケに連れていったのはどういうことだと冴子は心中で大きな溜め息をつく。いい加減、私と知らない男の子を無理矢理くっつけようとするのはやめてほしい。しかし、この調子のいい友人に何を言っても大して気にとめてはくれないだろう。
それより気になるのは瀬古が美大進学をやめたということと、優が冴子の思っていた以上に瀬古のことに詳しいということだ。
瀬古が美術予備校に来なくなったのは、一ヶ月ほど前のことだ。冴子はそれまで瀬古が特別気になっているというわけではなかった。優によると、瀬古は冴子たちより一つ年上で、去年は受かった他の美術大学を蹴り、今年、本命の美大を狙っているらしかった。冴子はそれを聞いたときに、自分とはタイプの違う人間だと思った。仮に自分だったら、本命のところじゃなくても受かったら別の大学に流れてしまうかもしれない、と考えていた。そんな自分の考え方は別に嫌いではなかった。学ぶ環境が少し違うだけだ。そう思うことにしていた。冴子は、本当は、大学に受かった他の者に遅れをとることが怖かっただけだ。自分の考え方も嫌いではなかったが、瀬古のような考え方を冴子は好きだと思った。
冴子は優に振り回されていたものの、優のことは割と好いている。優柔な自分にはないきっぱりとした態度をとる優は、頼れる存在である。優が瀬古について詳しいのは前からだし、だいたい優は噂をたくさん知っている。優の特技は盗み聞きなので、瀬古についてだけではなく、たいていの人の噂を優は把握している。それはそれは便利だが、優にこれ以上瀬古への気持ちを知られてはまずいと、冴子は常々思っていた。だからもう瀬古については興味のないふりをするつもりだったのに、そのやる気のなさが逆に優に火を点けてしまったようだ。自分のことじゃないんだから少しは放っておいてほしいと、冴子は思う。しかしそれは勝手かしら、とおかしな気を遣い、未だにグダグダしてしまっているのだ。

「冴子がグズグズしてるうちにあの瀬古くんにだって彼女できちゃうよ!」
「あの、ってどういう意味よ」
「正直、私びっくりしちゃった。だって瀬古くんってはっきり言って大人しすぎるっていうか地味っていうか」
「優ちゃんの好みと私の好みは違うの!」
「そりゃそうだけどさ」

これ以上口出しされても困る。冴子は、いろいろ情報ありがとう、と早口で優にお礼を言った。優は不満気だったが、思い出したように、あ、と声を上げた。

「瀬古くん、明日は予備校来るみたいだよ」

冴子は耳を疑った。優はそれ以上はもう喋らないとでもいうように、席を立った。
予備校の教室に掛けてある時計を見た。もう9時になる。冴子と優はこの美術予備校で出会った友達同士である。優は馴れ馴れしいものの、一方的に深く関わってこようとはしない。冴子は優のそんな部分がとても気に入っていた。
冴子も荷物をまとめて帰る準備をする。優はもう帰ったようだった。

家に帰ってから、冴子は頑張った。お風呂には1時間半入った。あの時間に帰ったのにこんなに長く入っていられたのだから上出来だ。買ったもののそんなに使用することのなかったパックだってした。ふと我にかえって、はりきりすぎている自分が少し恥ずかしくなった。
しかし、それも次の日一歩外に出れば忘れてしまった。よく見れば、可愛い子なんてそこらへんにたくさんいる。駅の鏡に映った野暮ったい自分の黒髪が少し気になった。
予備校に先に来ていた優に髪のことを相談すると、彼女はあっさり、そのままでいいんじゃないと言った。そういう彼女は綺麗な茶に染めているのに。優の髪の色は赤茶というよりは淡いピンクに茶を足したような色合いだ。彼女の学校は校則が比較的緩いらしい。優はいつも可愛い色のカーディガンやシャツを着ている。
どうして私の髪は黒のままがいいのかと尋ねると、彼女は不思議そうな顔をした。

「どうしてって、それが一番似合ってるからに決まってんでしょ」
「似合ってるの?」
「うん。だから黒のままなのかと思ってた」
「そっか」
「まだ気になるなら髪の量を減らしてみたら?」

冴子は綺麗な東洋系の顔だから黒すぎるくらいが似合ってると思うの。優は包み隠さず自分の思ったことを言う。だから冴子は割とムッとすることも多いが、こういうときは助かっているのも事実である。

「それより」
「なに」
「瀬古くん、隣の部屋にいるって」
「えっ」
「早く行ってきなよ」

優は冴子の背を押す。彼女の勢いに負けて仕方なく教室を出る。どうしようかと目線をさ迷わせた後、隣の教室を覗いてみることにした。光の漏れる部屋をそっと覗く。誰もいない。
珍しく優の言ったことが外れている。冴子が不思議に思ったのと同じ瞬間に、彼女の肩にあたたかいものがのった。手だ。
驚いて後ろを見ると、瀬古が立っていた。いくらか髪が伸びている。

「瀬古さん」
「久しぶりだね、覚えててくれたんだ」

冴子は不器用に何回もうなづく。瀬古はそんな冴子を見て少し笑うと、この教室使いたいの、と彼女に尋ねた。冴子は首を横に振る。

「あの」
「うん?」
「どうして、予備校、やめちゃったんですか」

瀬古の顔が一瞬曇ったのを冴子は見逃さなかった。同時に、聞いてはいけないことを聞いてしまったと後悔した。
俺、美大行くのやめたんだよ。瀬古は笑った。自分が無理矢理瀬古を笑わせてしまった。冴子は彼の顔を見ていられなくて俯いた。
なんでやめたの、私はあなたの絵がすごく好きなのに、あなたが、好きなのに。冴子の微妙な沈黙の意味に瀬古は気付いた。

「親の具合が良くないんだ」
「えっ」
「美術ってすごく贅沢な学問だろ、衣食住に含まれてなくて。俺は美術がなきゃ生活してくのって苦しいと思うけど、実際なくても生きていけるんだ」

本当に生きるために必要な順位をつけたら、こうなっちゃったんだよ。
彼は嘘が下手だ。彼が生きるのに確かに一番必要なのは絵ではないかもしれない。でも、一番なくしちゃいけないものも絵のはずなのに。
思わず顔をあげた冴子の顔を見て、瀬古は苦笑する。

「そんな顔しないで」
「だって、瀬古さん、あんなに綺麗な絵を描くのに」
「君だって描いているよ」
「でも、私は、瀬古さんの絵が好き」

自分の言っていることが瀬古を困らせていると、冴子は気付いていた。しかし止められなかった。瀬古は曖昧に笑って、ごめんね、と謝った。こんな言葉を言わせたかったわけじゃないのに。冴子はもうこれ以上どうやって言葉を繋げればいいのかわからなかった。

「君の自画像、俺はけっこう好きだったよ」
「自画像?」
「うん、肌の白と髪の黒が綺麗だと思った」

優と似たようなことを言う。髪を染めるのはしばらく延期しよう。冴子は流されている自分を少し笑った。
それに、俺は絵を描くことをやめるわけではないし。瀬古はすっきりとした顔をしていた。どこでも絵は描けるよ、と言った彼の顔はさっきのように無理をした笑顔ではなかった。
この人が好きだ、もっと知りたい。冴子の胸が苦しくなる。次に言うことはもう決まっていた。

「あの、下の名前をおしえてくれますか」