依子 | ナノ
 原宿、竹下通りのマックで十六時に待ち合わせ。そういう約束だったのに、マクドナルドに依子の姿はない。店の外に出てあたりを見回してみるが、やはり見当たらない。
 もう九月だというのに、未だにじゅわじゅわじゅわと蝉が鳴いている。こんなにうるさい蝉の声は若者には聞こえていないのだろうか。すべての不快感を忘れてしまったかのように、彼らは皆似たような笑顔を貼り付けて、通りの入り口の小さなアーチをくぐる。
 きっと依子も竹下通りをうろついているのだろう。彼女はいつもそうだ。待ち合わせに早く来ては、暇潰しの為うろついているうちに時間を忘れ、結局待ち合わせ場所に来ない。彼女を捜すのはいつも俺の役目だ。こめかみから流れる汗をスーツの袖で拭って、通りの奥へと足を進める。
 若者の群れを避け、ティーシャツの購入を勧めてくる黒人をかわしながら進む。暑い。高気温、光を吸収したスーツの黒、人々の熱気、さらに蝉の声。
「いた」
 この溶けるような暑さの中、依子は平然とした顔で靴を物色していた。彼女は今日も制服の上に、長袖のカーディガンを羽織っている。肌を焼きたくないらしい。彼女は、この竹下通りでスカウトされ、読者モデルの仕事をしているのだ。短いスカートからにゅっと出た足は、向こう側が透けそうなほど白く引き締まっている。茶色の髪は、日の光に当たって赤く輝く。制服を着ていなければ、高校生だなんて思われないだろう。名前を呼ぶと、彼女はこちらを見た。無表情だった顔がへにゃっと崩れる。彼女はキャバリアにとてもよく似ている。
「勝手に動かないでくれ」
「ごめんごめん。でも、こういう時の為にも、就職後の為にも、やっぱり携帯は必要だよ」
「おまえが大人しく待っていればすむことだろう」
 彼女はもう一度謝ってから、俺の腕を引いた。そしてスーツに触れると、
「もっと体型にあった良いスーツ着たほうがいいよ」
と嫌そうな顔をした。彼女は、見た目の良さと性格の良さは比例するものだといつも唱えている。自分の外見にすら気を遣えない人が、他人に気を遣えるわけがないと言う。
俺の前を歩く彼女のうなじには、汗など流れていない。依子は、夏も冬もまるで外界の温度を感じていないかのように振る舞う。そのまま俺の腕が離れても、そのことすら気付かずに一人でどこかに行ってしまいそうで、俺は彼女から目が離せない。
 彼女に腕を引かれたまま、服や靴や鞄を見て回る。依子は、自分が美しくなることへの努力は怠らない。そして、気に入ったものはすぐに買うことが彼女のポリシーだ。その為、一通り見て回ると、彼女の細い腕にいくつかの袋が重そうにぶら下がる。
「持とうか」
と手を差し出したが、断られた。自分の持ち物を人に持たせるのは気に食わないらしい。しかし、女の子に大荷物を持たせて、俺が手ぶらの状態では隣を歩くのが恥ずかしい。
「持たせてください」
と頼んでみると、依子は仕方なさそうに微笑んで、一つだけ袋を渡してくれた。中にはスカートしか入っていないのでとても軽い。重いものを寄こすようにもう一度頼もうとした時だった。
「すみません」
 強張った顔の高校生男子が依子の前に立つ。水色と紺のストライプのネクタイ、ブレザーに窮屈そうに収まっているがっちりとした体、ワックスで整えられた短い髪、そして大きなエナメルの鞄。サッカー部というよりは、野球部だろう。
「大賀依子さんですよね」
 彼は赤い顔で目線をさ迷わせている。一方の依子は、ただじっと男の顔を見つめている。彼女は女性誌の読者モデルだというのに、男にも名前と顔を覚えられているものなのだろうか。俺は二人の世界から弾き出され、成り行きを見守ることしかできない。
「俺、クラスの女子が読んでいた雑誌で依子さんを見て、可愛いなって思って、雑誌のインタビュー記事も読んで、外見だけじゃなくて性格も良さそうだなって……。音楽の趣味も合うし、あの、俺、セックス・ピストルズが好きで、依子さんも好きだって知って、それで、もしかしたらこれって運命かなって」
「何が言いたいの」
 要点をなかなか言わない男に痺れを切らしたのか、依子は彼の言葉を遮った。
「依子さんのすべてが好きです」
 男は、これ以上ないくらいに浅黒い肌を真っ赤に染めていた。たくましい体を縮こませて、俯いてもじもじとしている。依子は、地面を見つめたまま顔を上げない男に向かって、
「性格が良さそうとか、勝手に想像するの、気持ち悪い」
と呟いた。その言い方は、さすがに失礼ではないか。俺はたしなめるように、依子の背を軽く叩いた。彼女は、振り返って俺を睨む。しかし、その目には涙が溜まっていた。
「私のことなんて、よく知りもしないくせに」
 依子は手に持っていた袋を男に投げつけて、通りの奥へ走って行った。男は情けない声を出して、袋を全身で受け止める。袋の中からは、ありとあらゆるものが飛び出した。デニムのロングスカート、モカシン、赤いベレー帽、バイカラーのクラッチバッグ、そしてコットンパールのネックレス。これらを拾って、依子を追いかけなければならない。面倒だが、それが俺の役目なのだ。
 しゃがんで依子の荷物を拾い集める俺の存在にやっと気付いたのだろうか、男に、
「もしかして、依子さんの恋人ですか?」
と、おそるおそる尋ねられた。がたいの良い男が、俺のようなひょろひょろした男の顔色を窺っているだなんて、傍から見たらどんなに滑稽だろう。しかも、俺が恋人だなんて、彼女が聞いたら怒るに違いない。安物のスーツを着て、こんな時間に原宿をうろうろしている俺のどこが恋人に見えるのだろうか。彼女はもっと良い男を選ぶだろう。
「父親です」
 俺の言葉に、男は目を丸くした。そんな男を余所に、俺は荷物を拾い終え立ち上がる。あとは依子を見つけるだけだ。
 もう落としたものはないかと、最後に確認する。見回すと、道の端に、おそらくさっき拾ったネックレスでも入っていたのだろう、白い小さな箱が落ちていた。拾い忘れるところだった。箱を開けてみると、そこには何も入ってはいなかった。やはりネックレスが入っていたに違いない。コットンパールのネックレスを箱に戻そうとした時、何故かさっきの依子の悲しそうな顔が浮かんできた。俺は、結局ネックレスを箱に戻さないまま、蓋をそっと閉じた。