diamond | ナノ
 フランスでは最初のhは声ださないんだって。何回も聞いたようなくだらないジョークを言う学生がいる。彼の言葉に、ばっかじゃないの、と女の子たちは言い返す。なんだか、ああいうの、いい。すごく、いい。
 私はもう21にもなるというのに、ひとりだ。恋人がいないとか、そういうのではない、いないのは確かだが。知り合いは何人かいて、飲み会に気まぐれに誘われて、旅行サークルに入っていて、単位は落としたことがない。でも、私はたぶんここにいなくてもいいのだと思う。いても、いなくてもいい、そういう自由は、きっと自由とは言えない。かと言って、引き留めてほしいのかと問われれば、そうではないと思う。鍵穴に、たくさんある鍵の内のただひとつだけが、カチリと嵌まる感覚がない。私にカチリと嵌まってくれる人がいればいいのに。もうこの2年くらい、私は誰の鍵穴にもなれていない。

 久しぶりにサークルの飲み会に顔を出してみると、やっと馴染んできたような一年生たちがちらほらいた。あとは、いつもと同じメンバーだ。会長のノリちゃんと、騒ぐのが好きな高梨くん、ふわふわしてるのに空気は読める菜々子ちゃん、菜々子ちゃんのことが好きなカズくん、なぜか常にイライラしたような顔をしている小平さん、あとはおとなしくて可愛い二年生が何人かいる。こじんまりとしたサークル。私はこのサークルにいるときのみ、生きていると感じる。旅行が死ぬほど好きというわけではないけれど、この人たちといるときだけ、わたしは本当の私になれる気がする。
「この夏はねえ、奈良に行こうと思ってるの」
ノリちゃんが梅酒のソーダ割りを飲みつつ夏の予定を語ると、みんなも自分の予定を語りだす。私はみんなの話を聞くのが好きだ。みんなの声をBGMに、ハイボールを飲んでいると、高梨くんと目が合った。そして彼に、相田はどうするの、と尋ねられたので、少し考える。
「ロスに行く」
「ロス?なんで?」
「今ヨーロッパにいるバックパッカーの彼氏が、来月にはアメリカに行くって言うから、ロスで会うの」
「嘘つけ、彼氏いないくせに」
「ばれちゃった。昨日、前を歩いてた人がこんな会話してたから、いいなって思ったの」
「相田って、真面目な顔して、意味わかんないこと言うよな。そういうの、良いね」
高梨くんはそこで私と喋るのをやめ、また違う輪の中に入っていった。「良い」人から、「良い」と言われることの、心地よさ。高梨くんの黄色いTシャツが集団の中で大きく揺れる。きっと笑っているのだろう。自分が「良い」と思う人が幸せそうだと、うれしい気持ちになる。うれしい気持ちを増やしたくなる。私は、友達がほしいんだと気づいた。

 サークルでは、夏にシンガポールへ行くことになった。カズくんは国内旅行が大好きなので――加えて、彼は常に金欠なので――海外へ行くことには大反対だったが、いざ決まると誰よりも楽しみにしているようだった。菜々子ちゃんは、カズくんがシンガポールのガイドブックをめくるのをうれしそうに見ている。カズくんが菜々子ちゃんを好きなことは誰が見ても一目瞭然だが、私は菜々子ちゃんもカズくんのことを好きなんじゃないかと確信している。
「蛇巻きたいな、首に」
隣に座っていた高梨くんが、蛇を首に巻いているおじさんの写真が載ったガイドブックを見せてくれた。高梨くんはそうは言うけど、実際ビビりだから巻けないんじゃないのかなと思いつつ、曖昧に笑った。小平さんは、私たちの会話にため息をつきつつ、机に旅費回収用と書かれた封筒を投げた。
「盛り上がるのはいいけど、納金は今日までだからね」
カズくんは、げっ、とカエルが潰れたような声を出す。そして、急におとなしくなって財布の中身を数えだす彼を見て、みんなで笑った。
 カズくん以外の人たちは、小平さんにお金を渡す。お金払った人は名簿に名前書いてねという彼女の言葉に従って、私も名前を書いた。
「相田って、名前、マホって読むの?」
「うん。今更?」
「携帯に登録はしてあるけど、いつも苗字でしか呼んだことなかったから。それに、みんなあいちゃんって呼んでるから、あいって名前なのかと思ってた。愛するの"あい"」
「違うよ、それは相田のあい。相田愛じゃやばいよ、韻踏んでる」
「ね。でも、相田真保もやばいよ、アイダホみたい」
「ひどい」
「いいじゃん。ロッキー山脈あるし」
アイダホ。私の新たなニックネームなのだろうか、高梨くんは私をニヤニヤした目で見ながら、そうやって呼ぶ。そんな無防備な発音の間抜けそうなニックネーム嫌だ、と彼の肩を叩くと、漫画のように星屑がパチパチと飛んだ気がした。彼は私の腕を掴んで、やめろよ、と笑った。私も笑う。
 高梨くんとノリちゃんは同じ高校出身で、田舎から出てきた人見知りの私と仲良くしてくれたのがノリちゃんだった。そして、ノリちゃんの紹介で高梨くんと出会った。私は、最初、高梨くんが怖かった。彼はよく笑い、怒りをあらわにし、なんにでも正直で、しかしタブーには決して触れようとしなかった。彼が泣いたところはまだ見たことがないけれど、きっと涙を隠すことはしないのだろう。
「今年こそ、サークルのみんなと旅行行きたいな」
高梨くんは、ガイドブックの表紙にいるマーライオンを指で撫でながら呟いた。
「行くんだよ」
彼を見ながらそう言うと、彼はへにゃりと笑った。ビーグルが舌を出したときのような笑顔。
「相田って、たまに強引だよなあ」
その言葉に一瞬顔が強張ってしまった私を見て、彼は、良い意味でね、と少年のような顔で言った。良い意味で強引、と口の中で呟くと、その言葉は綿飴のようにじゅわじゅわと溶けていった。

 只野さんってどういう子なのかね、と昼下がりの主婦のような口調でノリちゃんが言う。今日のように、サークルの三年生の女子だけでご飯を食べることは珍しくない。ノリちゃんは鶏肉料理がメインの定食を、小平さんは菓子パンを、菜々子ちゃんはクリーム系のパスタ、私はおにぎりを食べる。 只野さんとゼミは同じだけど話したことはないなあ、と小平さんはレモンティーを流し込む。只野さんとは、高梨くんの彼女である。去年、高梨くんがサークルの旅行に行けなかったのは、只野さんに行かないでと止められたことが原因らしい。
「去年ミスコンに出てたよねえ」
菜々子ちゃんは、いつも語尾を伸ばして喋る。
「ミスコン」
ノリちゃんは、菜々子ちゃんの言葉を繰り返した。異国の言葉を習うときのように、彼女はミスコンという言葉を何度か繰り返す。
「そんな可愛い子と付き合ってるのか、高梨は」
「高梨くんは誰とでも仲良くなれる人だからわりとモテるんだよねえ」
「ああ、あいつは典型的な良い人だもんね」
良い人。ノリちゃんから見ても、高梨くんはやっぱり良い人なんだ。そんな良い人と知り合いだなんて、自分が褒められているわけでもないのに、誇らしい気持ちになる。自分が好きだと思う人が、他の人にも好意を寄せられているということは、すごく幸せなことだ。
「でも、私、高梨はあいちゃんのことも好きなんだと思ってるよ」
「あっ、それわかる」
「なんで、私?」
急に自分の名前が出たので焦ってしまう。今までみんなの会話を聞いていただけだったため、喉はカラカラだ。お茶を口に含む。
「好きって言っても、二股とかそういうのじゃなくて、たぶんこの二人はゆるく長く仲良しなんだろうなって」
ノリちゃんが、必死に私たちを言い表すための言葉を選んでいるのがわかった。うまく言えないんだけど、と苦笑した彼女が、いつになく美しく見えた。

 しかし、その夏も、最後の夏も、結局高梨くんは旅行に行けなかった。

「俺は、四月からサラリーマンになることに決まった」
「私は就職浪人だよ」
「相田を採らなかった会社が馬鹿なんだよ」
「そうかな」
「間違いない」
彼は、赤茶色だった髪を黒に染め、小さな毛玉の付いていたTシャツを脱いでスーツを着るようになった。スーツがあまり似合っていなくて、可笑しい。でも、彼はもうスーツと共に生きていかなければならない。いつまでもクタクタのTシャツは着ていられないのだ。
 それとさ、と彼は困ったような、照れたような、複雑な表情を浮かべながら、話を切り出した。三月はまだ寒い。上着の袖に指先まで隠した。なあに、と彼を促す。彼が言いにくそうにしているのを見て、私、この話を聞いていいのかしらと、不安になった。
「卒業したら、結婚するんだ」
寒い空気から逃れるように、私はさらに手を引っ込めた。そうしないと、ひとりではいられないくらいに切ない肌寒さだ。
 彼の言葉が春の空気に融ける。なんとなく、そんな気がした。そう言うと、彼は悪戯が見つかった子供のように笑った。彼はずっと少年のままの姿で、この四年間、私の前に立っていた。結局、隣には立ってくれなかった。それで良かった。特別な関係になりたがらなかったのは、いつも私のほうだった。
 高梨くんは、自分の髪に付いた小さな葉を手で払った。その手は思っていたよりも、繊細で、しかし固そうなものだった。
「相田も幸せになれよ」
彼はその手で私の肩に触れた。この手が私に触れることは、この先、きっともう無い。
「私たち、これからも友達ではいられないのかな」
この手が離れてしまったら、もう高梨くんとは完全に別れなくてはいけない気がした。
「相田は、俺にとっては、ずっと女の子なんだよ」
その言葉が出ると同時に、彼の手は私の肩から離れていった。
 私は性別のない生き物になりたかった。女でもなく、男でもなく、ただ居心地の良い場所で生きていける、そんな生き物になりたかった。
 女の子のために用意された高梨くんの鍵はひとつしかない。しかし、その鍵はもう鍵穴に差し込まれている。私は彼の鍵穴になれない。女でもなく、男でもない生物は、鍵穴にも鍵にもなれない。無性の私は、たぶんずっと一人で生きていく。
「俺、本当のこと言うと、相田の側に居られる自信がない。相田と付き合ってるわけでもないのに、おまえに恋人ができたらきっと複雑な気持ちになると思うんだ」
彼は、しばらく黙ってから、それに俺には里沙がいるし、と静かに言った。只野さんの下の名前は里沙というのか。彼は、私に向けて言葉を発するときよりも、只野さんの名を呼ぶときのほうが、声が甘くなる。じっと彼を見つめていると、彼が涙目になっていることに気付いた。この人は泣くことを我慢する人なんだとその時初めて知って、私は、やっぱりこの人いいなあと、呑気に考えていた。