夏に融ける | ナノ
龍兄は馬鹿だ。中学生の私から見ても馬鹿だ。だから放っておけない。だから放っておかない。なのに龍兄は私を見ない。
最近、小学生のときに龍兄と一緒に家出したことをよく思い出す。お母さんに怒られて家に帰りたくないという私の我が儘に、龍兄は呆れた顔をしながらも付き合ってくれた。あの頃も龍兄が好きだった。お母さんもお父さんも私を分かってくれない、私を分かってくれるのは、きっと世界で龍兄ただ一人だと思っていた。けれど家出はあっという間に終わりを迎える。途中で龍兄に説得されて、結局すぐ家に帰ってしまったのだ。
龍兄はいつでもすごく大人だった。精神的にも、実際に年齢でも。しかし、龍兄はやっぱり馬鹿だ。あんな変な女と付き合っているなんて、絶対おかしい。龍兄はせっかくかっこいいのに。昔から龍兄の一番近くにいたのは私だったはずなのに。分からないことばかりだ。家出したあの夏の日に、まだ自分だけが取り残されているような感覚に襲われる。私はまだ、龍兄の手に拐われることを夢見てる。

・ ・ ・


雨が降っている。こんな日に皆で集まろうと言い出したのは、直くんだ。彼は天気予報を見ない。途中で雨が降ったら傘を買えばいいし、家を出る前に雨が降っていたなら傘を買わなくてすんでラッキーだったと思う人だ。彼と一緒にいると家の傘が次第に増えていく。いらなくなったビニール傘は龍兄にあげる。だから龍兄も傘をたくさん持っている。
直くんは宿題の提出期限は守らないけど、待ち合わせだけはちゃんと時間通りに来る。私が真理と一緒に待ち合わせ場所へ行くと、遅い、と直くんの大きな声が響いた。直くんは声が大きいからいつも注目される。

「おまえらが最後だよ。もっと早く来いよな」
「直くんはいつも早く来すぎなんだよ」
「沙希がそう言うから、今日は十分前に来た」
「だから早いってば」

直くんは少しむっとしてから、時間がないと言って皆の先頭に立ってさっさと歩き始めた。直くんはいちいち行動が早い。直くんの髪は今日もツンツンと立っていた。彼は自分の背が低いのを気にしている。

「ねえ、沙希。人数少なくない?」
「そういえばそうだね。卒業したのにわざわざまたクラスで集まりたくないんじゃないの」
「ええー、なんかそれって悲しいなあ」

真理の言う通り、集まったのは十人くらいしかいない。仲の良い人がいなきゃ来たくないっていうのもわかるが、それにしても少ない。でもカラオケには丁度良いだろう、まだ少し多いような気はするけれど。直くんは生島くんとカラオケ店の中へ走っていった。直くんがカラオケ好きなのはよく知っているが、生島くんも好きだったとは。そもそも、直くんと生島くんはどう考えても仲良くなるタイプじゃない。直くんが外で遊んでいたら、生島くんは中で本でも読んでいると思う。細い銀縁のメガネをかけた生島くんが、私は少し苦手だ。
部屋行こうぜ、とまた皆の先頭に直くんが立つ。彼は一年間、こんなふうに私たちのクラスを引っ張ってきてくれた。なんだかんだで頼りになる直くんは、いつも皆の中心にいた気がする。でもそんな直くんの一番側にいたのは、生島くんだ。直くんは生島くんの話をよくするから、生島くんのデータになら詳しい自信がある。そんな自信、あっても役に立たないけれど。
直くんは席に着くと、早速選曲を始めた。次にはもうマイクを握っているもんだから驚く。直くんと二人でカラオケに行くと彼はマイクをなかなか離さないけれど、今日はさすがに皆に気をつかっているらしい。しかしやっぱり皆より多く歌っている気がする。

「浅井さん、歌わないの」

急に声をかけられ驚いて横を見ると、生島くんだった。今、選曲中。曖昧に笑うと、そうなんだ、と生島くんも適当に笑った。確か私の左隣は生島くんじゃなくて、遥だったはずなのに。遥はいつの間にか直くんの隣で歌っていた。確か彼女は直くんのことが好きだと言っていた覚えがある。直くんは友達としては最高だけど、男の子としては少しやんちゃすぎると思う。

「浅井さんの話、直からよく聞くよ」
「えっ、直くんが?」
「直と浅井さん、仲良いから」
「生島くんのほうが直くんとは仲良いでしょう」
「だって俺は男だから、男同士通じ合うものがあるんだよ」

生島くんに男という言葉は似合わない。ついでに言ってしまうと、俺という一人称もあまり似合っていない。どちらかというと、僕のほうがしっくりくる。女の私よりきれいなストレートの髪が羨ましい。
男だからとか女だからとか、そんなに関係ないでしょう。生島くんは私の言葉に、関係大有りだよ、と反論する。彼はこんなに自分の意見を強く主張する人だったのか。彼の真剣さに驚いて思わず黙っていると、彼は小さな声で呟いた。
抜けよう。
次の瞬間にはもう腕を引かれていて、あまりにすばやい生島くんの行動に盛り上がっている皆が気付くはずもなく、私も咄嗟に抵抗できず、外に出てきてしまった。生島くんは、お腹空いちゃった、と私の腕をそのまま引いて、ファストフード店に入っていった。生島くんは細いわりにによく食べる人だと、のんきに考えた。
彼はポテトをかじりながら、なんて女ってずるいんだろう、と呟いた。

「ちょっと生島くん、それどういう意味」
「そのまんまだよ。女の武器だとか訳の分からないことを言って、不細工な泣き顔を見せる。最悪」
「そんな古典的な女の子、なかなかいないよ」
「君の友達のことだよ、さっき君の左隣に座ってた」
「遥?」

生島くんは小さく頷いた。あの子は直のことが好きなんだろ。生島くんの声は、まるでヤキモチを妬く女の子のそれに似ていた。

「どうしてそんな目で俺を見るの」
「えっ、ごめん」
「どうして謝るの」
「えっと」
「どうして好きになっちゃいけないんだろう。どうして皆、認めてはくれないんだろう」

生島くんは、きっと、直くんが好きだ。私も、直くんが好きだ。けど、私の直くんに対する感情と、彼の直くんに対する感情は違う。私の龍兄への感情と、たぶん同じものだ。でも、そうだとしたら、生島くんはなんて大変な道を歩んでいるのだろう。生島くんはきっと同情されるのが嫌いだから、私は何も言わなかった。

「浅井さんは俺のこと、嫌いになれないと思う」
「どうして?」
「俺たち、似た者同士だから。好きになっちゃいけない人を好きになってるって、直から聞いた」
「直くんから!?」

直くんは口は固いはずだけど、生島くんにだけはポロッと言ってしまうのかもしれない。だからって、ばらされて怒らないわけはない。生島くんは苦笑しつつ、許してあげてね、と言った。その言い方は直くんの保護者みたいだ。龍兄の彼女の口調に似ていて少し気になった。龍兄を自分のものだと言わんばかりに、私に敵意を剥き出してくるあのおかしな女。生島くんもその仲間なのかと思うと、すごく馬鹿らしく、そしてどこか悲しく感じてきた。

「いいな、浅井さんは。普通に好きだって言えるし」
「生島くんだって私と同じだよ」
「違うよ、決定的に違うものがある。
ねえ、俺が女なら良かったのかな、それとも直が女なら良かったのかな」

好きなら好きって言えばいいじゃない。そんな言葉をうっかり口にしそうで焦った。そんなこと、私にだけは言われたくないだろう。私だって龍兄に何も言えてないくせに、そんなの言えるわけがない。

・ ・ ・


龍兄に彼女ができたのは、龍兄が高校一年生の終わりの頃で、私が中学二年生の時だった。私はクラスの男子があまり好きではなかった。龍兄とよく遊んでいたせいもあるし、私の通うピアノの教室は大人の人が多かったというのも原因で、同年代の男子がすごく幼く見えて嫌だったのだ。ただ、直くんは龍兄とどこか似ていて、ハメをはずす時ははずしてしっかりするところはしっかりする、大人っぽい面に惹かれたのだ。
龍兄は、あいつには俺がいなきゃだめなんだ、と言った。ドラマのようなセリフだと思った。告白する前に、私は振られた。俺もあいつじゃなきゃだめなんだ。龍兄は真面目な顔でそう言った。
龍兄も、私も、馬鹿だと思った。その人しかだめだなんてあるわけない。龍兄は勘違いしている。その人なんかより、私のほうが龍兄のことを好きな自信がある。私のことを威嚇する龍兄の彼女を馬鹿だと思った。私はあんたなんかに龍兄を取られるわけないと思ってるから、動揺なんかしないの。その見せかけの余裕が子供だったのだ。女は龍兄をかっさらってしまった。龍兄は女の話ばかりする。あんな女の誕生日など、好きな食べ物など、興味ない。私のことならいくらでもおしえるから、だから、龍兄、私を見てよ。

・ ・ ・


彼は、告白しないの、と私に尋ねた。できないの。そう言おうと思ったけど、やめる。できないんじゃない、しないだけだ。龍兄の幸せを壊してしまうという建前で、本当は私が傷つきたくないだけ。告白はしないよ。そう返すと、うん俺も、と生島くんは呟いた。私は龍兄と彼女のことを考えて、今更ショックを受けた。頭をどおんと殴られたような気がした。龍兄の中に、女としての私はいない。
生島くんはおもむろに携帯を取り出した。彼の携帯はぴかぴかと光っている。メールのようだ。生島くんは泣きそうな顔で薄く笑うと、携帯画面を私に向けた。

「直が、怒ってる。俺と浅井さんがいないってやっと気付いたみたいだよ」
「その割には嬉しそうじゃん、生島くん」
「当たり前だろ。俺と君がいなくて、直は俺にはメールをくれたんだ。それだけで十分なんだよ」

生島くんがあまりに幸せそうに笑うから、私は彼がもう楽になれればいいのにと願った。しかし彼も私のように、このカラオケを抜け出した日を思い出しては切なくなるのだろうか。直くんに連れ去ってもらいたいと思うのだろうか。それとも、カラオケボックスから直くんを拐いたいと思うのだろうか。どれにしても、生島くんはこれからもずっとひそかに悩んで、また泣きそうな顔をするのだろう。生島くん、メールのアドレス、交換しよう。私は自分の携帯を取り出した。生島くんも黙って赤外線受信画面にした。私たちは別々の高校に進学する。交換しても一度も連絡をとらないかもしれない。けれど、アドレス帳に登録されたお互いの名を見たとき、少しは強くなれるかもしれない。
そういえば、明日は新しい制服を作りに行かなければならない。戻ろうと言う生島くんに、私は小さく頷きついていった。生島くんはどんな制服を着るのだろう。ブレザーのほうが、きっと似合う。
来月には、私も龍兄と同じ高校生になる。