bypass | ナノ
大人って、思ったよりも私と変わらない。身体が大きくなっただけの人がいる。私から見ても、呆れてしまうほどの人がいる。
でも、私の知らないことを経験して、私が考えたことがないようなことを考える人もいる。
じゃあ私が何をできるようになったのかっていったら、愛想笑いと、無難な言葉選びと、頭を下げることくらいだ。翔くんは、どうなんだろう。

私は彼を想うと寂しくなる。彼はいつだってひとりだ。私と一緒にいたって、ひとりなのだ。彼との会話は、まるでロボットとのキャッチボールだ。投げたら返してくれるけど、投げなければ永遠に返ってこない。求められた最低限の動作しかしない。全てを置き去りにして、ふらふらとどこかに行ってしまいそうな彼が怖い。
私はそんな彼と居るのが寂しいのだ。気付けよ、と、思う。おとななんだから、こどもの私をドロドロに甘やかして、安心させてよ。
そんなことを望んだら、私を面倒に思って捨てる彼の姿が容易に思い浮かんだ。
あなたは私に泣かせてもくれない。

翔くんの部屋は無機質な感じの白い家具ばかりだ。リビングの隅にどーんと座っているサンセベリア――観葉植物だけがこの部屋で唯一の生き物に見える。住人の翔くんは、観葉植物よりも無機質なもののようだ。彼の色素が薄いせいなのだろうか。彼と観葉植物の二人暮らしに割り込むのが、私は好きだ。
寝ている翔くんの脇から抜け出してトイレに行く。手を洗ってからまた翔くんの脇にもぐりこんだ。まだ3時だ。

「もう、朝?」
「ううん、3時。ごめんね、起こしちゃって」
「どしたの」
「トイレ」
「寒かったでしょ、おいで」
「うん」

翔くんの薄い胸に額を押し付けると、彼はそんな私を軽く笑って、後頭部を撫でてくれた。
翔くんは私より9つ年上。彼のお父さんの喫茶店を手伝っていて、もうすぐお父さんの跡を継いで店長になるらしい。26歳なのに。私はまだ進路で悩んでいるというのに。しかも、昔ながらのその喫茶店はメニューやインテリアを流行に合わせて変えているし、料理を作っている人の腕前も良いからわりと繁盛している。私が学校帰りに喫茶店に寄ると、翔くんも、翔くんのお父さんも、料理を作っているバイトの坂井くんも、優しく迎えてくれる。でも、ただ一人、私と同じ学校でクラスメイトの加瀬くんだけは、私に優しくない。私に、というか、基本的に無口で無表情でただ仕事を淡々と熟す感じ。でも、加瀬くんのいれてくれた紅茶はおいしい。

「明日テストなの」
「ふうん、勉強しなくていいの」
「したもん」
「加瀬もあんまりしてるようには見えないよな」
「私はしたもん」
「はいはい、じゃあもう寝な」

翔くんは私の瞼を手で下ろした。なんだか私、刑事ドラマの死体みたいだ。翔くんは死体の目を閉じてあげる刑事さん。ふふ、と笑うと、翔くんも笑ってくれた。

テスト期間が終わってから喫茶店へ向かうと、4日ぶりの翔くんがいた。翔くんはテスト期間は私から距離を置こうとする。学生の本分は勉強だからだ。翔くんはケーキをおごってくれた。優しい。そして、厨房にいる加瀬くんに、お前はテストどうだったの、と尋ねる声が聞こえてきた。加瀬くんは、普通です、と素っ気なく答えた。加瀬くんはいつもこの調子だ。彼の話す言葉は限られている。はい、いいえ、別に、普通、これだけあれば充分なのだ。
翔くんの家に帰ってから、加瀬くんって可愛くない、と言うと笑われた。だって加瀬は男だし、という翔くんの言葉が、あまりピンとこなかった。加瀬くんは男の子というより、植物だ。そう、例えば、あのリビングの隅に居座るサンセベリアのような。そう考えると、まるで加瀬くんに監視されているような気分になる。私と翔くんが笑い合うところを、トイレに行くためベッドを抜け出した私を、野性的な私たちを、翔くんの可愛い性器を、リビングの隅からじっと息を潜めて眺めているのだろう。加瀬くんの苦々しい顔がすぐに想像できた。彼はあまり嬉しそうな顔をしない代わりに、嫌そうな顔のバリエーションは豊富なのだ。憎たらしい。


「あんた、中澤さんと毎日一緒なの」

思わず、声を出すのを忘れてしまった。中澤さんという苗字と翔くんを結びつけるのに時間がかかったけど、それよりもあの台詞は本当に目の前の彼から出たものなのかと疑ってしまった。加瀬くんから質問されるのは初めてだ。
吃りながら、毎日ってわけじゃない、と言うと、眉をひそめられた。少し怖い。

「でも、あんた、ほぼ毎日あそこ来るじゃん。帰りも中澤さんと一緒だし」
「それは、翔くんの家に泊まるから」
「毎日?」
「テスト期間は違う」
「それ以外は毎日泊まってんだ。親とかになんか言われないの」
「か、加瀬くんには関係ないでしょ」
「あるよ。あんた、なんか、気になるから」
「あんた、って」
「水谷さんのこと」

水谷さん。私のことか。翔くんは私のことを一度も苗字で呼んだことがないから、自分の苗字というものを久しぶりに耳にした気がする。
それより、なぜ加瀬くんが私を気にかけるのだろう。彼は私のことなどどうでもいいと思っていると、思っていた。あんたのこと好きなのかな、と彼に尋ねられたが、さすがにそこは自分で考えていただきたい。でも、私には翔くんがいるからだめだよ。そう言うと、加瀬くんは、あんたたちってどういう関係なの、と聞いてきた。真顔だった。加瀬くんはいつもリビングの隅で堂々と私たちを見張っているくせに、どうしてそういうことを言うの。

翔くんの家に帰ってから、今日加瀬くんに告白された、と翔くんの背中に向かって声をかけた。翔くんはキッチンでスパゲティーを作ってくれている。アサリとイカが入っていて、おいしそう。彼は喫茶店ではレジばかり担当しているけれど、料理だってちゃんとできる。翔くんは、後ろで冷蔵庫からプリンを取り出す私に、ふうん、といつも通り興味なさそうな返事をした。そして、飯食う前にプリン食うなよ、と言う。それより、加瀬くんの話のほうに反応してほしかった。
翔くんは私より少し大人だからかなんなのか、必要以上に心配も嫉妬もしない。私は寂しい。もっと口を出してほしい。翔くんは私よりスパゲティーばかりに目を向ける。こっち向けよ、と思うけど、言わない。翔くんに面倒だと思われたくない。ここから追い出されたら、私には行くところがない。家はあるけど、お母さんは知らない男の人と帰ってくる。
食べな、と私の前に湯気のたったスパゲティーの皿と箸が置かれる。翔くんはスパゲティーを食べるとき、必ず箸を使う。フォークとスプーンがたてる音が耳障りだと言う。

「凛子は断ったんだろ」
「え」
「告白。されたんじゃないの」
「あ、うん」
「それで」
「断った」
「なら、いいよ」

この話はもう終わりだと言うように、翔くんはさっきまで飲んでいたお茶の入ったグラスを持って立ち上がった。お茶を頭からかけられるんじゃないかと思うくらい勢いよく立ち上がったから、思わず肩がはねてしまった。翔くんはリビングの隅に佇むサンセベリアにそのお茶をあげた。しばらく私が水をあげるのをサボっていたせいか、木は勢いよくお茶を吸収した。
あんたたちってどういう関係なの。いつもより饒舌だった今日の加瀬くんが台詞と共に浮かび上がってきた。
知らない。そんなの、私が聞きたい。あなたには、私たちはどう見えているの。

「お茶なんて、木にあげていいの」
「凛子だってこの前オレンジジュースあげてただろ」
「だって果汁100パーセントのジュースって自然に還れそうだったから」
「お茶だって還れるさ」
「そうかな」
「そうだよ」
「ふうん」
「凛子さあ」
「うん」
「何かあったの」

頭を上げて翔くんの顔を見ると、ガラスのような眼で、彼も私を見ていた。翔くんが私の様子から何かを察するなんてことは初めてで、あんなに優しく問い掛けてくれたのに、私は言葉が出ない。私がウロウロと目線をさ迷わせている間も、彼の射るような視線を右頬に感じた。
言っていいのかわからない。翔くんにおんぶに抱っこな状態の私が、これ以上我が儘なんて言っていいのだろうか。寂しいだなんて、口にしても許されるのだろうか。
翔くんは空になったグラスを置いて、ゆっくり口を開いた。

「おまえは、俺の、なに」

ずっと聞きたかった、と続けながら、彼はソファに沈んだ。
私が翔くんの何かなんて、私が聞きたいことだ。加瀬くんも聞きたいことだ。
よく行く喫茶店のレジを担当している翔くんと出会って、喫茶店に通ううちに仲良くなって、私の話を聞いてくれて、居心地の悪かった私の家から解放してくれて、行き場のない私を拾ってくれて、こんな良い人いない。きっとお父さんかお兄ちゃんがいたらこんな感じなのかなって思った。でも、他人で良かったとも思った。血の繋がりがないから、私たちは何からも隠れることなくキスできる。

「言いたいことあるなら、言いな」
「…」
「俺わかんねえよ、言ってくれなきゃ」
「翔くん、怒るかもしれない」
「怒らないよ、言ってごらん」
「…私、寂しい」
「うん」
「私も、私が翔くんにとってどういう存在なのかわからない」
「うん」
「翔くんの言うことならなんでも聞くから、翔くんがこの関係に名前を付けて」
「うん」
「翔くんは私のこと、いつか簡単に手放しそうで、私、寂しい」
「うん」
「翔くんは大人だから、いつも飄々としてるけど、私はずっと寂しかった」

私が吐き出す言葉を、翔くんは優しく相槌を打ちながら拾い集めてくれた。翔くんの薄っぺらい胸に顔を押し付けると、彼のお気に入りの香水の香りがした。

「俺だって毎日不安さ、生きてる限り、ずっと不安だ」

後頭部に手をあてられたから顔をあげると、悲しそうな嬉しそうな見たことのない顔をした彼がいた。

「翔くん、私、翔くんのこと、すごく好き」
「うん、俺も凛子のこと、大好き」
「うそみたい」
「おまえは大人に夢見すぎだよ。おまえとなんにも変わんねえよ、凛子と同じように、嫌われないかなとか、心配で仕方ないんだよ」
「翔くん、好き」
「うん、加瀬には俺と付き合ってるから無理って言いな」
「うん」

翔くんは私にキスをした。いつも余裕そうな彼からは想像できない、子供みたいな、噛み付くようなものだった。私は彼がどうしようもなく愛しくて、この人を幸せにしようと決めた。
リビングの隅で佇んでいた加瀬くんは、いつの間にかただの観葉植物になっていた。