sugar | ナノ
千佳ちゃんは、いつも私の憧れでした。
玲奈は、彼女の見た目にはあまり似合わない達筆な字を書く。玲奈のその字を見て、私はただ、もう彼女はここにはいないのだと思うことしかできなかった。戸田さんは泣く私を見て、玲奈ちゃんはまだどこかできっと元気でいるよ、とタオルを渡してくれた。
知っている。そんなことは、わかっているのだ。しかし、戸田さんは知らない。私の涙の理由も知らないまま、私を慰めるのだ。それがあまりに滑稽で、だけど玲奈の空白をより際立たせていて、私は立ち直ることができない。玲奈はいてもいなくても、私を束縛して離さない。永遠に逃れることのできないこの檻の中で過ごすには、時間は残酷なまでに穏やかだ。

高校に入学してから、私はより枯れたと思う。朝から日が落ちて辺りが暗くなるまで、毎日毎日走っていた。こんなに走っているのに、道はいつまでも変わらない。あんなに力強く駆け抜けているつもりなのに、平然とただそこにある。毎日踏まれても、雨が降らない限り、同じ固さを保ったままでいる。
戸田さんは、初めて私に会ったとき、想像とまったく違うと言った。彼は微笑むわけでもなく、思ったことをそのまま口に出しているだけのようだった。随分無愛想な人だと思った。今もそれはあまり変わっていないけれど、冷たいわけではないとわかったから、もう特に表情は気にならない。戸田さんに一度そのことを話したら、君だって大して笑わないくせに、と言われてしまった。そんなこと、初めて言われた。そう言うと、嘘だろう、と彼は少し笑った。なんだ、この人だってちゃんと笑えるんじゃない。優しい微笑みとは言い難いものだったけど。

幼い頃、私は団地に住んでいた。昔から走るのが好きだった。小学校から帰ってくると、ランドセルだけ玄関に残して、同じ団地の友達とすぐに遊びに出かけていた。お金も携帯もなにも持たず、ただ走り回るだけで満足していたあの頃。今考えると、ありえない生活である。小学生のときの私はまるで男の子のようだった。毎日外に出ていたから色黒で、髪はショートカットで、服は動きやすいようにショートパンツとスニーカーがお決まりだった。そのおかげで、今、私の足は汚い。草むらで傷をたくさんつくったり、転んだりしたせいで、膝がとても汚い色をしている。しかし、戸田さんは、この足を美しいと言う。変な人だ。
団地の子たちとは仲が良かった。日頃からあそんでいるから、私は寂しいと思ったことがなかった。それくらい毎日にぎやかで、私はみんなが好きだった。でも皆の中に含まれない子がいた。それが、玲奈だった。
玲奈は、小学校高学年になった春頃に転校してきた。同い年だった。私の隣の家に住んでいた人が引っ越したから、春には新しい人が来るだろうという噂は聞いていた。玲奈は新学期になる直前に引っ越してきた。玲奈は、美しかった。可愛いとは違っていた。とても綺麗だった。色白で、長くたっぷりとした黒髪で、ピンクのワンピースを着ていた。玲奈が皆の前で自己紹介をするとき、教室は恐ろしく静かだった。誰もが、玲奈の言葉を真剣に待ち望んでいた。

「倉田玲奈です。よろしくお願いします」

玲奈の自己紹介はそれだけだった。鈴の音のような声だった。美しかった。
玲奈は私のことを頼っていた。それもそうである。玲奈には私しか知り合いがいなかった。始業式の直前に引っ越してきたから、玲奈の家はバタバタしていた。玲奈の母親もとても美しい人で、高級そうなお菓子を持ってうちに挨拶に来たのを、今でも鮮明に記憶している。その日、初めて玲奈と話した。玲奈の家は片付けやなんかで忙しそうだったから、私の家で、その日、玲奈と初めて遊んだ。外で遊ぶのは好きかと尋ねたら、首を横に振られた。私はお絵かきが苦手だったし、おままごとも好きではなかった。しかし今日くらいは玲奈の好きなことを一緒にしようと子供ながらに考え、部屋で遊ぶことにしたのだった。玲奈が家から持ってきた雑誌を二人で眺めた。ファッション雑誌だった。私はこういうことには疎くて、玲奈が言ったことに頷くだけだった。とても長い時間に感じられた。この子は、私とは違う世界で生きてきた子だ。出会ったから数分で、私は玲奈を拒絶してしまった。

しかし、玲奈は私を気に入ってくれたようだった。学校では私の後ろについてくるので、自然と私のグループに加わっていた。男子は玲奈のことを可愛いと言った。女子は玲奈の可愛さの秘密を知りたがった。皆、玲奈のことを好きになっていった。玲奈はどこでも愛される子だった。クラスメイトにも、先生にも、団地の人たちにも好かれた。私は怖かった。玲奈が怖かった。私の位置は、いつの間にか玲奈の席になった。男子は女子を気にするようになった。女子は男子を気にするようになった。私は怖かった。気付けば、クラスの女の子たちの服は、レースがついていたり、可愛い柄のスカートだったり、いつの間にか動きやすさばかりを重視するものではなくなってしまった。中でも玲奈は飛び抜けて可愛かった。皆は、玲奈がいつか読んでいたような雑誌を読み、情報を交換し、女の子になろうとしていた。傷だらけの足で茶色くなったスニーカーをいつまでも履いていたのは、私だけになっていた。
中学生になってからは、制服だったから、私は仕方なくスカートを履かなければならなかった。スカートの中はスースーしていて落ち着かなかった。制服というのは楽でもあり、残酷でもある。玲奈は膝丈のスカートを綺麗に履きこなしていた。友達はほとんどが短いスカートを望んだ。玲奈は長さなどどうでもいいと言った。短いほうがいいと言った子たちは、玲奈を疎ましく思い始めたようだった。玲奈はやはり美しく、素行も良かったので、先生によく好かれた。他の小学校から来た男子は玲奈に尊敬とも恋とも違うような視線を送っていた。女子の一部には玲奈を煙たがる人もいるようだったが、おそらく皆憧れていたのだろう、ガラス細工のような彼女に。
玲奈はやっぱり私を気にしてくれているようだった。私としては、玲奈のそばよりは、外で思いきりはしゃいでいるほうが好きだった。しかしそれを直接伝えるほど、もう子供ではなかった。しかし、大人でもなかった。私はあの時、玲奈との距離をどうすべきだったのか。私は、あの日から成長できていない。今も玲奈にかける言葉が見つからない。

「千佳ちゃん、今日の放課後、一緒に出かけない」
「私と、どこに」
「いつも私が付き合ってもらっているから、今日は千佳ちゃんの好きなように」

玲奈が好きではなかった。けれど、玲奈に千佳ちゃんと呼ばれるのは好きだった。呼び捨てにされるときよりも、大切に扱われている気がして、誰にも言わなかったけれど、それだけは気に入っていた。
玲奈はいつも私との距離を縮めようとしていた。それは、玲奈が初めてうちに来たあの日に、すでに気付いていた。私は玲奈に嫌われたくて、その日の放課後、私の所属している陸上部の活動を延々と見学させた。途中で帰るだろうと思って、そうした。しかし玲奈は、私の100メートルを走り抜ける様子を、黙って、ずっと見ていた。何本も走った。玲奈は、最後まで、嬉しそうに、私を見ていた。

「おかしいよ、あんた」
「なにが」
「なにがって、普通、途中で帰るでしょう」
「だって、いつも私に付き合ってもらってるから」
「そろそろ気付いてよ、やめてよ」
「千佳ちゃん」
「どうして私に構うの、あんたといると、私がみじめな気持ちになるの」

言ってしまってから、はっとした。玲奈は黙ってこっちを見ていた。その真っ白な視線からすぐに逃げ出したかったが、私には逃げる場所も、隠れる場所もなかった。不謹慎ながら、その時の玲奈はそれまでで一番美しかった気がした。長い時間が流れたように思えた。玲奈は眉を下げて、泣きそうな顔で、小さく、ごめんなさいと言った。私がなにか言おうとする前に、玲奈は走って帰ってしまった。私のほうが謝らなくてはならない場面だった。
それが咄嗟にできなかったのは、言い訳になるかもしれないが、驚いていたからだった。言ってしまった後、初めて私が玲奈に嫉妬していることに気付いた。汚い。私はどこまでも汚い。私だって玲奈みたいになれるものなら、なりたかった。白い柔らかそうな肌に、つやのある髪に、大きな目に、きれいなピンクの唇に、細い手足に、私に接するときの変わらないあたたかさに、いつも憧れていた。それを、羨んでいた。何も努力しないまま、ただ妬んでいただけだった。地面がふにゃふにゃと歪んだ。しゃがんで土に手を伸ばすと、やっぱり固いままだった。歪んで見えたのは、涙のせいだった。
それからずっと玲奈とは話せないままだった。玲奈に近づくのが怖かった。でも謝らなければならないと思っていた。しかし、玲奈も私を避けていた。一度だけ二人きりになったが、玲奈は眉を八の字にして、逃げてしまった。
玲奈はとても遠い高校に行くらしかった。どうやらまた引っ越すらしい。母親に聞いた。そうなんだと返すと、玲奈からなにも聞いていないのかと尋ねられた。なにも答えられなかった。
卒業式が終わってすぐ、玲奈は引っ越した。結局なにも言えないままだった。その日、母から手紙を渡され、あの玲奈の文字を見たのである。そういえば、私は彼女のメールアドレスすら知らないままだった。
戸田さんとは中学2年生の夏休みに出会った。コミュニティーサイトで出会った。ネットは不思議だ。顔が見えないと人は、強くも、弱くも、優しくも、酷くもなれる。戸田さんは水のような人だった。今も変わらない。戸田さんはわたしのことをわかってくれている。私がつたえたわたしの情報は、すべて覚えてくれている。しかし、戸田さんから私を知ろうとしてくれたことは、今までに一度もない。これからも、きっと、ない。だから私は戸田さんが好きだ。
玲奈がいなくなってしまった。人は寂しくなると、誰かに自分を知ってもらいたいと思うものだ。戸田さんに今まで隠していたことをおしえてあげた。私の名前、本当は千佳じゃなくて、千佳子っていうんだよ。そう言ったら、戸田さんは、そうなのと呟いた。顔色ひとつ変えなかった。しかし、戸田さんは未だに私のことを千佳ちゃんと呼ぶ。初めて彼女の声を聞いたあの日が、甘い痛みとともに、また蘇る。