(男鹿と古市)



男鹿の残り香がある部屋にいたくなくて家を出る。昼間だというのに薄暗い空は今にも雨が降り出しそうだった。住み慣れた街のはずなのにいまは違っていて、あらゆる物質がおれを嘲笑っているかのようにそこにあった。揺るぎなく。おれの存在はこんなにも儚いのに。それが悔しくて、怖くて、壁を蹴った。当たり前だけど痛かった。知らない街だ、こんな街。男鹿がおれに背中を向けた瞬間、同時に世界からそっぽを向かれたのだと感じた。誰もおれを知らない。おれは、ひとり。

「ぉお?オニーサン、こんな真っ昼間から堂々とサボりですかあ」

足元に影が落ちて、顔を上げると安っぽい不良が三人立っていた。男鹿がいなけりゃこういう状況に陥ることも、わかっていた。

「いまさあ、俺たちお金ないんだよねー。ちょっとくれないかなあ?」

いつもなら、ここで男鹿が助けに来るのに。あいつはいつでもそうだ、どこにいても、おれがピンチになると助けに来てくれる。どこからともなく。けど、今は違う。おれを知らない男鹿は、おれを助けに来ない。男鹿の名前をここで出してもいいけど、知らないひとに縋っているようで、おれの男鹿を否定しているようで、やめた。

「オニーサン、耳付いてんの?黙ってちゃ、」

「うるせーな」

「……ァあ?」

どうでもよくなった。ヒルダさんはこの世界をなんとかしようとしてくれているみたいだけどもういっそこのままでも良かった。あの異常な関係を断ち切るには、いい機会だったのかもしれない。異常。そうだ。おれたちは異常だった。

「申し訳ないけど、てめーらみたいにシケた奴に渡す金なんて持ち合わせてないんですよ。ですから、お引き取り願えますか?」

「ってめえ……!」

そこからは、拳と蹴りの嵐。そう、さ、おれは、異常だった。異常な程男鹿に執着して、恋愛に憧れていると言いながら、男鹿がそんなおれを奇妙に思わないように矯正した。男鹿もおれを大事だと錯覚させるようにした。だから、これは罰なんだ。こんなおれへの、罰。おれの男鹿に対する想いは、そんな綺麗なものじゃなくて、もっと浅ましい、汚い、歪んだものだった。それを、綺麗なものだと見せかけて、男鹿に思い込ませて、擬似的な想いを作り出した。異常だから、おれは、異常だから。

「……おい、何笑ってやがる」

「、えー……?」

「自分の立場わかってんの、かっ」

不思議と痛くなかった。おれは嘘ばかりだから、痛みすら感じなくなったのかもしれない。ぽつり、と何かが頬に当たる。わずかに開く瞳に映ったのは雲に覆われた空で、

「、っ……」

うそ、嘘だよ、男鹿。おれ、おまえがほんとに好きなんだよ。おれ、異常なのかなあ、異常だとしても、おまえが好きだって気持ちは異常じゃないよ、な。男鹿に対する想いは、歪んでいるかもしれないけど、根底にある「好きだ」って想いは、まっすぐおまえに向いてるんだよ。なあ、男鹿、好きだ、好きだよ。なんで言えないんだろう。なんで言わなかったんだろう。おまえがおれを忘れても、世界がおれを忘れても、おれはおまえが好きだ。好きだよ。ごめんな。好きで、ごめん。









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