(男鹿と古市・中学時代)
「古市くん、ちょっと」
長いホームルームが終わり、ようやく解放された体を伸ばしていると、担任である若い男の教師がおれにそう声をかけた。眼鏡をかけた優しい面持ちのこの教師は生徒から人気で、おれも好きだった。なんですか、と聞き返すと手招きをされたので、ああこれは何かのお説教だなと悟る。さっきまでどっちの家でゲームをするか揉めていた隣の席の粗暴な友人に、ゴメン先帰ってて、と告げると案の定一発殴られたがおれのせいではないので理不尽だ。
担任はおれを会議室まで連れて行き、ドアを閉めた。そこまでの道のりはひたすら自分の今日までの素行を振り返っていたのだが、ついた瞬間お茶とお菓子を出されて、ついでに校長先生まで出てきて、首を捻った。これは一体どういうことだ。
「まあ、リラックスして」
いやいや、この状態でリラックスしろなんて無理だろ、と心の中で反論しながらも、顔はにこにこしながら湯のみに入ったお茶を啜る。テストはどうだった?最近寒くなったね、など、世間話を延々と振られるのでそれなりに打ち返していく。校長も担任も口調は柔らかだが、何か探るような目をしている。それが気味悪く、幼い頃おれの髪の色に向けられた視線を思い出し、気分が悪くなった。ふかふかのソファに沈み込んだ体はもう二度と浮かせない気さえした。
そうしてたっぷり無駄な時間を過ごし、「それでね、」と本題に入ったのは湯のみのお茶がすっかり無くなり、指遊びをし始めた頃だった。
「最近の男鹿くんのことなんだけど、どうかなあ?」
中年の、でっぷりと太った校長は笑顔のまま尋ねた。オガクン。男鹿。隣の席の粗暴なヤツ。
最初聞かれている意味がわからず言葉に詰まっていると、何か勘違いしたように担任がおれの背に手を置いた。
「いいんだよ、正直に答えてくれて。先生も、校長先生も、ここで古市くんが言ったことは誰にも言わないからね、もちろん男鹿くんにも」
「そうだよ。聞けば、君はいつも男鹿くんに暴力を振るわれているそうだね。学校でもいつも一緒にいるし、乱暴な言葉で命令されたり、怒鳴られたりしているそうじゃないか。辛くはないかい?」
そこでようやく、ああこれはいじめられっ子貴之のために開かれた救済の会合だったのだと気づく。おれが男鹿にいじめられていると早とちりした誰かが担任に相談したのだろう。それが女の子だったらこの上なく嬉しい。
けれどそれは誤解で、よくよく考えるとこういう風に勘違いされるパターンは珍しいことではなかった。最近無かったから油断していただけで。貧弱で真面目なおれがケンカしか頭にない男鹿と一緒にいるのがよっぽどおかしく見えるのだろう。今まで張っていた糸がふっと緩んで、おれは笑いながら否定した。
「いやあ、先生、僕いじめられてなんかないですよ!男鹿は友達です」
「でも、殴られたりしているだろう?さっきもそうだったじゃないか」
「まあそうですけど、あれはスキンシップっていうか……それにあんなの本気じゃないし。あいつバカだからすぐ手が出ちゃうんすよ」
「あんなのって……じゃあ本気で殴られたこともあるんだね?」
しまった墓穴だったか。と、いうか、これは全面的に男鹿が悪い。さっき校長が言ったことに嘘はひとつも含まれていない。すぐおれを殴ってくるし口汚く罵るし何かとパシリにされる。これでも弁明のしようがない。むしろおれ相手でなかったらそれは本当にいじめだ。
「でも、でも先生、男鹿はおれ以外に暴力振るったりしないじゃないですか。それで、唯一振るわれてるおれがなんともないって言ってるんだし、いじめでもなんでもないですよ」
「彼は学校外でもよく喧嘩をしているよ。他校さんと問題を起こしたり」
「あっ、あー、それは、あっちにも非があったりするし……無いときもあるけど……でもそれは、お互い納得した上でのケンカっていうか」
「古市くん、これはね、君の将来のためでもあるんだよ」
しどろもどろになると、急に声のトーンを落とされる。びくりと体が震えた。まっすぐに見てくる視線が二つ。背中に置かれた手はいつのまにかおれの手を握り、膝に置かれていた。しゃがみ込んで視線を合わせる担任から目を背けるように、正面で神妙な面持ちをしている校長から逃げるように、うつむく。
「君は成績も優秀だし、真面目でとってもいい子だ。けれど、男鹿くんは不真面目で、古市くんの勉強の邪魔をするかもしれない。それにね、君がいじめじゃないと思っていても、男鹿くんからすればそうではないかもしれないよ」
あり得ない。男鹿がおれをいじめるなんてあり得ない。おれだけじゃない、関係ない誰かを酷い目に合わせるなんで男鹿に限ってはあり得ないのだ。摩られる手を振りほどきたいのに、大声で否定したいのに、体が固まって動かない。二つの視線は、あまりにも重かった。
「……まあ、いじめはターゲットが変わると言うし、いつまでも古市くんだけをいじめ続けることはないだろうし、安心して」
そこで顔を上げると、よっぽど酷い顔だったのか、担任が眉をひそめた。
「……古市くん、大丈夫だよ。先生も、校長先生も、みんな君の味方だから」
「ち、ちがう、違います、先生」
振り絞った声は情けなくかすれていた。そういうことではないんです、先生。
「そもそも、ほんとうに、おれは男鹿にいじめられてなんか……いません。男鹿は大事な友達だし……そんなんじゃ……ないです。男鹿はいじめなんかしません。それに、あんな風に殴ったりされるのは、おれだけなんです。ずっとずっとおれだけなんです」
「古市くん」
「おれ、帰ります」
最後の言葉を別の意味に取られたような気がしたが、これ以上ここにいても伝わらないだろうし泥沼化するだけだろうから、体に力を入れて立ち上がった。ソファが反動で押し戻ってくる感覚が気持ち悪くて、早々に部屋を出る。後ろから、いつでも話を聞くよ、という見当違いな声が飛んできて、音を立ててドアを閉めた。
ぐちゃぐちゃの気持ちのまま教室に帰ると、さっきまでの話の中心だったバカがなぜかそこにいた。オレンジに染まった教室で、おれの席でおれの持ってきた漫画を我が物顔で読んでいる。入口で立ちすくむおれに気づくと、おう遅かったな、とはにかんだ。
「結局どっちの家で遊ぶか決めてねーし待ってたんだけどよ、おっせーし。これなら帰った方が良かったかもなー」
うるせーよバカいままでおまえの話でおれどんな気持ちになったと思ってんだよ能天気な顔しやがってそもそもおまえがもっと優しくて善人顔で穏やかならこんなことにはならなかったしつーかおれ明らかにとばっちりだし慣れてるけどこんな風に詰め寄られたの初めてでおれほんとガキだしおとなになんかかてないしことばしらないしなんかなんかなんか、
「……古市?」
「っ……おがぁ……」
ガタンと大きな音がして肩を揺すぶられる。大方椅子を蹴り飛ばして飛んできたのだろう。もう涙が止まらなくて、何も見えない。
「なんでおまえ泣いてんだ?誰に泣かされた?担任か?三年か?」
ちがう、と言いたいのに声にならず首を横に何度も振る。ぎゅうと掴まれた肩が痛い。それでもさっきよりずっとましだ。
「何言われた?言えよ。おれがぶん殴ってくる」
「っ、ちが、ちがうよ、おが、っ、そうじゃないけどっ」
「じゃあ、なんで泣いてんだよ!」
「ひっ、う、うえぇ、」
「おれ様以外に簡単に泣かされてんじゃねーよ!おまえを泣かしていいのはおれだけだ!」
「っ……」
その言葉に無性に安心して、また泣いた。これに安心するのもおれぐらいだろうが、それでも良かった。おれは男鹿の友達なのだ。
「おがはっ、おれ以外のやつ殴ったら、絶交すっからぁ」
「はぁ?」
「おれ以外のやつ殴ったりしたら絶交だから!」
「何キレてんだよ、いっつも殴ったら怒るくせに!」
「とにかくぜっこーだからあ!」
うなずく男鹿は意味なんてわかっていないだろう。おれは男鹿に殴られる唯一の存在だった。弱いものいじめは絶対にしない男鹿に遊び半分で殴られること、それがどれくらい嬉しいか、男鹿はきっと知らない。
「あー、でも、ケンカするときは殴るぞ」
「それはー……えーと、不良ってことで」
「フリョー?ツッパリ?」
「別にツッパリじゃなくても不良になれるっつーの!男鹿は不良だから、ケンカのときは殴ってもいいことにしてやる」
「なんで上からなんだよアホ市」
「いてっ!」
「いーからはやく帰ろうぜ。ゲームやりてー」
「今日おれんちでいーよ。てか泊まっていけよ」
「機嫌いいなおまえ」
鞄を担いで二人で歩く。また、あんな風に心配されたりするのだろう。でも今度はちゃんと言い返してやる。男鹿はおれの大事な大事な友達で、男鹿から離れるかどうかはおれが決めます、と。男鹿がいてくれるなら、おれはもっともっと頑張れる。
「男鹿、おれおまえに将来めちゃくちゃにされるらしーよ」
「んだそれ」
それでもいいや、と思ってしまっているあたり、おれも相当バカのようだ。
青春行進曲
-----
数年後、ほんとにめちゃくちゃにされることを古市はまだ知らない。