ローがいなくなってからというもの、それまでの日々がまるで良い夢だったのではないかという程におれの毎日は無味乾燥としていた。 大きなものがぽっかりと抜け落ちてしまったかのような胸の穴、それを埋めることさえできず、気づけばおれはローと共に過ごしたのと同じだけの時間を一人淡々と過ごしてしまっていた。しかし、それが等しい長さだったなんて信じられない。ローと過ごした一ヶ月間は、もっと短かった。毎日が飛ぶように過ぎていったのに。 ローが目の前に現れるその前まで、おれは何年も一人暮らしをしてきた筈。それなのに今、おれはひどく心寂しい。一人がさみしいのだ。 ローを奪い去ったのは白い光だった。ローが現れたときと同じ、真っ白な光。 ローはきっと無事、元いた世界に戻れたのだろう。 自分と同じ海賊たちと鎬を削り合い、常識を逸した海に挑み、行く手を塞がんとする政府に立ち向かう。 そんな刺激的な世界の中、ローは果たしていつまでおれという取るに足らない異世界の人間を心に留めておくのだろうか。 「………」 帰り道立ち寄ったスーパーの袋をぶら下げ、おれは、一人音もなく奥歯を噛み締める。 ローには、いつまでもおれのことを覚えていて欲しかった。 だけど、おれは早く忘れてしまいたかった。 交わる筈のなかった世界が捻れ、偶然が生んだただ一つの邂逅。 淡く薄れた記憶がいつしか一抹の苦味をも感化し、甘やかな追憶となれば良い。 その日の晩におれは、チキンライスを作った。玉子で包むのを怠慢した、ただ赤いだけのご飯。 食卓にて向かい合った皿の中、ふとした思い付きでおれは緑色の欠片を黙々と集めだしてみた。 やがて、そこには微塵切りの山ができる。いつかローが選り分けて作っていたのと同じ、ピーマンの山。それに、おれはそっとスプーンを突き入れる。 銀の凹版山盛りに掬った緑を口に含めば、それは甘く――…だけどまだまだほろ苦かった。 それから、大して間もないときだった。 代わり映えのしない毎日を送り続けていたおれは、突如現れたその光に反応が遅れた。 「……は?」 こちらの瞳を貫く白は、おれの立つその場所から数メートル離れたところでコンパクトな円形を保ち、まるで鏡のようにしてそこに薄っぺらく佇んでいる。 その奥から何か影が現れることは―――ない。 おれは、己の心臓がふるえるのを感じた。 今度は、おれが向こうに現れる番ということなのだろう。 喜びに染まったおれの心に反し、しかし突如ちりりと脳の奥を掠めた僅かな刺激。 それにおれは何かが分かりかけた気がして――…しかし、目の前の光が徐々に収縮を開始していることに気がついたが為に、おれは慌てて思考を中断させた。 引っ掛かる何かがある。けれど、そこから躊躇いが生まれることはなかった。 音もなく光に埋め込んだ先で、おれの指先は柔らかな風を感じた。 この光の向こうにローがいるならば、と。 全てを焼き尽くすかのような白色に、おれは嬉々として飛び込む。 この世界に未練など、なかった。 開けた視界に飛び込んできた青は、おれには素晴らしく輝かしいものに見えた。 足裏が踏んだ板の感触にほっと息をつき、おれはぐるりと大きく体を捻る。目の前には空と海の二つの青。眩むような陽射しに意識せずしかめた瞼で視界を狭め、おれは穏やかな潮騒と己の立つそのずっと下から微かに揺らぐ足場に、ここが船の上だということを認識した。 ローが話していた通りに香ばしい潮の薫り。おれはそれを肺腑の奥深くまで染み渡らせようと鼻腔を膨らませ、うんと吸い込む。一ヶ月間、死んだような毎日を送っていた身体が、それだけで生気を取り戻す。隅々にまで行き渡った酸素が早速活用されたのか、おれの胸は狂おしいばかりに高鳴った。 さて、と気を取り直したところでおれは再び視線を巡らせ、今度は体ごと後ろを振り返る。 そこにあったものは黄色の船体。――変わった形のジョリー・ロジャー。 脳内に残るローの話を元に何度も夢想したものが、確かにそこにはあった。 「―――あれ?」 そのとき、突如響いてきた低い声。 知らずに跳ね上がった肩におれは自分で驚き反射的に音源の方へと首を回せば、そこには二本足で直立する白熊がいた。 目が合うのと同時に臨戦体勢を取ったその生き物に、しかしおれが構えることはない。 「――…ベポ」 「えっ」 オレンジ色のツナギに包まれた真っ白な巨体。そしてぴるると動く小さな耳の様子を含め、その愛らしさは最早嫌になるくらいにはローから何度も聞かされていた。 熊が流暢に言葉を操るその姿には実際圧倒されたが、心構えさえしておけば何てことはない。 「何でお前……おれのこと知ってるの?」 その姿はローの言葉通り、確かに可愛らしいものだった。 「凄いな、お前。喋れるのか」 「え……え? お前、怪しい奴…だよね」 戸惑うようにしてそのつぶらな瞳を揺らすその姿が愛らしい。おれは唇に微かな微笑を浮かべ、言葉を紡いだ。 「お前の船長を呼んできてくれないか? 会いたいんだ……凄く」 落ち着いた態度を崩さないこちらのペースに呑まれてしまったのか、その熊はじっと押し黙ってしまった。 どうしたものかとおれが思案に視線を巡らせるよりも早く、相対するくりくりとした眼がぱっとその黒に救われたような色を宿した。 「あっ…――シャチ!」 外見に似合わぬ野太い声がそう叫んだのと同時に、吹いた一陣の風。その風圧におれの髪は、瞬間的に浮き上がる。 「―――誰、お前」 声のした方向に振り返りかけたおれの動きはしかし、首筋に感じた冷たい鉄の感触によって中断を余儀なくされる。完全にそちらを向けないおれはそれでも何とか瞳だけを動かし、こちらに警告の刃を向けてくるその男がやけにはっきりとした色づかいのキャスケット帽子を被り、存外低身長だということを認識する。 「…お前たちに危害を加える気はない。できれば、その武器を仕舞って欲しいんだが」 「嫌だね。――お前、どこからこの船に乗り込んで来やがった?」 突如音もなく現れた男のその取り付く島もない様子に、おれは思わず嘆息してしまった。面倒なことになったなとは思ったものの、怯臆は不思議な程感じなかったのだ。 するとこちらへの当て付けなのか何なのか、帽子の男もまた態とらしい程に大きく声を出し、ため息をついてきた。 「あんたの目的は?」 「ローに会わせてくれ」 「首が目当てってか」 「言っている意味が分からない」 平行線を辿り一向に交わらない会話におれもそしておれに向かい合う男も、数度のやり取りだけで辟易した。話にならないと見切りを付けたらしい男の目縁が、俄にその鋭さを増す。 「てめェみてェな得体の知れねェ奴に、船長を会わせる訳にはいかねェな…」 男の平板な声にその意思の強さを感じたおれは、一先ず唇を閉ざした。 確かにこちらは360度海という密室的な船上に突如現れた怪しいの人物。警戒する気持ちは分かる。 ローがここで姿を現せば早いのだが、と伏せた瞼の内で思案を巡らせていれば、ふっとおれの口を衝いて出たのはたった一つの何気ない疑問。 「…――お前たちの船長は近々一ヶ月程度、行方を眩ましていたりしたか?」 「はあ?」 急なおれの言葉に一瞬その瞳を丸めた男だったが、こちらの言葉を聞き終わるや否や、その眉間いっぱいに深く皺を刻んで見せた。 ぐいと唐突に近づけられた男の顔に掛かるサングラスに、真面目腐った面持ちの自分が見える。 「お前、何言っちゃってんの?」 心底こちらを馬鹿にするような響きのその声に、おれの脳内を何か稲妻のようなものが駆け抜けた気がした。 「――キャプテン!」 そのとき、突如おれと男との間を突き抜けたのは、嬉々とした熊の一声。 それに――その言葉の意味に気がついたおれの体は、小さく跳ね上がった。 「なんかねキャプテン! キャプテンのことを知ってるみたいな奴が、急に――…」 咄嗟におれの顔が振り返っていたのは音源、白熊の方。しかしおれの全神経は既に背後から徐々に迫りくる乾いた靴音に集中していて。 興奮のあまり、背筋が粟立つ。 まるで何十年か振りの再会のような気持ちが、おれの胸をいたく震わせた。 おれの背後で遂に、やけに響いて聞こえるその靴音が止まった。 一つ大きく喉仏を動かして口内に残っていたなけなしの水分を嚥下し、おれは、勢いよく後ろを振り返る。 「―――あ…」 視界に飛び込んできたその立ち姿だけで、おれの唇は意味のないただ一音を溢れさす。歓喜と照れ臭さと感動が入り交じり思わず頬が紅潮しそうになったのも束の間、おれは、そこにあるローの瞳が妙なのを見つける。 「、ロー…?」 予感がした。 しかしそれは直ぐに、ただの予感という枠を越える。 おれの声に酷く怪訝そうな顔を向けてきたその男は黒のコートではなく見慣れない黄色のパーカーを身に纏っていたものの、確かにローで間違いなかった。 だがしかしその瞳は剣呑さを保ち、酷く無機質な色でこちらを射抜いてくる。 そう、それはまるで知らないものを見るような目付き。得体の知れぬ人物を値踏みかのような、そんな冷淡な眼差しで。 ローの短い藍の髪が、斑模様のみ変わらぬ帽子の隙間、全方位に伸びるそのもこもことした鍔からそよぎ、薄く形の良い唇が不意に動いた。 「てめェ、誰だ」 さやけく響く声色とこちらを容赦なく貫いたその視線からおれは、ここが始まりなのだと―――悟った。 -------------------------------
120710 ![]() Thanks for mutual link!Dear Noi-san,from ソウ. ![]() |