「ペンギン…てめェ、何故なめこの味噌汁なんてもんを置いていきやがった」

「ちゃんと残さず食べたんだろうな?」

「………」

 ふいと逸らされた瞳の色は、口よりも先にその答えを告げてくる。僅かに尖らされたその唇を、その癖の意味を、おれはもう既に重々理解していた。


 大学帰り、玄関でのやり取り。その論題はグリンピースやニンジン、更には生姜などと毎回少しずつ異なるものの、今やすっかり恒例のこととなっていた。
 そのオーラとふんぞり返って傲慢に物を言うような態度から、それだけ己を驕るに相応しく完全無欠で取っ付きにくい男かと思いきや、共に暮らしていく内にローのちょっとした欠点は次々と明らかになっていった。例えば妙に子ども舌だったり、常識を知らなかったり。その度におれは呆れながらも思わず口許を緩めてしまうのを禁じえなかった。
 すっかり慣れてしまった今となれば、偉そうに足を組むローに向かって説教を畳み掛けることも容易い。だがしかし、今は止めておく。


 おれは小さくため息をついた。

「全く…。それならそうだな、幾らか金を置いていって、コンビニでお前が何か好きなものを買って来れるようにした方が良いか?」

 店が店なのでこれならば贅沢なものを買うにしても高が知れているだろうとおれが妥協案を述べてみれば、しかしローはその眉を盛大にしかめ吐き捨てるようにして言う。

「この世界でお前の手作り以外のもんを、おれが食うとでも思ってんのか」


 ――…全く、憎たらしいことを言うかと思えば不意打ちでこんなことを言ってくるときもあるのだから、おれはローをつい甘やかしてしまう他ない。

「良いからさっさと晩飯を作れ」

 顎の先だけでぞんざいに催促されようともおれは、形だけの苦笑いを浮かべ快く頷いてしまう。
 胸臆を行うローをあしらい切ることに関して、おれはてんで駄目だった。

「ハンバーグが食いてェな」

「お前はまた手間のかかるものを…。今日はオムライスだ」

「仕方ねェ。許す」

 偉そうに口端を持ち上げたローはしかしオムライスも好物なのだから、大したいとけない天の邪鬼だ。



 平皿に盛ったケチャップライスの上に、おれは慎重な手つきで玉子を乗せる。

「もう出来るな」

 予告なしに突如響いてくる低い声にももう慣れた。
 背後から人の肩にその顎髭辺りを引っ掛けこちらの手元を覗き込んでくるローのその悪戯な唇の弧を、おれは横目で見た。

「重い。大人しく待ってろ」

「煩ェ。おれに命令するな」

 いつも通りの返答におれは苦笑し、少し離れたまな板の上にある包丁を取らんと身を捻った。そのとき、ローの手のひらによっておれは急に頬を掴まえられたのだから驚いた。

 あまりに真っ直ぐこちらを射抜いてきた紺の双眸に、おれは思わず息を呑む。目の前の男の不思議な魔力にやられてしまったのか、おれの身体はそのときほんの少しでさえも動いてはくれなかった。
 鼻先十数センチからゼロ距離までは、一瞬。
 予告なく重ねられた唇に、しかしおれは抵抗を忘れていた。


 触れるだけの唇は、ほんのいくらかで直ぐに離れる。
 熱を持ったおれの頬を男の指先が懇ろに撫でたところで、再び緩慢な動作でキスが落とされた。今度は唇にではなく音を立てて左頬の上側、丁度目尻の辺り。多分、おれの泣き黒子にキスをしたのだろう。
 可愛らしい効果音のそれはしかし、耐性のないおれにはぼっと己の顔がまるで発火してしまうのではないかと錯覚するのに十分で。

 また直ぐに遠退いていったローの唇は物言わず、真一文字をそこに刻む。こちらを真摯に見つめるローはひどく欲に濡れた目をしていた。
 おれの腰の辺りを抱き留めていたその手はやがてもっと別の場所に伸びるかと思いきやおれの予想に反し、その温もりは呆気なくおれを解放してしまった。

 どこか疼くような感覚が、おれの心臓を締め付ける。

 強い光を放つその瞳からはどうしても目が離せなくて、おれたちは暫くの間身動ぎもせず、ただただ無言で視線を絡め合っていた。

 それからやっとのことで唇を開いたのは、沈黙に堪えられなくなったこちらの方。

「おれたちは…――恋人同士だったのか?」

 声が掠れた。
 おれの言葉を予期してはいなかったのか、不意に丸まった目が一つ瞬いた後、ローの唇はうっすらとした笑みをそこに湛える。

「…そうだな、言葉にしたことはなかったが」

 こちらを見つめるその瞳が俄に、憂えを含む。

「おれの知っているお前は、おれに全てを捧げると誓っていた」

「………」


 ローが現れたあの日、どうして"ローの知るおれ"はこんな得体の知れない男の為にこの世界を捨てたのかと、おれは心底不思議に思っていた。
 しかし、もう分かる。
 "今のおれ"ならばこんな退屈な世界、いくらでも捨てることができた。

 ローの口から聞かされるあちらの世界に、そして何よりも――ローに、おれの心はいつの間にか、どんどん引き付けてしまったのだ。





 奇妙な毎日はいつしか日常となり、ローが隣にいることそれが当然となっていた。
 おれは強情な紺色の後頭部に向かって好き嫌いに対する小言を浴びせかけるし、ローはそれに聞く耳を持たない。おれが連日大学へと通い続ければ、ローは徐々に不貞腐れ始める。夜更かしをするローに、おれは時折付き合ってやっては酒を飲み交わしたりもした。
 ローは気紛れに唇を重ねてくるし、おれは黙ってそれを受け入れた。だけどローは決してそれ以上のことしてはこなかったし、おれがそれを求めることもなかった。


 ただローがそこにいる。おれはそれだけで良かったのだ。





「ペンギン、風呂。空いたぞ」

「ああ」

 先日のリクエストに従ったハンバーグで夕食を済ませた後、脱衣室から出てきた藍色の髪は未だ残る水気に軽く伏せていた。
 さも当然といった様子でこちらとの距離を詰めそのついでと言わんばかりに唇を近づけてきたローに、おれは呆れて呟いた。

「お前な…髪はちゃんと乾かしてから出てこい」

「どうせお前がやるんだ。良いだろう」

 こちらの声にぴたりとその動きを止めたローは、至極当然といった声色で我を言う。
 しとどに艶めく毛先から一粒、水滴が垂れた。

 その言葉におれは伸ばしかけていた手のひらの動きを急遽止めるが、再びこちらの唇を目指し始めたローに慌て、元来の予定通りその首に掛かるバスタオルを素早く引き寄せてやった。それでわしゃわしゃと短い藍を押し撫でてやれば途端ローはその両瞼を大人しく閉ざしたので、おれは一先ず安心する。
 直径一メートル未満の二人の空間に、穏やかな空気が満ちた。


「そうだペンギン、風呂がぬるかった。追い焚きくらいしておけ」

「…………」

 己の手で一つのボタンを押すそれさえ厭うローの台詞に遂に呆れて果てたおれは、俄にその端正な顔面へとタオルを押し付け、素早く踵を返す。

「っ、おい」

 眇めた先のローは怒ったように眉をしかめていたが、こちらの知ったことではない。おれは沈黙を保ったままそちらを振り返ろうとも思わず、すげなく風呂場を目指す。

 そのときのことだった。


「 あ…?」


 耳慣れない響きのローの声が鼓膜に触れるのと、突如背後から放たれた強力な光によりおれの形をした濃い影が進む先を鋭く突き刺したのは、殆ど同時のことだった。

 驚き無意識の内におれが勢い良く振り返った先で、ローは眩しい光にその全身を包まれていた。網膜を焼き尽くすかのようなその爆発的な光の中、ローの瞳がひたとこちらを見据えているのが、どうしてだかおれにははっきり見えた。
 薄く開かれたその唇は呆然といった様子を体現し、真っ直ぐににこちらを見つめる藍の色はしかし動揺か何かに一瞬揺らいだように見えて。

 いや、違う。揺らいだのは――。


「あ……」

 ――ローの姿は間もなく、跡形もなく消え去ってしまった。光って透けて空気に融解し、眩くやけに単純な光に誘拐されてしまった。

 いつの間にやら踏み上げられていた足でおれがそちらに駆け出したときにはもう、遅かった。伸ばした指先は再びローの体に触れることさえ叶わず、おれの体はじきに掻き消えた光の残骸の中に一人駆け込みそして立ち尽くす。



 …気づけばおれの体は台所にあって、おれの腕は淡々とローの昼の分も含めた食器を丁寧に泡立てているところだった。
 そこまでの課程は分からない。しかし、そんなことはどうだって良かった。
 漸くと意識を取り戻したおれの脳味噌はどこか死んでいて、しかし思い返してみればローとの付き合いがたったの一ヶ月程度のものだったと不意に気がつく。
 その長さに何か思いを抱くよりも早く、やけに熱い涙がおれの頬を滑り落ちた。

「――…」

 必死に歯を食い縛る必要もなかった。ぽろぽろとその雫の落ちるがまま、おれは、静かに涙を流す。

 ローはもういなかった。あの息遣いが、声が、気配が。どんなに全ての感覚を研ぎ澄ませてみようとも、少しも見つけられない。

 そこにいるのはおれ一人きりだった。


 閉じた瞼の裏側をスクリーンに、暖かくて優しい映像がおれの頭を巡る。
 皮肉につり上げられた口角。不機嫌そうな寝起きの横顔。照れたときに然り気無く耳の横を掻く癖。唇が重なるその刹那僅かに伏せられる睫毛の長さ。交えた吐息のその温もり。
 あんなこと、こんなこと。一度思い返してしまえば切りがなかった。しかし、それらは軈て冷然とした白色によって全て飲み込まれてしまう。後に残ったものは最早、途方もない喪失感のみ。

 そこまで考えたおれの脳は漸くと、おれの心臓を軋ませた。今までどこか遠い出来事のようだった痛みが、妙にそのリアリティを増して迫ってくる。呼吸は咽喉手前で詰まり、熱を湧き出でさせる瞼は震え、奥にならぶ歯牙はおそろしい悲鳴を上げた。

「………っ…」

 シンクの中に涙が落つ。汽水に浮かんだ洗剤の泡は流れに浚われ、軈てはくるくると呆気なく排水溝に消えていってしまった。
 
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