店という店を梯子しても駄目だった。あの金髪頭は、ない。

 乳酸が溜まりに溜まってきたらしい脹ら脛の辺りは嫌にその重さを増し、使い古された言い方をするならばまさしく棒のようだった。
 おれの求める姿が既にゴミ収集ならぬ死体収集の乗り物に引き摺り込まれた後だったら、そして既に灰燼に帰した後だったら――…と。少しでも想像してしまえば脳内は絶望の色に塗り潰され、全ての機能を停止させてしまいそうになる。言うならば足も竦む心地。それくらいに恐ろしかった。
 求める姿の見付からない恐怖はこの身を侵食し、心を挫けさせようとしてくる。だからおれは態とに無心を装って、走る、走る、走る。
 凍えそうな程の不安と焦燥とが、おれを只管に突き動かしていた。





 一度船に戻り応援を呼んだ方がずっと合目的的だとおれが気づいたのは、それから暫くの後。
 焦りに脳内を支配されていたとはいえ、冷静に物事も考えられない自分に嫌気が差した。

 急いで港へと舞い戻ったおれは暢気に挨拶の言葉を投げかけてくる船員たちの間をすり抜け、一直線に船長の部屋を目指す。
 他のことは頭になかった。見えても来なかった。
 しかし船長室へと向かう途中、半開きの状態であった一つの扉に、おれの足は俄に動きを止める。

 そこは数時間程前におれが開け放ってきた場所。――バンダナの部屋だった。

 丁度そのとき、その奥から小さく響いてきた物音。おれはまるで夢遊病者のそれの如く緩慢な動きで、両の足を動かす。



「――あれ? シャチ、どうしたの。そんな汗だくで」


 そこに、捜していた人はいた。バンダナは立っていた。

 呆然とするおれの視線の先で、金の頭は暢気に首を傾げている。

「毒霧…は?」

「え? ――ああ。解毒剤なら、娼婦の女の子がくれたよ」

 小さく掠れた声を紡いだおれに向かって、バンダナは悪びれもせずに緩く笑う。

「それよりも聞いてよ。その店、シャワーがなくってさ…」

 今から浴びるんだ、とタオルを持ち上げて示しつつ、困ったとでも言うようにしてその柳眉をなだらかに下げたバンダナの体からは、ご丁寧にも女の甘やかな香りが。
 それを認識した瞬間、おれは、おれの中で何かが切れる音を聞いた。

「――ってめェ、おれがどんだけ走り回ったと…!」

「え、何なに? 心配してくれてたの?」

「ッ、違ェよ! 船長命令だ…!!」

 軽く茶々を入られれたところで咄嗟に口を衝いて出たのは、とんだ大嘘。

「またまた、照れちゃってー」

 根性悪くにやついて見せたその顔に、おれは本気で殺意を覚えた。

 どす黒い感情ぐるぐると己の中で渦巻くのが分かる。醜い色で満たされたそれは、やり場ないまま堪えきれるものではない。

「――…油断ならねェ奴からの薬なんか口に入れたのかよ、馬鹿」

「へ?」

「んな汚ェ仕事やってる女なんか、よく信用できたもんだよなァ」

 おれは、嘲る声色で口端をつり上げる。汚い言葉を吐けば吐くほど、自分が汚れていくことなどは重々理解していた。だけど、止められない。
 跳ねた髪の翳でおれの睫毛は、圧さえ切れぬ感情にふるえていた。

「…ちょっとシャチ、それはないんじゃないの?」

 おれの言葉を咀嚼したバンダナのたれ目が珍しく、その目縁を尖らせる。

「自分の意思じゃなくて嫌々やってる子だっているだろうし、逆に誇りを持ってやってる子たちもいる。そこは、おれたちと同じでしょ?」

 それに、シャチだってそういう子たちを相手にしない訳にいかないじゃん――と。
 妙に響いたその言葉は、鋭利におれの肺腑を抉った。

「んだよッ…!」

 何も知らない癖に。だけどそれは、何も知らないからこそ。
 分かっていてももう、どうしようもなかった。

「それが本当に解毒剤だった保証がどこにある? 今にてめェがくたばるかも分からねェじゃねえかっ…」

「ちょ…何、シャチ。さっきから言ってること無茶苦――」

「煩ェ煩ェ煩ェ!! …――ああ、そうか。てめェはフェミニストだもんな。女だったらあんな臭ェ匂い振り掛けて媚びへつらうだけの奴まで、庇わなくっちゃなんねェのか。大変だなァ? ――何ならおれがこの手で今すぐ面倒の数、減らしてきてやろうか…?!」


 …――別に、おれは好きで娼婦を抱いている訳じゃあない。
 だけど、バンダナは違うのだろう。

 その証拠に、なんであればバンダナは男とだって寝る。例えば、船長と。
 だけど、おれはそのカテゴリーの中には入れない。
 分かっている。分かっているからこそおれのこの胸の内で重く燻るものは、鬱陶しくて気持ち悪い。
 抱え続けてもう数年。連綿としたこの苦しみには、いい加減うんざりしてしまう。


 だけど棄てられなかった。



 支離滅裂な言葉を叫んで激情を露にしたおれを見、かっと珍しく感情を露呈し鋭く煌めいた瞳がかなりの険相でこちらを睨み付けた、かと思えば、その力強い手のひらはおれの腕を袖口布ごと掴む。
 こちらの動きを制限するようなその手をおれは直ぐさま振り払い、そのままの勢いでバンダナに殴り掛かった。しかし、振り抜いた拳は紙一重で躱される。
 まさか、そこで諦める訳にもいかない。おれは反射的に、逃げたその体を追随した。繰り出したものは追い打ちの蹴り。しかし、バンダナは交差させた両腕を以てしてそれを受け止める。今度はその無防備な脳天に拳を振り下ろそうとしたところで、おれは手首を掴み取られた。
 その拘束から逃れようと藻掻けば、バンダナはそれ以上の力で押さえつけてくる。攻防はやがてもみ合いになり、しかし力では敵わずおれの体は大きな音を立てて壁に押し付けられた。

 ――と、そのとき。

 軋んだ背後は俄に沈み、あっと思ったときにはもうおれの体は傾ぐ。

「!」

 目前の顔がはっと固まるのと、靴裏が踏んだ固いタイルの感触とに、おれはそこがシャワー室へと通じる扉だったことを知った。
 "その"痕跡を掻き消す為の場所に入ったということで、バンダナと誰とも知れぬ女との情事を想像してしまい、おれの心臓がまた一つ悲鳴を上げた気がした。
 後方に傾いていく体は最早どうしようもなく、衝撃に備えおれが身を固くしたところで――ふと、バンダナがおれの腕を引きその身を捻った。


「ッ、――…大丈夫?」


 シャワールームの床に、勢いよく倒れ込む。しかし、おれの体が強かに打ち付けられることはなく、入れ換わったバンダナの体が丁度下敷きになっていた。
 少しの動揺におれが数度目を瞬かせれば、碌に受け身もとれなかったであろうバンダナは痛そうにその眉を歪め、しかし、それでも微笑む。
 浴室の白いタイルの上に金が散らばり、そのそそけ髪は透き通るようにして光っていた。

 …こちらに向かってバンダナが真っ直ぐと――まるで大切なものを見るような眼差しで――見つめてくるものだからおれはムカついて、衝動的に腕を伸ばしてシャワーのコックを捻る。
 おれの体をその腰骨の上に乗せたバンダナは当然、逃げられない。
 勢いよく吹き出してきたシャワーはバンダナの顔とおれの半身とに、容赦なく降りかかった。

「うわっ」

 一気に立ち込めていく熱気と仄かな白色とは、おれの視界を揺らがせる。
 ふっと伏せた視線はいつの間にやらポケットの中から溢れ落ちていたらしい一粒のタブレットが、今しがたできたばかりの小さな水溜まりの中に浮かんでいるのを見た。生温いお湯に晒され、それは角からとろとろと悲しげに融解していく。
 その情景は相貌的知覚によるものだと理解しているから、おれはまた悔しくなった。

 そのとき、ぼんやりとその光景に目を奪われていたおれの意識を引き戻したのは、苦しげな咳き込みの音。
 構える間もなく顔面にお湯を注ぎ掛けられたバンダナはその鼻腔にまで異物の侵入を許したらしく、喉の奥までもを引きつらせ盛大に噎せている。

 ざまあみろ。おれがそう笑っていたのはしかし、ほんの少しの間だけだった。唇の端はふとその力を失い、自然、表情が抜け落ちる。
 ぐしゃぐしゃに目見の辺りを歪め、辛そうな咳を繰り返すバンダナを見下ろしていればあまりに可哀想で、少しは申し訳なくなる。流石にやり過ぎたか、と冷静に考えている自分は、しかしなんだか遠かった。

 バンダナはまだその喉仏の辺りをひくつかせ、咳を止めない。
 だけどその身が纏う甘ったるい匂いが徐々に消えてゆく、ただそれだけのことがおれには堪らなく喜ばしいことだったのだ。

 おれの鼻を嫌に刺激する香りが全て流れ失せた頃、おれは漸くと手首を回し、シャワーを止めた。
 強く強く捻ってコックを締めたというのに、何故だろうか。おれの顔の真下にあるバンダナの頬には、未だぽたぽたと水滴が滴り続けている。おかしいなと思って更に手のひらの力を強めてコックを捻ってみても、バンダナの真上から落ちてくる雫は止まらない。

 そのとき、やっとのことで浴室に響く苦しげな咳の音が止んだ。
 妙な様子に気がついたらしいバンダナはゆるゆると瞼を持ち上げ、その目を開いた。そして、驚いた顔。


 その顔を見て、おれは、漸く気づいた。


 おれがバンダナと出会ったのはもう何年も前。まさか、こんなときになってやっと気がつくなんて。
 そして何より、一体、いつからこんなにも。

 いや、違う。おれはもう、初めから―――


 復たとないほどに無垢な色をしてただただ只管にこちらを見つめてくるバンダナの瞳に、おれの唇は勝手に動いていた。



「―――すきだ」



 呆然とした顔でこちらを見上げてくるのはバンダナ。そこに降り注ぐは涙。その美しい金を瞳の中に映し込んでみれば、自然、唇の端は緩んだ。


「好きだ、バンダナ」


 言って、すっと蟠りが融けていく感覚。
 ああ、おれがずっとこいつに言ってやりたかったことはこれだったのか。何年も抱え続けてきて、結局この一言か。なんて呆気ない、と。
 そうは思いつつも今、おれは、凄く清々しい思いで。
 己の頬を伝う一縷の熱でさえ、ひどくいとおしいものに思えた。

 苛々は焦燥の裏返し。焦燥は――愛情の裏返し。
 それに、今頃気がつくなんて。

 それが少し情けなくて、おれは唇を笑わせたまま少し眉を下げた。

 すると、不意に伸びてきたバンダナの左手。頬をなぞったその指先は、いたく優しい。


「――…空の雫」

「、は?」

 穏やかに軌跡を辿る手つきはそれ故にこわくて、おれは、小さく息を呑む。

「雨みたいだね。ぬるっこい水が、ぽたぽた降ってくるの」

「な、に……」

 言っている意味が分からず目をしばたたかせたおれに、バンダナはひどく感心した表情を向けてきた。


「綺麗だねって言ってんの」


 そして、さっきまでおれのことを酷く睨み付けていた瞳があんまり優しく笑うから、おれの胸は強く締め付けられるようにして苦しくなって。
 だけど嬉しいと跳び跳ねる気持ちもそこには確かにあるのだから、もう、どうしようもない。


「……お前って」

「うん?」

 細くて、だけどがっしりとしたバンダナの腰の辺りに馬乗りになっていたおれは、左手でいつの間にやら掴んでいたバンダナのツナギの襟ぐり辺りを、指先に力を入れてそっと握り直す。

「本っ当にムカつく」

 呆れつつも苦笑いを溢したおれの顔を見上げ、バンダナは少し唇を尖らせた。何となく、おれの言う意味が分かったのだろう。勝手に唇を開き、言葉を連ね始める。

「うーんいや、急に好きとか言われても実感湧かないし。と言うかシャチ、今日はただ単に情緒不安定なだけな…ん、じゃ 」


 ―――ごちゃごちゃと言葉を並べ立てる唇にやっぱりムカついたから、おれは、おれの唇を使ってそこを塞いでやる。
 一息の後、上体を再度引き起こしてみれば、そこには何とも珍しい光景。

 予想だにしなかったのであろうおれからの唐突なキスに、バンダナは動揺を隠しきれていなかった。唖然としたその表情の中に若干の羞恥の色を見つけたおれは、ふっと自然な思いで唇の端を持ち上げる。


「へんな顔」


 きっと、こいつは変わらない。魅力的だと感じた女には易々とその身を重ねるだろうし、気に入りさえすれば男とだって寝る。
 おれはその度に己の中で渦巻く黒と闘い、時には負けて暴走し、それでも時々その瞳の中におれの姿だけが映るときもあるから、おれはやっぱり諦めきれなくて。
 そして気分が良いときには二人で笑い合って、おれは幸せな思いでバンダナと酒を酌み交わすのだろう。



―――ああ、それで良いんだ。


 濡れ鼠になったバンダナの頬に貼り付いて滑りの悪くなった金に、おれはそれでも無理矢理指を通し、未だ放心状態から抜け出せていないらしいバンダナの頭を、その様子を目睹しつつも引き寄せる。
 その瞳の中に見え始めた己の顔はやがてその碧眼だけになり、直にゼロとなるであろう三センチの隙間で融和した吐息に、おれは悪戯な思いでそっと笑んでみた。

Thank you for 10000hit! Dear Motio-san.

120617
- ナノ -