薄暗い部屋、その隅っこ。おれは三角形に膝を立てて座り、背中を丸め、かじりつくようにして目の前の活字を追い掛ける。

 しかしふ、と。

 おれは出し抜けに、視線を宙に持ち上げた。どさり、重量感のある音を立てつつ、今の今まで覗き込んでいた本をそっと床に置く。かなり分厚いそれは実際、何時間も持っているとそれだけで割と疲れる。
 帽子と髪の隙間に自分の手のひらを突っ込みわしゃわしゃと頭を掻き回せば、漸く人心地ついた。言葉の羅列が踊る世界に意識を沈めるのは至極楽しいのだが、如何せん疲労が激しい。おれはほっと体の力を抜く。
 それからややあって、おれは少し離れた床に放り出されたままになっていた己の相棒――トンファーにぴたり、視界を据えた。ずりずりと膝を引き摺りつつ四つん這いでそれに近寄ったおれは、そっと手のひらを伸ばす。どこからか射し込んできているのだろうか、仄かな光を跳ね返し、その周りの不健康そうな肌の色に似合わず爽快にきらり、暇潰しの黄色がおれの爪先で光る。
 見慣れた凶器を持ち上げそれからおれが一瞬で意識を飛ばし思いを馳せたのは、綺麗なターコイズブルーの瞳だった。


―――バンダナ…。

 おれはほんのりと温まった頬を自覚しつつ、両手をいっぱいに使ってきゅっと、己の手に馴染んだトンファーを強く抱き締める。

 思い出すのは昨日の戦闘のこと。人はバンダナのそれを見てグロいグロいとそればかりを繰り返すのだが、おれにとっては好きな人が一番生き生きとしているところを見れる貴重な時間。ぼわぁっとそちらに熱視線を送っていたことがバレたおれはその直ぐ後で、呆れた表情の船長にしかしこってりとお叱りを受けたのだった。


――だけど、格好よかった、なぁ…。

 特徴的な白髪にアクセントを添える赤を纏った凛々しいその姿を思い出したおれは一人照れて、思わずがばりっ、抱え直していた両膝に己の顔を埋める。…うん、耳まで熱い。おれはその事実を誤魔化すかのようにして己の頭から飾り毛付きの帽子を引き摺り下ろし、もふりとその中に顔を押し付けた。

 幾らかして何とか気持ちを落ち着けたおれは、しかし気恥ずかしさによる妙な手持ち無沙汰を紛らわす為にと近くに置いてあった布を引き寄せ、いそいそと己の手のひらに収まる赤色のトンファーを磨き出す。バンダナのことを思うと、恥ずかしいのに嬉しい。変な気分だった。自然と顔が緩む。血の色だか地の色だか分からないその真紅を、おれは飽きることなく拭き続けていた。


 …そのとき、



 とんとん。


 閉め切った室内に突如、飛び込んできたノックの音。
 僅かに扉を揺らしたそれはびくり、大袈裟な程におれの体を震わせた。反射的に動いた両腕は己を庇わんと走り、おれは自分の体をきつくきつく抱き締める。
 ぎょろりぎょろぎょろ。視界は忙しなく右往左往を繰り返し、どうしてだか息が詰まった。

――おれ今、絶対、挙動不審…だ。

 自覚はある。分かってはいる、が、だからと言ってどうしようもない。
 こんなことだから人とのコミュニケーションも上手くいかないのだと考えてしまえば、おれの心は一瞬にしてずうんと深く落ち込んでしまった。


 とんとん。


 しかし、そんなおれの精神状況などはいざ知らず、依然ノックはおれの鼓膜を叩く。

 ど、どうしよう、だとか、誰だろう、だとか。
 ぐるぐると回る頭はだけど、おれの足に力を入れてくれはしない。


「ワカメ? いねェのか」


「!」

 しかし、不意にすうと流れ込んできた声。おれは、肩を飛び上がらせる。
 それは、おれが今の今まで――いや、正確に言うならこれが常なのだが――おれの頭を占領していた、よく通る低い声で。


「い、いい今開けるっ…!」

 声がひっくり返った。おれは慌てて腰を跳ね上げ、ばたばたと扉に駆けていく。
 がちゃり音を立ててそこを勢いよく引き開けば、眩しい白髪がおれの視界の上方で風圧にそよいだ。

「何だ、いんじゃねェか」

「バ、ンダナ…」

 身動ぎついでに手早く帽子を被り直す。おどおどと目線だけで見上げた先のそのブルーに、おれはなんとか唇を動かした。

「ど、どうしたの?」


 しかし、声を出すただそれだけのことに全力を注いだおれの勇気も虚しく、降りたのは不意の沈黙。バンダナからそれに対する返答はない。

「…?」

「………」

 困ってしまったおれは落ち着きなく視線をぶらしながらも一心に、じっとその瞳を見つめる。するとふと、バンダナのその表情が僅かながら動きを見せた。
 そうそれはまるで、面白いことを考え付いたと言わんばかりの顔で――…


「 、え?」


 気がつけばおれの体は、ぴくりとも動かなくなっていた。



 おれは以前に一度、『お前は本当に博識だな』とペンギンさんに感心されたことがある。だがしかし、それは別に凄いことでも何でもない。おれの知識の多さはただ単におれが人と人との関わり合いから逃げ部屋に引き込もっている分、一般よりも書物に接する時間が多いというだけだ。所詮、知識ばかりの頭でっかち。
 その為、いざとなってもこの通り。



――うわわわわわッ…!!!

 脳内は最早、パニック。しかし現実のおれはというと己のキャパシティを越えた状況にただただ目を回し、はくはくと声にもならない息を口内で出し入れするのみ。

 鼻腔いっぱいに広がったキセルの香り。じわり伝わってきた体温。
 あっと言う間にバンダナのその逞しい腕に引き寄せられてしまったらしいおれの体はがっちりと固くホールドされ、一ミリたりとも動けない。
 しかし譬えその腕に拘束を意図する力が加わっていなかったとしてもおれの体はかちこちに固まり、言うことを聞いてくれはしなかっただろう。


「っななななでこ、こんな……!」

 バンダナの手のひら。バンダナの圧迫。バンダナの鼓動。おれの頭はショート寸前だった。
 大好きな人の香に包まれ、おれはくらくらと目眩を感じる。遠退きそうな意識の中、しかしおれの頭は何故だか俄然フル稼働。

――…人間は丁度年頃の娘が父親の匂いを嫌がるように、遺伝子的に近い異性の匂いを好まない傾向があるって言うけど、つまりこんなにいい匂いのバンダナはおれと遺伝子的に遠いってことなのかないやこの場合バンダナの匂いっていうのは主にキセルなんだからおれはキセルと遺伝子的に遠いってことでってあれキセルに遺伝子ってあったっけ待ってそれ以前におれもバンダナも男であって同性で……。

 脳内では無駄な雑学や色々な理論が次第に切れ目もなくして光速回転。しかし、実際のおれはと言うと単に目を回してるだけ。
 耳の後ろにふと押し付けられた唇の感触。首筋を態とらしく擽った熱い吐息に、おれは身震いした。
 それを認識した途端、おれの目縁には何故だか涙が浮かんできて。恥ずかしさにじわぁと視界が滲む。…はっ、と息まで上がってきた。おれ、本当に変。変態臭い。そうは思ってみてもしかしどうすることもできないおれは、ただただ適量の酸素にさえも瀕死の状態でぱくりぱくりと喘ぐだけ。
 ばくばくばくばく。壊れてしまうんじゃないかというくらいに早鐘を打つ心臓。顔からはぷしゅ〜…と湯気が出てしまっているのではと、どこか遠くに立った他人事面の自分は真面目に心配しているようだった。

 うわー!!と内心悲鳴を上げながらも現実では唇を噛み締め、おれはぎゅっと固く瞼を閉ざした。


 …そのとき。



「――…メシ」


「、へ…?」

 吐気と共に鼓膜へとダイレクトで囁き込まれた一単語。一拍遅れながらも上擦った声で何とか返答を返したおれの顔をバンダナは唐突に覗き込んできて、にいと根性の悪い笑顔はターコイズでおれの赤面を映す。


「"メシできたから早く来い"、ってよ」


 それは、我が船専属コックのお決まりの台詞。

 何も言えずにぽかんとその場に立ち尽くしたおれの首からするり、バンダナの腕が俄に抜けていく。
 至極愉しげな様子でくつくつと肩を揺らし、遠ざかっていく広い背中。我ながら染々華奢だなぁと思ってしまうおれの体とは、全く以て大違いだ。


 ひらひら、

 肩の高さ、丁度裏拳の位置で揺らされたバンダナの手のひらに、思う。
 どうやらおれはからかわれた、のだろう。そのことは理解できた。だけど。
 …ぺたん、力の抜けた体でおれはその場にへたり込み、未だ熱の灯り続ける顔でそれを見送る。


「―――…かぁっこいい…」


 ふわり、その場に残された微かなキセルの香り。
 それは暫くの間、おれから前言以外の一切の言葉を奪い去っていた。



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