それは凄く、不思議な感覚であった。
一人称を"おれ"とする女などは、何もそこまで珍しくもない。 しかし何と言うか、この女は違うのだ。態と男らしい口調にしているのではなく、もっと……よく、分からないのだが。 言うならばそう、もしもこの女が二次成長前であったのならばおれは、こいつを男と間違えていたかも分からない。そんな感じだ。
しかし、違う。今おれの斜め前を歩くこの女は、決して男ではない。ラインが違う。同じくらいかそれよりももっと細身のワカメにでさえある喉元の凸も、そいつには見えなかった。 どんなに荒い所作をしていようとも、どんなに粗野な語調であっても、性別、それだけは変えられぬ事実。
――何でこいつ、こんなに男らしく振る舞ってんだ…?
一種の男避け対策、なのだろうか。女の美しい顎のラインをその横髪の隙間から眺めつつ、おれはぼんやりと考えてみた。 しかし、本当のところは分からない。
「っと…、ここだな」
ぴたり、女は足を止め、確認するようにして首だけでこちらを振り返った。両手が使えない状態のおれは、小さく頷くことによってそれを肯定する。 こちらと全く同様な状態の女はぴたりと閉じられたスライド式の扉の前、一体どうするのかと黙っておれがその様子を見守っていれば、ジーパンに包まれたその足は躊躇なくふうと持ち上げられた。
「っととと…。――危ね、持ってるもんのバランスとか、何も考えてなかった」
「おまっ…、何足で開けてんだよ」
そのあんまりな動作を指摘しつつ、思わず唖然と唇を閉じ忘れたおれに、女はやはりにやりと口角を持ち上げ不敵に笑む。
「良いだろ。この靴、最近買ったばっかりだから割りと綺麗だぜ?」
薄汚れた様子のない黒のスニーカーを前に、おれは、黙って口を噤む。
ボーイッシュに振る舞いたいのであれば、良い。好きにすれば良い。 しかしあくまで女は女なのであって、男ではない。勿論、男であっても今のような動作は決して褒められたものではないが、まだ許容されるものである。 しかし男振りたい女の中では稀に何を勘違いしているのか、ただただはしたなく下品な行動を繰り返す奴もいる。
こいつもその類いか、と一気に己の内が冷めていくのを自覚したおれは、そのまま何も言うことなく、扉の向こうに消えた女の背中を追いかけた。
一つだけある窓が棚によって半分覆われた資料室は、薄暗く埃っぽかった。 これはそっちに、これはあそこだ。何故だか物の置場所に妙なほど詳しい女の指示に従い、おれは黙々と資料を片付け続ける。一切会話を持ち掛けようとはしないおれに何かを感じ取ったのか、あちらもまた必要最低限にしか口を開こうとはしない。坦々と作業だけが進んだ。
やがて女からの指示のみで、意識せずともおれの体は勝手に動く。そんな風にまでなってきた頃。
…どくんどくんどくん。煩い心臓はやがて、おれの限界を告げてくる。 もしかするとおれの周りの空気にだけ、異様に酸素が少ないのかもしれない。そう疑ってしまう程に苦しい呼吸は必然、少しずつ荒れてきてしまった。はっ…、おれは向こうに気づかれないようにと一人、蒼顔を歪める。
女と同じ空間にいる。密室に閉じ込められている。その事実が、大層気持ち悪い。
そして何よりもおれは、恐ろしかった。 義母一人を相手にどうすることもできず、ただただ体を震わせているだけだったおれも、今は違う。最早子どもではないのだ。だからこそ逃走も、回避も、攻撃だって容易い。 それは、相手が女であるが故。すっかり体の出来上がった自分が、男であるが故。
女は苦手だ。体が拒絶する。 だからこそパニックに陥ったときにおれは、果たして女に何もしないでいられるのだろうか。…傷つけてしまうのでは、ないか。
それがおれには、ひどく恐ろしかった。
「? お前…」
「!」
そのときひょい、突如眼前に現れた女の顔。おれを覗き込んできたその双眸に、おれの体はびくり、跳ね上がる。
「大丈夫か? すっげェ顔色悪――…」
…頬の辺りにまで伸びてきた女の指先とその柔らかな声とを遮ったものは、ぱしん、やけに乾いた音一つ。
「 あ、」
「、は……?」
善意からのそれを一瞬で叩き落とされた女は当然、呆然といった様子で暫し固まる。 しかし、次の瞬間にはぎゅう、鋭くつり上がったその目が、真っ向からおれの瞳を射抜く。
「…どういうつもりだよ」
美しいかたちをした女の唇から零れたそれは静かで、だけども低く、唸るような声だった。
焦燥、戸惑い、罪悪感、嫌悪。いくつもの感情が綯い交ぜになって、勢い良くおれの中を駆け巡る。 その煩雑さの中で遂に一番の体積を占めた苛立ちは途端にむくりその嵩を愈々増し、八つ当たりのようにして全ての根本を躊躇なくおれに叫ばせた。
「おれは、女が嫌いなんだよッ」
その後に降りてきたものはキイン、まるで、耳鳴りがしてきそうな程の重たい沈黙。
「…――はァ?」
しかし、それを数秒の後に打ち破ったものは、まさかの大迫力。あまりにドスの利いたその声は到底、女が出せるものとは思えなかった。 おれが思わずぽかんと唇を開きかけるのと共に、徐々に戻ってきた平生の心。それが頭部に昇ったおれの熱を、次第に冷ましていく。
そのとき。
あ、
当然に小さな丸を形作った女の唇は、そんな音のない声を溢す。 出し抜けなそれに何事かと思ったそのとき、おれは女のその瞳が何故だかぴたり己の上方付近で止まっていることに気がついて。
「…――危ねェ!!」
いつの間にやら伸びてきていた女の腕。それに、おれは勢い良く両肩を突き飛ばされる。
ぐらり、傾ぐ視界に見えたいくつもの白、白、白の塊。スローモーションで砕け広がり、舞いながら落ちてくるそれらは恐らく、おれの背後にあった棚からずるり、雪崩れてきた山が元なのだろう。見覚えのある大量のプリントたちを、しかしひらり、僅かに揺れた短い髪が俄に隠す。
降り注ぐ大量の紙々を背景におれは、自らその盾となる女の姿を見た。
「いったー……くは、ねェな、うん」
「…おれのが痛ェよ……後頭部打った」
「鈍臭いんだな」
「誰の所為だと」
「あんたの後方…いや、上方不注意の所為」
「………」
…だったらおれは四六時中、全方位に注意してなくちゃいけないのか。
心の中でそうツッコんだおれの耳元ではくつくつ、人の体を転ばせた張本人が可笑しそうに肩を揺らす。 それからゆるり、おれの上で一先ず上半身だけを起こした女の背中からはひらひらり、何枚もの紙が落ちた。持ち上げられたその端麗なかんばせは当然、こちらとは至近距離にある。自分に重なる自分とは違う温度に、だけどもおれはひどく落ち着いた思いでいられた。
束になってたとは言え、幸いそれらは紙。特にダメージもなさそうな様子でするり難なく立ち上がった女の様子を見上げ、おれは内心ほっと息をついた。 さて、それではいつまでもここで寝転がっている訳にもいかない。おれは軋む体、背中の全面を打撃され一瞬息が詰まったときの痛みがまだ僅かに残る背骨を気にしながらも、己の背後に手を付き重い腰を持ち上げようとした。
そのとき。
「――ん、」
すっ、と。直線的に差し伸ばされた手のひら。迷いのない手のひら。 おれはそれに、心底驚く。
「あんた、何か勘違いしてるみたいだから言っとくけどなァ…」
透き通るように白く、節々の細いその指は確かに女のもの。 しかしその先にある"爪"、それは、おれの思う女のものとは明らかに違っていた。 つやり丸く形の良い一般的な女のそれとは似付かない、ばっつり、潔く切られた四角い爪。男らしく短い爪。
それにおれは、言い知れぬ感動を覚えて。
「――おれは男だ! 女なんかじゃねェ」
言い切った女のその姿は、強かで壮麗。たおやかでいて強靭。
…――ああ、そう言えばこの女は、初めからおれの義母とは違っていた。
ぼうっとそちらを見上げているばかりのおれに、しかし女は急かさず黙って待っていてくれるものだからおれは、漸くと動ける。
おれはその女の手のひらを、―――掴んだ。
「せ、性同一性障害なんだよ…シオは」
吃りながらも紡がれたワカメのそれに、おれは成る程、納得して頷く。
「でも…だからって何でワカメは、シオと仲が良かったんだ?」
おれとワカメしかいない昼時初めの休憩室。何も怯える必要はないというのに、相も変わらず向こうは落ち着かない様子。 訝しみ首を捻ったおれの疑問に、ワカメはそわそわと唇を動かした。
「別にお、おれからシオに近づいた訳じゃ……た多分、本能の部分では他の男のことを恐れてたんじゃないかな、シオは。聞いてみてもきっと、否定されるだけだろうけど…」
「ああ…」
中身が男だという、ただそれだけのことを除いてしまえば、シオはその容姿の所為もあり大いにモテた。万が一にもシオが性同一性障害だと知り得た男がいたのならば、それを利用してそいつが何か邪なことをしないとも限らない。 ただ一人を除いて他に一切の情欲を抱かないワカメにのみ気を許したというのは、非常に賢明な判断だったと言えよう。
再び納得したおれはちらり真顔で視線のみを持ち上げ、己の目の前にある顔を下から強く見やる。
「ワカメは絶対、大丈夫だもんなァ」
「…な、なんかシャチ、最近それ多くない?」
「そうか?」
たじたじと疑問符を飛ばしてくるワカメにおれはしらりとばっくれて、学生の行き交う廊下、その様子が見える小窓の方へと然り気無く視線を移した。
飲食可であるこの場所は今、一時的に過疎状態。と言うか、おれとワカメとの貸し切り。 それは学生たちがこの時間、ほぼ一斉に飲食物を買い出しに行くからであって。
「…そう言やシオ、パックの自販の場所なんて知ってんのか…?」
ジャンケンに負けたその人物のしなやかな背中をふと頭に浮かべ呟いたおれに、ワカメはぽつり自信なさげに返す。
「大丈夫じゃない、かな。シオは今日もきっと、いちごミルクだとお、思うし…」
「いちごミルク?」
鸚鵡返しにしたおれの台詞に、はっと背筋を伸ばしたワカメは、途端焦ったような表情で一気にこちらとの距離を詰めてきた。
「あっ…だ、駄目だよ?! そのことでからかったりしたら。女みたいだとか思ってるんだろうってシオ、直ぐ拗ねちゃうからっ…」
ワカメのそんな必死な様子を見、おれはふっと微笑ましい思いで小さく口端を上げる。 何だ、お前もあいつのこと、ちゃんと大事に思ってんじゃねェか――と。
つい最近飲んだあの甘酸っぱい味と、海のように深い色の髪を持つ友人との顔を順番に思い浮かべたおれは、唇にうっすらと笑みの色を残したまま言う。
「――まあ、あれは"美味いから仕方ないだろ"」
以前、ワカメがいないとき、既に投げ付けられていたシオの言葉をなぞりつつ、おれは再び視線を廊下の方へと向けて待つ。閉じられたその扉を、じいと見守る。
両腕いっぱいに食料を抱えたシオが今にもそこにやって来たのならば、その足が持ち上げられるその前に扉を開けてやるのだと目論むおれは、ゴムの擦れるスニーカー独特の足音を、―――あの媚びることのない清爽な笑顔を、心待ちにしていた。
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