3(さん)
「――ペンギンさん!」
ぱたぱたと駆け寄ってくる足音。おれは、振り返る。 風呂上がりなのだろうか。その僅かに上気した頬があと数メートルというところまで迫った途端、シオは揺れた船体にバランスを崩す。しかし半ばそれを予想していたおれは難なく、その体を受け止めた。
「あ、りがとうごさいます…」
「…だからまだ、潜水中には走るなと言っているだろう。傷が開いたらどうする」
「…返す言葉もごさいません、はい」
ふざけたような仰々しい言葉を紡ぎ軽くおちゃらけるシオの耳は、しかし仄かに色づき赤い。だけどおれは、それに気づかないふりをした。
「そんなに急いで、何かあったのか?」
「あ…そうですよ! この揺れ。何だかかなり、荒れてるみたいですけど…」
「ああ…知っている。今は故意に、そういう潮の流れの場所に入っているんだ。問題はない」
不安そうに眉を潜めその顔を曇らせたシオは、まるで船のことを知らない。忘れてしまったのだ。先ほど航海士から聞いたことをできるだけ丁寧な口調で伝えれば、シオはほっと息を吐き出しその顔を綻ばせた。 借りてきた猫のようにおどおどと周りを窺っていた初めの頃。あれから、随分となつかれたものだ。
複雑な思いに翳ったおれの瞳は、深く被った帽子の鍔が隠した。
「そうですか。なんだぁ。私、一人で慌てちゃって…」
えへへと照れたように笑うシオのに、おれの心臓の辺りはどうしようもなく苦しくなった。
「…態々教えに来てくれたんだろう。ありがとう」
小さく感謝を伝えれば、シオはまたはにかむ。 そこから向こうには気づかれない程度にふうと視線をはぐらかし、そしておれは気づく。
「――髪、まだ濡れてるぞ」
「あ…」
その肩に掛けてあったタオルを手に取り、断りを入れる前からくしゃくしゃとそれ越しに掻き回してやる。掻き回すとはいっても、その絹糸のような細い髪が絡まらないようにと、十分に気を払って。 その微妙な力加減はもう、おれには慣れたものだった。
ぴくりと目を瞑り首を竦めたシオはややあってそろり、その瞳でおれの呆れた表情を映す。
「――…もしかして」
「うん」
ぽつり小さく呟いた声に、しかしおれは手を止めない。しっとりと濡れた横髪がシオの頬に貼り付いていた。するり、その肌を傷つけない程度に指先で払う。
「もしかして前にもこういうこと、…ありましたか?」
…ぴたり、
おれは、体の動きを止めた。 おそるおそる覗き込んだシオの瞳はどこか、遠くに意識をやっているようで。
「何か…覚えてるんです、この感触」
「…………」
「私、前までもこうやってちゃんと乾かさなくて、よくペンギンさんにしかられてた気がします」
ぼんやり、空中を見つめていたシオの黒い瞳はしかしぴたり、再びおれにその焦点を合わせた。
「なつかしい…なんて、変な話ですよね。私、なんにも覚えてないのに」
ふにゃり、僅かに眉を下げ、曖昧に"シオ"の顔で笑ったのはだけど――別人。
「……ああ」
知らずに噛み締めていた奥歯をゆるりと開き、おれは僅かに瞼を伏せて小さく声を絞り出した。
「不思議だな」
抑揚のないおれのその言葉を聞いたシオは、気づけばその顔に憂いを浮かべていて。 …凄く、切なそうな表情。
どうしてお前がそんな顔するんだ、と。 胸の隅にどこか不服な思いを抱いたおれにはだけどそれはとても、…気になった。
2(に)
「――敵襲だァ〜!!!」
突如、船内に響き渡った大声。
おれは隣にいたシャチと顔を見合せると、同時に駆け出す。
――…ばんっ、
甲板へと続く一際大きな扉を勢いよく開けば、途端目の前にまで迫ってきていた見慣れない――敵の、顔。
その状況を一瞬で判断したおれは身を屈め、後ろにあった左足を床板に擦り付けつつも勢いよく――引き抜く。その摩擦による熱に、ぶわっと筋目が炎上したかのような錯覚。射殺さんばかりに鋭く視線を送っていた相手の腹に、それを捩じ込む。
安そうな布地。そして、その奥に隠れていた硬くも柔らかな筋肉をも突き抜け、中の内蔵までぐにゃり潰れる感触。 その間、僅かコンマ以下。
男は、勢いよく後方に吹き飛んだ。
「――伏せろ、ペンギン!」
背後から飛んできたのはそんな、鋭いシャチの一声。瞬間身を屈めたおれの頭上を白刃が煌めき、おれの前方に迫っていた男の喉を正確に捕らえた。 崩れ落ちる、その巨体。
「助かった。相変わらずいい狙いだな、シャチ」
「ったりめーだろ」
にいっと笑ったその顔の横に、構えられた手のひら。その指々の間に挟まれたいくつものナイフは、今までに切り裂いてきたいくつもの赤の記憶をその身に秘め――…鈍く輝く。 おれは太股のホルスターから愛銃を素早く抜き取ると、くるり改めて既にこちらの甲板に乗り込んでいる敵の男たちと対峙した。
…――正直に言うならそのときおれは、シオの存在を忘れていた。
いや、違う。おれは決して"シオ"を忘れていた訳ではない。 また怪我をしないだろうか、弾切れだなんてベタなヘマをやらかしていないだろうか、と。常にその安否を心配していた。
しかし、つまりはそういうこと。
"今のシオ"の存在はすっかり、おれの中から抜け落ちてしまっていて―――。
「――…、え……?」
銃声咆哮打撃音。無秩序な喧騒の中でも正確にその小さな吐息のような声を捉えたおれの耳に、気づかされた。 振り返ったその先に、立ち竦むその小さな姿。
「―――っ、シオッ…!」
その背後に迫る刀を目で捉えたおれはシオのその体を庇って飛び出し、右肩に弾けた熱を覚える。
「っ―…」
そこから散った己の赤など、構うものか。 おれの唐突な割り込みに瞠目する男の眉間に銃口を突き付け、躊躇わずに引き金を引く。
…乾いた破裂音。
僅かに飛んできた汚ならしい液体がシオの頬に数滴付着したものだから、おれは顔をしかめた。
すべやかなその眦付近の肌を指先で拭い汚れを払ってやりつつするり、おれは彷徨する黒の瞳を優しく覗き込む。
「――…大丈夫だったか? シオ」
がたがたと体を震わすシオはただただ、呆然とした眼差しでおれという存在を貫いた。
「……ペ…ンギン……、さん…」
その瞳の中に映るおれは、どこか諦めたかのような儚い様をしていて。
「――…ごめんなさい。私、戦闘もできないのに邪魔しに出ていって、ペンギンさんに…こんな怪我までさせてしまって…」
船長がその靴音を響かせ、瞬く間に片の付いた戦闘の後。
泣きそうに揺らめく黒の奥に見えた、"何か"。
「、いや」
近づいてきているのが、分かった。そのときが。 だけどおれは必死で、それに気づかないふりをしていた。
その日は、嫌になるくらいに眩しく、朝からよく晴れていた。
船長と共に直にたどり着く、今回はかなり治安が良いらしい島での滞在について軽く話し合っていたおれの耳に届いたのは、短いノックの音が二回。 船長の許しが出、開いた扉に立っていたのは案の定、以前と変わらないリズムをその手に染み込ませたシオだった。
そして、おれはシオのその眼差しを見つめ、…――戦慄く。
何かを決めたような、静かな目。決意の目。
「…ロー船長、」
……寒気がした。
「―――私を、この船から下ろしてください」
"降りたい"でも、"降りなきゃ"でもない。 シンプルな懇願の台詞。まるで、態と感情を見せないようにと意識されたかのような。
分かった、と。船長はただ静かに、了承の言葉だけを返した。
おれは、何も言えなかった。
1(いち)
―――物言わぬ唇とは違い、濡れたように光る苦しい二つの瞳。 その嵩はもう疾うに越えているように見えたのだけれども零れることはなく、ゆらゆらとただその水面は揺れているのだから不思議だ。
「今まで、ありがとうございました。……本当に」
痛い。苦しい。
変に悲痛な笑みを見せるシオの目の前。 おれは、長くもない己の爪が掌に突き刺さるくらいに強く、そこを握り締めていた。
だけど悲しいかな。それよりももっとずっと、痛い――…胸。
心臓の、その奥。
おれを司る中心の細胞一つ一つが、そして何よりも心が何かを叫んでいて。 呼吸というごく単純な動作さえもが苦しく辛くなってきて…困る。
口の端からはじわり、血の味が滲んでいた。
しかしおれの唇を動かす為の筋肉はどうしてだか、ぴくりとも動いてはくれなかった。頬が動かない。表情すらも己の顔に作れなかった。 その間、誰かがシオに声を掛けていたようにも思う、が、分からない。言葉での受け答えくらいはしていたのだろう。だが、シオはじっとこちらだけを見つめていた。
しかし、それも長くは続かない。
おれの双眸をじいっと潤む瞳でたっぷりと、満足がいくまで見つめ終えたのだろう。 不意に、その黒は外された。
…くるり、
シオが、踵を返す。
――…離れてゆく。
物言わぬ背中が何よりも雄弁に「さよなら」と、おれとシオとの別れを告げてくる。
それなのに縄梯子に手を掛けるシオを見てもおれは、やはり何も言えなかった。
ばりばりと心臓を喰い破られる。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。それを絶叫する内の己とは違い、今ここで何も言えずにただ突っ立っているおれはとんだ臆病者だ。
一段一段。徐々に遠くなっていく距離。 分かっていた。解っていた。だけど、どうしようもなかった。おれは何も言えなかったのだ。今と、全く同じように。 少しずつだが離れていく。
すると、そのとき。
――…ずるり、
シオの足裏が縄を滑り、その身が傾く。あっと唇を開いたシオの瞳が、何もできず動けないままだったおれの瞳と確かに交わった。
一気に開く距離。
…――だけど、させない。追いかける。 今までの時間がまるで嘘だったかのようにおれの体は、瞬間的に動き出していたのだ。咄嗟に、身を乗り出す。
真っ直ぐ。真っ直ぐ。 おれはシオを見つめる。シオに―――手を伸ばした。
見開かれた、黒。
そしてそれに気がついたらしいシオも、小さなその手のひらを差し伸ばす。
…だが。
全ては、スローモーション。
おれの指先を掠めたその白魚のような手のひらはおれの手のひらをするりと―――…すり抜けていってしまった。
120304
Thank you from the bottom of my heart→kano-nee! ソウ
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