09 夜。いよいよ明日の朝、ケイネスお兄様達は聖杯戦争の行われる冬木市へ行かれる。 先程まで一緒にお兄様とお話をしていた時は、そこまで実感が無かったけど、一人になって急にそのことを感じさせられた。 「…、」 「いかがされましたか?ナマエ」 「ランサー…」 いつからそこにいたのか、判らなかった(もしかしたら、霊体化していたのかもしれないけど)。心配そうに見つめているランサーに、私は笑って彼に気を使わせないようにした。 「何でもありません。ランサーこそ、こちらで何を?」 「いえ、ナマエの姿が見えたので」 「こんな時間まで、部屋を出ているのは見たことがなかったので」ランサーは続けてそう言った。それで私は、先程までケイネスお兄様の部屋にいたことを告げた。 「明日で、暫くの間お兄様とは会えなくなってしまいますので、お話をして…気付いたらこんな時間になってしまいました」 言っていることに、嘘は無い。ただ、その会話の裏にある私の思いは別――― 「…ランサー。宜しければ、少しお話し相手になって下さいませんか?」 不意の言葉だった所為か、ランサーは私を少しばかり驚いた表情で見つめていた。「やはり、駄目でしょうか?」英霊は、睡眠を取る必要はないとはいえ、明日は早くに出発する。そんな考えを過らせる私に、ランサーは微笑んだ。 「喜んで」 ![]() 立ち上る湯気は、先程ナマエが淹れた紅茶から。 戦いの地へ挑む前夜とは思えぬほど、ここは静かで穏やかだった。 「ランサー。一つ、お願いを聞いて頂けませんか?」 「何でしょう?」 カチャ、と手に持っていたティーカップをテーブルに置き、ナマエが言った。明日のこともあるから、願いとは何かと思って彼女を見れば、穏やかで変化はない。 「宜しければ、今夜だけは真名で呼んでも良いですか?」 「真名、ですか?」 「はい。駄目ですか?」 そんなことはない。ただ、それだけなのかと思って次を待ってもナマエは、俺の返事を待つばかり。その程度のこと、問題はない。 「構いませんが、何故その様なことを?」 「今日が最後ですし、折角だからあなたの本当の名前を呼んでみたいな…と」 この時代で、俺の真名を知っている人物は少ない。知っていても、サーヴァントである故クラスで呼ばれることが殆どで、それになれてしまっていた。その所為か、久々に呼ばれる本当の名前がこんなにも新鮮で、嬉しいと感じるとは。「宜しいでしょうか?」ナマエが俺に訊ねるので、俺は「勿論」と答えた。 「あの、後もう一つだけ、宜しいですか?」 「何でしょう?」 「今だけは、普通にお話しして頂けませんか?」 「…判った。そうすることにしよう、ナマエ」 いつかの時の様に、ナマエは嬉しそうに「有り難うございます」と微笑んだ。 「ディルムッドは聖杯に何を望んで?」 会話がだいぶ進んだ頃、ナマエが不意に言った。 「俺は、生前騎士として貫けなかった忠誠の道を、二度目の人生があるのなら貫きたい。そう思ってこの戦いに参加したので、願いと言うものは無い」 「ディルムッドも無いのですか?」 ナマエの言葉に疑問を持てば、彼女は俺の思いに気づいたのか自分から話し始めた。ケイネス殿とのことを話すナマエの表情は、相変わらず穏やかで優しさに満ちていた。 この数日、ナマエの話から出てくるケイネス殿の話には、つくづく驚く。それをナマエに話せば、ナマエは小さな花が咲いた様にクスクスと笑った。 「ナマエの話を聞くと、まるで別人の様だ」 「ケイネスお兄様は魔術師ですから、ディルムッドへはなかなかそう言った面をお見せにならないかもしれませんね」 「私からすれば、ディルムッドのお話の方が不思議なんですよ?」笑って言うナマエは、紅茶を一口飲んだ。 ![]() 「随分お話してしまったみたいですね」 ナマエの淹れた紅茶は、冷めきってしまっている。「遅くまで、すみません」申し訳なさそうに言うナマエに、俺は微笑んだ。 「いや、俺の方こそ。女性をこんな遅くまで、」 「誘ったのは私の方ですから」 苦笑して、ナマエは席を立った。それを見て、俺も立ち上がりテーブルに広げられたティーセットを片付けようとすれば、ナマエの手が、俺の動きを止めた。 「私が片付けておきます。ディルムッドはお兄様の所へお戻り下さい」 「しかし、」 「お願いします」 真っ直ぐに見つめるナマエは、さっきまで俺に見せていた優しい笑顔が消えていた。 日付はとっくに変わっていた。つまり、日が昇れば、俺はケイネス殿と一緒にこの屋敷を出る。 「では、お言葉に甘えて」 そう告げると、漸くナマエは少しだけ微笑んだ。 ナマエは先に歩き出し、扉を開けた。その場で霊体化することも出来るのは、ナマエも判っていた。けど、あえて開けてくれたその扉に向かって俺は歩き出す。 「ディルムッド」 一歩前え進めば、俺の脚は廊下へ。その直前、ナマエは俺の名前を呼んだ。振り向けば、ナマエは俯いていて表情をすぐには窺えなかった。 「…私は、お兄様が聖杯戦争に勝てなくても構いません。ただ、今日までの様にお兄様の講義をお手伝いし、時々お茶を飲みながらお話が出来れば」 今までで一番穏やかな声だった。 「最後にもう一つだけ、お願いしても宜しいでしょうか?」 「…構わない」 「無事に帰って来ると約束して下さい。ケイネスお兄様も、ソラウお義姉様も―――」 細いナマエの腕が、俺の腕へと触れる。 「勿論、あなたもです。ディルムッド」 青い瞳が真っ直ぐに俺を見つめていた。ただ、それだけを。他の物など望まない。切願だと言わんばかりに、ナマエは微かに開いた唇が、まだ何かを告げようと震える。 身体は自然と動いていた。彼女が望んだのではない。 近くで話すことが多かったから、その身体が細身なのは判っていた。けど、こうして自分の腕の中に入れてしまえば、こんなにも華奢なのかと、改めて実感させられる。 この育ちからして、異性に抱きしめられることなど無いのだろう。ナマエはすぐに頬を赤く染めた。 「ディル、…」 赤く染まった頬、潤みを帯びた瞳、震える唇。 俺がナマエの頬へ手を添えれば、少し驚いた表情をしたナマエだが、すぐにその青い瞳を閉じた。 fin |