疾走サイダー
ぽつ、と窓に何かがぶつかる音がした。学級日誌を書く手を止めて目を外に向けると、みるみるうちに窓のむこうは薄暗く覆われ、鼓膜は降り出した雨の音に支配される。
(…最悪……)
エリザベータはペンを机の上に放り投げて、傘を持ってこなかった自分に舌打ちした。今朝は寝坊したため天気予報を見ていない。いつもならば問題のない起床時間だったのだが、日直は早めに学級日誌を取りに行かなければならず、テレビも新聞も見ている暇がなかったのだ。
家を出たとき若干嫌な予感はした。やはりあのとき傘を取りに戻ればよかった、という後悔も今となっては遅い。
そうこうしている間にも雨はどんどん強さを増していく。日誌を早く書き終えて、さっさと帰ることにしよう。あるいは自分が帰る頃にはある程度雨も弱まっているかもしれない。そんな甘い期待を抱きつつ、エリザベータは再びペンを力なく拾った。
誰もいない放課後の教室には雨音とペンを走らせる音がよく響く。今日あったことを思い出しながら感想欄を埋めていった。
明日も頑張りたいです、などという適当かつありきたりな文章で締めくくり、ページの端でシャーペンの芯を押し込む。ふう、と一息吐いて顔を上げるが、一向に止みそうにない雨に気分は暗くなった。
なんだか、今日はついてない。寝坊、そして日直。数学は分からない問題を当てられ、体育のサッカーでは相手チームの一人と接触プレーをしてしまい、軽く膝を擦りむいた。極めつけはこの雨である。
しかし思えば今日だけというよりも、最近ずっとエリザベータは落ち込んでいた。友達にも恵まれているし、決して学校自体がつらいものだけではないはずなのだけれど。それでも、代わり映えのしない日常は、じわじわと精神の歯車を狂わせていくのだ。
のろのろと立ち上がり、日誌を持って職員室へと向かった。途中何人か部活中らしきジャージ姿の生徒とすれ違ったくらいで、廊下はほとんど無人に近かった。放課後の学校の中で自分だけが浮いているような感じがする。エリザベータは下を向いて膝の絆創膏を見つめながら懸命に歩いた。そして曲がり角に差し掛かった。
「うわ!?」
「きゃっ!!」
誰かが向かい側からやって来ていたことに気が付かなかった。反射神経で上半身を反らしたおかげでぶつかりはしなかったものの、ごめんなさい、とあわてて叫ぶ。
「…って、ギルベルト?」
「…っぶねーなクソ女!前見て歩け!」
自分のことを棚に上げて小学生のような罵倒を浴びせる目の前の男は、エリザベータがいっそ見飽きた程に知っている、ギルベルトだった。
「なんであんたここにいんのよ?」
「ここの生徒だからな」
「…そういうボケいらないから。なんでこんな時間にいんのって訊いてんの」
「別にいーだろ!勝手じゃねーか!」
埒のあかない会話に嫌気がさし、エリザベータはギルベルトの横を通り抜けた。シカトかよ!?と背後で喚くギルベルトをさらに無視し、ずんずんと歩みを進める。馬鹿に構う時間も体力ももったいない。
職員室で担任に日誌を渡して帰ろうとしたとき、ドア近くで数学教師に呼び止められた。
「悪いんだけど、このノート教室に持ってってくれないか?」
教師が指差した先には、今日の授業終わりに集めたノート、クラス全員分がそこにあった。今日の落ち込み要因その三の頼みを何故私が。エリザベータは胸中で毒づきつつも、一応教師には優等生を保っている手前、断ることもできずに分かりましたと笑ってみせた。
ノートを教室に運び終えたときには、いつもの下校時刻から四十分は越していた。ついでに雨は止んでいない。
ビニール傘をどこかで買うにしても、濡れるのは避けられないだろう。ならばいっそ、このまま帰ろうと思った。風邪を引いたって構わない。むしろそのほうが学校を休める。
覚悟を決め、鞄を掴んで階段を降りた。しかし、昇降口に立っていた人影に足が止まる。
「…何してんの」
ギルベルトが、そこにいた。
「………」
ギルベルトはエリザベータに気が付くと、寄りかかっていた壁から離れて鞄を肩にかけ直した。こちらを見ているが、目は合わない。
何、なんなの?
「……俺、チャリだからさあ、」
「…は?」
「っだから!俺今日チャリで来ちまったから傘させねーんだよ!おまえに貸してやる!」
「……はあ、なんで」
眉をしかめてみせると、ギルベルトはエリザベータよりも数段深く眉間に皺を寄せた。
「おまえどうせ傘持ってねぇんだろ、俺様が貸してやるからありがたく使え!」
「あんたは?」
「だーかーらー!俺はチャリで帰んだよ!」
「雨降ってんのに?」
「明日の朝めんどくせぇ」
ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いたギルベルトは、しかめっ面をしてはいるが頬が赤く、格好がついていなかった。
「ずっと私待ってたわけ」
「ち…違っ」
「その言い訳もずっと考えてたの?」
「ちっっっげぇよ!!勘違いすんなクソ馬鹿ゴリラ女!!」
小学生か。
耳まで真っ赤なギルベルトを見ていたら、とたんに笑いが込み上げてきた。ぷっと噴き出したエリザベータに、ギルベルトは目を丸くする。
エリザベータは心なしかさっきまでのもやもやが少しだけ、小さくなっているのを感じた。そして、あることを思いついた。
「ね、私も乗せてよ」
「わ、ちょっ!転ぶ転ぶ転ぶってば!安全運転しなさいよ馬鹿!!」
「うるせぇ!!痩せろ!!」
「私の体重関係ないでしょ!あんたの筋力よ!」
「うるせぇうるせぇー!!つーかおまえちゃんと傘させよ!俺めちゃくちゃ雨当たってんぞ!」
自転車に二人乗り、ついでに傘さし運転。道路交通法違反もいいとこだ。わあわあぎゃあぎゃあ叫びながら、自転車は雨の坂道を下ってゆく。
こんなの初めてだ。
十人中十人が顔をしかめるような、目に見えた馬鹿をしていると我ながら思いつつも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。ああ今、自分は紛れもなく馬鹿だな、とだけ思った。生産性も、意味も、意義も、将来役に立つ何かも、まるでない。ただ、今、自分は呼吸をしていると実感する。それが心地よかった。エリザベータが感じていたのは、未来への漠然とした焦燥だったのかもしれない。
はためくギルベルトのワイシャツを傘を持っていないほうの手で掴み、ありったけの声で叫んだ。
「あーーーーーーーっ!!!!!!もーーー!!!!!!」
突然の行動に驚いたのか、ギルベルトはちらりと肩越しにエリザベータを見た。前見て、危ない、とエリザベータが叫ぶと、すぐに前に向き直ってペダルをさらに漕いだ。
「おまえさあ!」
雨と風の音に掻き消されまいと、ギルベルトは声を張り上げた。何よ!!とエリザベータも負けじと返す。
「最近元気ねーじゃん!!何あったか知んねーけど、らしくねーからやめろよな!!」
「そんなことないわよ!!」
「…まー違うならいーけど!!何かおまえがヘコんでっと調子狂うからさあ!!」
「…何で?」
「っあー、何でもない!やっぱいい!!気にすんな忘れろ!!」
エリザベータは口を閉じて、自分の顔のすぐ近くで風になびく銀髪を見上げる。雨に濡れて、きらきら輝いていた。きゅ、と胸が締め付けられるような感覚がした。
思い切って傘を手放した。向かい風に煽られたそれは、綺麗な放物線と共に自転車から離れていった。雨粒が容赦なく顔に降りかかってくる。
「あっ、てめぇ馬鹿、ふざけんな!!」
「いーのいーの!!パーっといこうぜ!!」
似合わない男言葉を使ってみた。一瞬遅れてギルベルトは笑い出した。つられて笑うと、笑い声の連鎖が起きる。二人で馬鹿みたいに笑いながら、途中から何が面白いのか分からなくなっても笑いながら、風を切って進む自転車に身を預けた。
「…あのさ、」
「んー?」
「明日晴れたらまた一緒に帰ろうぜ」
「……いいけど」
「そしたらさあ、……まあいいや、これは明日言う!」
「何よそれ!?」
ひとつの甘い予感が心臓をくすぐる。雨でびしょびしょの髪を顔からよけて、ギルベルトのワイシャツを掴み直した。この予感が正しければ、代わり映えのしない日常は確実に打開されるはずだ。
「明日まで待っとけ!!」
明日は晴れるだろうか。
綺麗な放物線を描く、馬鹿みたいにとんでもなく大きな虹が出るといい。