秒針が時を刻む音は、こんなにも大きくはっきりとしていただろうか。耳元で大きな時計が時を刻むように、脳裏にこびり付いて離れない。
廊下に備え付けられたソファに腰を下ろし、手首に鈍色に光った時計に目をやる。ベッドから分娩台に切り替えてから、かれこれもう三時間は経った。なまえの希望で立ち会いはしないことにした、が。これは――
「なかなか、クるな……」
仮に中にいたところで自分に出来ることなんてたかが知れている。だからこうして今、廊下で待っている現状も、何ら変わりは無いはずなのにどうしようもない無力感に襲われる。じっとりと嫌な汗が背中を伝ったのがわかった。
組んだ指を祈るように額に当てても、足を組み直しても、時計の針が早く過ぎ去ることもなければ、産声が聞こえてくることも決してなかった。
スケジュールは前々から完璧に空けていた。その為に少し無理を押したところがないとは言い切れないが、自分としてもメンバーとしてもキャパを超える様なことはありえなかった。立ち会うにしろ立ち会わないにしろ、どのみち病院には来るつもりだった。
まさかこんなにも持て余すとは思ってもいなかったが。
八ヶ月頃のある時に、バースプランを提出することになり、立ち会い出産にするかどうかを二人で話し合う機会があった。押さえた部屋はLDRで、立ち会い出産も可能だった。俺自身はどちらでも構わないと思っていた。それはもちろんどうでもいいとかそういう意味合いではなく、なまえの希望に極力沿いたいと思っていたからだ。
「あのね……」
「どうした?」
「立ち会いのこと、色々考えたんだけど……」
「なまえの好きなようにしたらいい、俺はそれに従う」
どこか心許なさそうに、俺の隣に座るなまえ。二人どころか三人で座ってもソファには余裕があるというのに、意識してかは知らないがオレのすぐ近く――それこそ肌が触れ合うくらいの距離に座ってくるのが、なんとも愛らしかった。
どんな状況であってもなまえを支えたいと思っていた。なまえが心細いのならば、最後まで付き添う覚悟は十分にあった。
「みんなのお話とか色々聞いたんだけど、その……」
「ああ」
「立ち会い、……しないで欲しいの」
「……そうか」
少し意外だった。口には中々出さないが、心細さや寂しさが割とすぐに行動に現れるタイプだったから、てっきり最後まで付き添って欲しいとでも言うと思っていた。
「理由、聞かないの?」
「なまえが決めたことなら、と言いたいが。……まあ少しは、気になるな」
少し言いづらそうに視線を逸らして、「笑わないでよ?」と前置きをする。まるで親の顔色を伺う子供のような顔をしていた。考え事をするときのなまえの指遊びに、いつの間にか付き合わされているオレの手に、ずいぶんとなまえに甘くなったものだと心の中で呆れた。「笑わないから」と促すように頬に手を添えると猫のようにすり寄ってきた。
「立ち会いしたら、その、奥さんのこと……」
「……クッ」
吹き出さずに堪えた自分を我ながら褒めてやりたいところだったが、どうやらなまえにとっては違うらしい。これでも笑った範疇に入ってしまうのか、「笑わないって言ったのに!」と赤らんだ顔のまま俺の肩を叩いた。ああ、もう。
「奥様には随分と甘く見られたものだな」
「え?」
「つまり俺が、お前を女として見られなくなると思った訳か」
「べ、別にシエルのこと疑ってるとか、そういう訳じゃなくて……! その、なんというか……」
「……冗談だ」
先ほどとは打って変わって慌てた様子で否定の言葉を紡ぐ小さな唇にキスを落とす。するとなまえは風船の空気が抜けたように、途端に小さくなった。
「どんななまえを見ても、お前を愛しているという事実が変わることはない」
「……ありがと、う?」
「でも、お前が嫌なら立ち会いじゃなくてもいいさ」
あの時はいじらしいことを言うなまえに対して「可愛いことを言うやつだ」なんて思っていたが、そんなことを考えていた自分に、立ち会いじゃなくても構わないと言った自分に、頼むからもう一度考え直せと言いたい気分だった。
いくら考えたって戻れない過去のことを、こんな風に考えるような自分だっただろうか。
「……情けないな」
完璧に準備をしてきた。覚悟も決めたつもりだった。
でも重石のように心の底に溜まっているこれは、言いようのない不安だ。目の前に立ち籠める仄暗さを、晴らす術を今の俺は持たない。ずっと自分の庇護下で大切にしてきた。なまえ本人には気付かれないように危険から遠ざけて、先回りをして不安を取り除いてきた。
本陣痛が始まってから十九時間。思っていたよりもゆっくりと進行した陣痛に、微弱陣痛が疑われた。何時まで続くのかわからない痛みと不安に段々と消耗していくなまえと、それに伴ってか弱まっていく陣痛を見かねた医師から、促進剤の使用にサインを求められた。なまえに確認を取って同意書にサインをし、それから分娩台で二時間と少し。
なかなか全開口にならない様子に不安げななまえは、「ごめん」と声にならないような泣き声を繰り返した。絡め合った指先が血の気を失って白くなるほどに、強く手を握られた。「苦しいよね……っ、ごめんね……」とお腹の子供に振り絞るように溢した言葉は、なまえ自身を責めているようにも、奮い立たせているようにも聞こえた。
守ってやっているつもりで、いつの間にか独り立ちしていたのだと悟るまでに、そう時間はかからなかった。
さっきのなまえと同じように、組んだ指が血の気を失って、手の甲には爪が食い込んだ。神に祈るようなタチではないと思っていたが、もうなまえと産まれてくる子供が無事ならば、何にだって祈ってやるという気持ちだった。
先の見えないトンネルに、戸惑っているのはきっとなまえの方なのに、自分が酷く情けなかった。病院の白さに気が滅入って、憎らしくなるほどに。常に生き死にを静かに湛えている、病院特有のほんのりとした暗さが、じわじわと浸食してくるようだった。
緊張の糸が、張り詰めて途切れそうだった。
部屋の中は相変わらず慌ただしい気配だけを壁越しに伝えた。助産師のなまえを励ます声や、足音がうっすらとだが聞こえてきた。固く瞑った目の奥、不安げな顔のなまえが浮かんでは消える。俯いた首筋に、汗が伝った。
一瞬が永遠になるとは、まさにこのことだと思った。
「旦那さん、無事に産まれました。女の子ですよ」
部屋の扉が静かに開いて、看護師が廊下に顔を出し、室内へ入るように促される。ガチガチに凝り固まっていた不安が、氷が溶けていくように徐々に解きほぐされる。ゆっくりとソファから腰を上げた。
処置を行っている最中の室内はまだ少しの喧噪に包まれていた。汗で髪の毛が貼り付いたままのなまえの額をそっと拭ってやる。「お疲れ様」と声をかけると、入ってきた俺に今まさに気付いたという様子で、乾いた唇が「ありがとう」と掠れた声を漏らした。
産まれたばかりの未だ青白い身体が助産師の手によって綺麗に拭われていく。まだ上がらない産声に、大仕事を終えたばかりのなまえの顔は不安げだった。
「羊水詰まってるかもしれないから、吸引しちゃおうね」
吸引器を挿れられ、口の中に詰まったものを吸引される。「これで呼吸が楽になるからね」と助産師が声をかけたのは産まれた子にだけじゃない気がした。なまえと俺にも、言い聞かせているようだった。その直後に部屋中に響き渡った産声に、なまえが安堵の息を漏らしたのがわかった。
「元気な産声ですよ、もしかしたら今日一番かも」
そう言うと助産師はなまえの胸元へとその小さな身体を横たえた。泣き声でその身体が大きく動いて、ちゃんと呼吸をしているのが見て取れる。産まれたばかりの頃にはまだ青白かった身体も、呼吸をし始めてからは仄かに赤く染まり始めていた。手足は段々と活発に動くようになり、首をもたげて胸元を探るその力強さに、一気に身体の力が抜けた。
我が子を撫でるなまえの手は緊張の糸が切れたのか少し震えていたが、優しく慈しむようだった。その顔は確かに母親の顔をしていた。今のなまえになら、少し格好悪い部分を見せてもいいような気がした。
「……気が気じゃ、なかった」
「ごめんね、ありがとう……」
「次は絶対に、必ず、立ち会いにするからな……!」
少しだけ眉を下げて笑うなまえの頬を撫でる。出産前よりもだいぶやつれた。少しだけ目を伏せて、「わたしも不安だったから、次はいてもらおうかな」と小さく漏らす。
横で書類を書いていた看護師が「旦那さん、すごく心配してましたもんね」と笑う。子供っぽいと笑われたって構わない。なまえと生まれて来たこの命が健やかであるならば。
いつの間にか空は白んで、ブラインドの向こうからかすかに差し込む光が眩しかった。
Because I need you.
(俺には君が必要だと言うこと、十分わかって頂けたでしょうか?)
母親の素肌の上で行われるカンガルーケアは、母子の愛着形成や体温、呼吸の安定、新生児の体重増加に効果があるとされている。なまえの胸の上で健やかな呼吸を繰り返す様子に、確かに効果があるのかもな、なんて考えていた。
「変わらないんだねえ……同じ体温してるんだ」
こうしみじみ話すなまえは、その体温を分け合うようにして子供の背中をさすっていた。それに倣ってそっと頭を撫でてやると、小さなあくびを漏らした。
「そうだ、旦那さんもやってみます?」
カンガルーケア。そう笑顔で助産師は言い放った。
「いや、俺は……」
「滅多にないんだから!」
押しの強そうな助産師に追い詰められる。助けを求めるようになまえを見ると、産後とは思えない輝く笑顔をしていた。おい、まさか。
「パパにもだっこ、して欲しいなあ。……脱いじゃおっか?」
「おい、ちょっと待て、……おい!」
どこから取り出したのかカメラを構えると、「写真って撮っても大丈夫ですよね?」と看護師に確認を取っている。「もちろんOKですよ、むしろ撮りますか?」などと暢気に答える看護師に、子供を預けるとにじり寄ってくるなまえ。産後の嫁の頼みは断るなだの、妊娠している間のことを嫁は絶対忘れないだの、口うるさい先人たちの言葉がめまぐるしく頭をよぎる。こうなったらもう。
「……っ、好きにしろ」
個室から廊下に漏れるくらいの歓声が上がった。
;)20161203