「チッ……うぜェ」


 相変わらずに外苑近くの道はバカみたいに混んでやがる。平日だって言うのに246は全くといって良いほど動かない。ずらりと並んだテールランプに苛立つ気持ちをハンドルにぶつけてみても、動かないモンは動かねえ。差し込んでくる西日にすら苛立って来た。
 一人で車に乗っていると気が滅入る。いつも隣から聞こえてくるはずの声が、今日はしないから。舌打ちを咎める声も、なければないで空しかった。


「今何時だよ……」


 左手首の時計に目をやると、針は15時46分を指していた。最後に連絡が入ってからもう5時間は経っている。朝からちょっといつもと違っていた、と後出しのように電話口で話すなまえに対して怒りたい気持ちをぐっと堪えて、今日の仕事断る、と言おうとした時、まるでオレがそう言うとわかっていたかのようにこう言った。

『大丈夫だから、お仕事してきて?』

 なまえの大丈夫が本当は大丈夫じゃないってことくらい、もうとっくに気付いてる。いつも大丈夫だから、いいからと言いながら、オレのいないところで一人で泣く。昔からそうだ。我慢はアイツの悪癖だ。今回だってきっとオレが家を出るまで、仕事に向かうまで我慢してたに決まってる。電話口の声は、少しだけ震えていたように思えた。


「クソが……!」


 なんでいつも一人で抱えるんだ、誰かを頼れよ。オレを、頼れよ。そう言えたら苦労なんてしないし、アイツをあそこまで泣かせてねえ。

 あのときだって、そうだった。






 新曲のリリースに向けて予定が立て込んだ。レコーディングが終わればブックレットやらジャケ写、PVの撮影まで立て続けにやるハメになった。次のツアーのパンフのイメージにも合っているから、楽曲の世界観を重視したいから、統一性を持たせる為にいっぺんに撮りたいという撮影チームの要望を汲んだらこのザマだ。
 世界観がどうとか、ロケーションがどうとか、正直あんまり興味がねェ。オレが作りたい曲を、聴かせたい歌を、オレは最高の状態で歌うだけだし、ソレをどう受け取るかはwarms次第、好きにしたらいいって思ってる。
 そう乗り気じゃなかった長期の撮影を終えて、なまえの元へと電話をかける。思い返せばこの撮影の間、全く連絡を取ってなかったことに気がついた。耳元にスマホを当て、歩きながらアイツが出るのを待った。事務所に一度寄れと言われていた気がしなくもないが、そんなことはもうどうでもよかった。考える頭の片隅で鳴っている、呼び出しのコールがやけに長く感じた。

『……もしもし』
「出るの遅せェよ、今どこ?」
『家だけど……』
「今から行く」

 電話口で少し口ごもるなまえの声がする。普段だったらもっと電話出るの早いだろ、とか、普段だったらもっと嬉しそうにすんだろ、とか、些細なことでも苛立つ。なんでオレがこんなに振りまわされなきゃいけねェんだよ。

「……何? 今日都合悪い?」
『都合悪い、わけじゃないけど……』

 はっきりとしない口ぶりに思わず舌打ちをした。少し遠くから、鼻をすするような音が聞こえた。

「オレに会うの嫌なわけ?」
『……今は、嫌』

 は? 何言ってんだ。それ以上は何も言わないなまえに更に苛立ちが募る。電話口でぐずぐずと泣くだけのなまえに、今から行くからぜってェ動くな、とだけ伝えて電話を切った。


「……何なんだよッ!」



 鞄のどこかに入れっぱなしにしてある合い鍵を探しながらエレベーターのボタンを叩き付けるように押した。扉の開閉するスピードにすら苛立つ。鞄を漁る指先からじりじりと焦燥感に焼かれているようだった。お揃いで付けようと無理矢理付けられたイチゴのキーホルダーが、これを付けていたときのなまえの笑顔を思い出させて、変な苛立たしさを感じた。それは自分に対してなのかアイツに対してなのかわからなかった。
 勢いのまま鍵穴に合い鍵を挿し、ガチャリと音を立てて鍵を開ける。ノブに手をかけ一気に引くと、予想外の位置で扉が止まって、大きな音が廊下に響いた。


「ンだよこれ……!」
「……会いたくないって、言った」

 少しだけ開いた扉の先、ドアロックの向こう側からか細く震える声がした。

「いいから開けろって」
「帰って……」

 こんな状態で帰れるかよ、と食い下がる。思わず出そうになった舌打ちを飲み込んだ。なまえの涙声が更に酷くなって、しゃがみ込んだのか扉の向こう、下の方から声がする。今まで泣かせたことは死ぬほどあれども、会いたくないと拒絶されたことなど一度もなかった。苛立ちよりも焦りがどんどん膨らんで、声が少しだけ震えた。

「……帰ってくるところ、間違えてるんじゃ、ない」
「……は?」
「面倒くさいって、思ってるんだったら、……もういいよ」
「何言って……」
「わたし、もう、待つの……疲れた」

 ぽつりぽつりと呟くように漏らした。それきり、ただなまえの泣く声だけが廊下に小さく響いた。何を言っているのか、何が言いたいのか、話が全く読めねェ。

「……言ってる意味が、わかんねェんだけど」
「……コレ」

 隙間から何かが差し出される。廊下に投げ置かれたそれによく目をこらすと見えてきた、下世話な週刊誌に眉を顰める。表紙に書かれた見出しの文字を見た瞬間、4日ほど前に広報が寄越した電話を思い出した。

『あ?ンだよその女、知らねェ』
『事実じゃないなら構わないんですが……』
『とにかく今忙しいから切るわ、じゃーな』

 撮影が終わったら事務所に寄れと言われていた原因が、コレだったことに気が付いた。“深夜の密会・お台場デート”なんて訳のわからない見出しが躍っているのが、更に苛立たせる。そしてそれ以上に、こんなバカみたいな飛ばし記事を信じているなまえに一番腹が立った。

「オイ、こんなデタラメ信じんのかよ」
「…………」
「こんな女覚えてもいねェし――」
「……わたしのこと、ほんとに必要?」
「なんで、そんなこと」
「何にも、言ってくれないから……いっつも不安で、怖くなる」

 堰を切ったようになまえの口から溢れ出る言葉は、今まで押し込めていた反動のように止められなかった。
 連絡取れなくなったり、会いたいのにそれすらも言えない。そう思ったら急に連絡してきて、都合の良い時だけ呼び出されて。淋しくて死にそうなときだってある。わたしだって会いたい時に会いたい。都合の良い女なんだって、別に本当はどうでもいいって言われるのが怖くて、わたしが我慢すればいいんだってずっと思ってた。
 嗚咽混じりに、時々胸が詰まったように苦しげに言った。暫くしてから、少し嘲笑ったような声色で続けた。


「連絡来るたび、今から来いって言われるたび、わかってるのに嬉しくて、ほんと……馬鹿みたい」


 言葉で伝えなくてもわかるって、いつもそう思ってた。今だってまだ、少しはそう思ってる。でもそれは、なまえがオレを解かろうと一生懸命に歩み寄ってくれていたからだ。今のなまえには、そう思える余裕なんてない。オレがそうさせた。オレの今までの行動が、発言が、あらゆる行為の積み重ねが、今、なまえにそうさせている。
 口に出さなくても、伝わることはある。でも、それと同じように、口に出さないと、伝わらないこともある。

「なまえ以外の女に、興味なんてねェよ」
「…………」
「初めて会った時から、いや、初めてアンタを見た時から、もう他のヤツらなんてどうでもよくなった。なまえさえいれば、あとはもう、いい。どうでもいい」
「嘘だ、よ……」
「嘘吐くわけねェだろ……!」

 焦れったい。何より今まで一度だって口にしたことのないなまえへの気持ちを、どう表現したらいいのかまるでわからなかった。扉の奥で、なまえはどんな顔をしているのか、想像がつかない。こんなにもアイツのことを、知らなかっただろうか。

「アンタがいないと調子、狂う……。なあ、顔見せてくれよ」
「……っ、や」
「……好きだ、何もかもどうでもよくなるくらい。なまえがいないと……」
「……っ」
「愛して、る。嘘みたいに聞こえるかも、しんねェけど……」


――キィッ


 ノブがそっと引かれる。扉が閉まる。そりゃそうだ、今更何を言ったところで、それはきっと取り繕った言葉にしか聞こえない。なまえに甘えていたツケだ。まさか今ここで払わされるとは思わなかったけど。頭を抱えてしゃがみ込んだ先、靴の頭が目に入る。ガラにもなく汚れた爪先が、虚しかった。
 ふと扉の向こうが動いた気がした。もうとっくに玄関を離れたと思っていたなまえの気配がする。声を押し殺して泣く、いつものあの癖だ。
 鍵の閉められた音がしていないことに気が付いた。ノブに再びかけた手が情けないくらいに震える。時間にすれば僅か数秒の躊躇。一秒が永遠になったようだった。

――ガチャリ

 ドアロックは解除されていた。扉をそっと開けると、すぐ側でしゃがみ込むなまえが目に入った。頭を膝に埋めるようにして、小さく丸まっていた。腿の裏に回された細い腕と、肩が震えているのがわかった。ああ、今まで一体何回、こんななまえを見てきたんだろう。
 手首を掴んで立たせると、顔を見られたくないのか、俯いた前髪の奥はよく見えなかった。掴んだ手首が熱い。オレの手が熱いのか、なまえが熱いのかもうわからなかった。小さな身体に腕を回して、抱きしめる。少しだけ抵抗の色を見せたなまえの頬に左手を添えると、涙で滲んだ目元が見えた。

「顔、ちゃんと見せて」
「……っ、やだぁ」

 眉根が寄って、目の端にはまた新しく涙が浮かんでくる。目元に唇を寄せると、少しだけなまえの肩が跳ねた。もう片方の瞳から、重力に従って涙が落ちる。

「もう、こんなコトで泣かせたりしねェから、だから……」

 初めて見た時から、オレだけのモノにしたかった。ずっと言えなかった。笑ってる顔も、拗ねたような顔も、困った顔も怒った顔も、全部愛おしい。でも、泣いている顔は、それだけは、どうしていいのかわからなくなる。最早ここが玄関先だとか、扉も閉めていないだとか、そんなことはもうどうでもよかった。


「結婚、してくれ」
「……え?」
「もうこんなコト書かせねェ。オレにはなまえしかいないって、伝えさせて」
「……信じて、いいの?」


 やっと合った目は、悲しみの中に戸惑いと驚きが入り交じって混沌としていた。抱きしめた身体は小さく震えていた。持て余すように彷徨っていたなまえの手が、そっとオレの背中へと回った。遠慮がちななまえの動作を上書きするように、腰に回した腕をさらにきつくした。
 躊躇していた手は縋り付くようにオレの背中を掻き抱いて、赤く腫れた瞳はゆっくりと閉じられた。目尻の涙がそっとこぼれ落ちて、オレの左手を濡らした。

「信じて。……なまえの全部が欲しい」

 閉じた瞼、頬、鼻の頭。順に唇を落としていく。どこも涙の味がした。親指で優しく、涙で濡れた唇を拭うと、伏せられていた瞼を瞬かせてオレの目を見た。その瞳は熱っぽく――それが涙を流したせいなのか、それとも別の意味を持つのかわからなかったが――絡んで、身長差を埋めるように少し背伸びをしながら、再び伏せられた。
 子供みたいに何度も触れては離れる唇の合間に、くすぐったそうに涙声のままのなまえが笑う。腕の中で笑うその顔がまた見られるという事実に、情けないくらい泣きそうだった。誤魔化すように、そして今まで伝えられなかった気持ちの代わりに、次に重ねた唇は離れなかった。





 16時38分。病室のドアを開けると、部屋の白さに目がチカチカした。眉を顰めて、心の中だけで舌打ちをする。後ろ手でドアを閉めると、ガラにもなく、ほんの少しだけ鼓動が早くなるのを感じた。本当に自分なのかと疑うくらい静かにドアを閉めていたのが、少し笑えた。


「寝てんのか……」


 ベッドの中央、微かに上下する胸元になまえが眠っていることを察する。汗をかいたのか、いつもはふんわりとしている栗色の髪が、ぺったりと張り付いているようだった。その手前には、新生児用のベビーベッドが置いてある。自分でも信じられないくらいにそっと、足を踏み出した。
 ベッドを覗き込むと影が落ちた。それでも尚真っ白なシーツの中、まだ目の開いていない、小さな小さな顔が目に入った。なまえよりいくらか速い呼吸に、ああ、本当に産まれたんだと思った。こんなに小さな身体でも、ちゃんとオレたちの元へ。
 まだほんの産毛程度にしか髪の毛の生えていない頭を、恐る恐る撫でる。頭の丸みに、手のひらが余るくらいだった。それでも変わらない体温に、少し驚く。

「……オレらと、変わりねェんだな」

 顔も小さければ手だって小さかった。呼吸とは違ってゆったりと、空を掴むように指が動いているのが見えた。開ききってもほんの5センチくらいしかないその手に、そっと指を差し伸べると、まるでそうと決まっていたかのように、そこにあるべきもののように握りしめた。身体の小ささに反して、力強く、確かに握られたその指から、言いようのない感情が溢れるのを感じだ。


 愛おしさだ、としか表現できない。


 これ以上に何を足しても、どんな言葉で飾り立てても、どう足掻いたってそれはきっとありきたりで陳腐な表現にしかならねェ。そしてなにより、生まれたてのこの姿に飾った言葉なんて必要ない気がした。穏やかな寝息を立てる子供と、なまえに目をやる。大きな窓から光が入って、照らされる横顔が尚の事愛おしかった。自分にはまるで縁がないと思っていた光景が、今目の前にあることが不思議だった。
 起こさないように小さな手をそっと解くと、足は自然となまえの方へと向かった。近づいていくほどに、その横顔――特に目元からは色濃く疲労が見て取れた。よく、一人で。


「……頑張ったんだな、お疲れ」


 昔からよく泣く女だった。付き合い始めたときも、結婚するときも、良い意味でも悪い意味でもよく泣いた。オレの言葉足らずの勘違いで泣かせ、すれ違いで泣いた。会いたいなら会いたいって言えといつも言っているのに、我慢しては一人で泣くような女だった。でも、今までの『大丈夫』と、今日の『大丈夫』は違う気がした。
 今まではきっと、なまえの我慢で成り立っていた『大丈夫』だった。自分が我慢すれば大丈夫、不安になるのは当たり前のことだから大丈夫。そうやって自分に言い聞かせているようだった。
 今日は、まるでオレに言って聞かせるみたいだった。自分に言い聞かせるんじゃなく、オレを安心させるためだった。一人で我慢するんじゃなく、一人で頑張ってみせるという宣言だったのかもしれない。オレと一緒になってくれて、一人でも大丈夫だと、背中を押してくれて。
 照らし出される横顔に、長い睫毛の影が伸びている。あのときと同じように、それ以上に優しく触れる自分の左手。そこに当たり前の様に収まる指輪が、本当は当たり前なんかじゃないってオレに訴えかける。なまえがいて、子供がいて、オレの側にいてくれる。それはきっと奇跡みたいな出来事で、なまえのおかげで続いている。
 いつだって大切なことを、言わなきゃいけないことを面と向かっては言えないオレに出来る、唯一の表現がコレだから。


「……ありがとう」


 未だ面と向かってはなかなか言えない気持ちを、眠っているなまえへとそっと伝えた。これを知ったら、ずるいと言いながら拗ねるのだろうか、きっとそうに決まってる。オレから顔を背けて拗ねていることをアピールしながらも、決して部屋を出て行ったりすることはなかったなまえを思い出す。オレが出て行こうとすると、慌てたように追いかけてくるその姿が脳裏によぎって口角が緩む。
 いつか素直に伝えられるようになるんだろうか。なれないような気がするけれど、それならそれで行動で伝えよう。じんわりと熱が伝わってくる左手、親指で目元にうっすらと浮かんだ隈を撫でた。

 その白い顔にそっと影を落として、重ねた。





20161123




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