半年前に、妹が生まれた。おれは一番上のお兄ちゃんになって、悠音は二番目のお兄ちゃんになった。妹の名前は杏珠。あんじゅって、フランス語で天使って意味なんだって、父さんが言ってた。妹が生まれる前、父さんは母さんにないしょでおれと悠音を集めてこう言った。


「これから妹が生まれるけど、女の子は、大切な人は、自分で守れるようにならないとダメだ。もちろん父さんだって、そうだし、頑張るけど、父さんが仕事でいないとき、母さんが困ってるとき、魁音や悠音が妹や母さんを助けてあげられるようになってほしい」


 こういうことを言う父さんのことを、母さんは少し恥ずかしがるけど、おれは父さんのこういうところが好きだし、かっこいいと思う。最近なんだか恥ずかしくて、パパ、って呼ばなくなったおれに合わせてくれるのも嬉しかった。隣に座って話を聞いている悠音は、まだなんのことだかよくわかっていなかったみたいだけど、おれはこのとき、父さんみたいな大人になりたいって思った。


 なのに。


――ガチャリ


 玄関の開く音がすると、母さんは何をしていても必ず父さんを迎えに行く。悠音はもううとうとしていて、おれだけ少し遅れて着いて行くと、母さんをぎゅっとして、『充電』してるところだった。父さんは母さんと一緒にいられないと電池が切れるっていつも言う。母さんをぎゅっとして、ほっぺにちゅーをして、母さんが恥ずかしそうに笑うのを、父さんは嬉しそうな顔で見てる。父さんはずーっと母さんに恋してる、って言うけど、母さんだって同じくらい、父さんに恋してる、とおれは思う。
 それからしばらくして、父さんはおれの頭をぐしゃぐしゃに混ぜるみたいに撫でて「ただいま」って笑った。四日ぶりに見た実物の父さんだった。なにかの撮影で遠くへ行っていたらしい父さんは、疲れてるはずなのに疲れてなんかないみたいに、リビングの扉を開けた。


「ただいま、杏珠」


 おれにかけた『ただいま』とは違う音でもう眠っている杏珠に話しかける。おれのは、なんかちょっと力強くて、ちゃんとやってたか? とか、母さんを困らせてないか? とか、そういうことを聞いているみたいなのに、杏珠にかける声は、ただ、優しい。
 杏珠が生まれる前にみんなで出かけたとき、帰り道でおれたちが寝てしまったあと、父さんはいつもとは違って、母さんを母さんって呼ばなかった。おれは本当は寝てなくて、ただうとうとしていただけだったけど、寝ていると思っていた父さんは、助手席の母さんを『なまえ』って呼んでいた。母さんはやっぱり少し恥ずかしそうに、でもそれよりずっと嬉しそうに返事をしていた。
 その時の声と、なんだか似てるような気がした。

「杏珠に、新しいぬいぐるみ。かわいいだろ?」
「またそうやって……。いつも甘やかすんだから」

 杏珠の周りには、くまに、犬に、それに猫。たくさんのぬいぐるみが置いてある。全部ぜーんぶ、父さんが買ってきた。なんでか猫が多いけど、この間なんて杏珠と同じ体重の猫のぬいぐるみを作ってもらって、母さんに呆れられていた。悠音なんかは喜んで、杏珠と一緒にその大きな猫で遊んでいた。
 その母さんは父さんのお風呂の準備をしてて、ちょっとだけ文句を言って困ったような顔をしていた。杏珠の枕元に置かれた猫のお腹から、チリンと鈴の音がした。

「杏珠が生まれてからいつもこうだもん……」
「……寂しい?」

 ひとりごとのつもりだったのに、母さんに聞かれてた。恥ずかしさといろんな気持ちがごちゃまぜになって、母さんから少し目をそらしてしか返事ができなかった。

「……別に、そんなんじゃない」
「そう? ねえ、このあとちょっとだけ、昔話しようか」
「なんで?」
「……なんでも」

 母さんはいたずらっぽく笑って、ビデオがたくさんしまってある棚へ向かう。おれたちの運動会に、発表会、それに父さんのライブのビデオ。うちには本当にたくさんのビデオがある。友達に聞いたら、そんなにたくさんないよって言われた。会えないときも寂しくないようにって、母さんも父さんもよくビデオを撮る。前に一番古いビデオってなに? と聞いたら、父さんが高校生の頃のって言われた。父さんはそのビデオだけは見たがらない。「下手クソすぎ」っていつも言うけど、母さんは「高校生のパパ、可愛いのにね」って笑っていた。
 おっきくてふかふかのお気に入りのソファに母さんと一緒に座ると、さっきまでうとうとしていたはずの悠音がおれの隣に少し寄りかかるように座ってくる。「なにするの?」と聞く声は眠たそうでゆったりしていた。母さんの隣はなんとなく譲りたくなくて、少しだけ間をつめると母さんは笑っておれの頭を撫でた。

「杏珠が生まれて、魁音も悠音もいっぱいお手伝いしてくれてるから、今日はトクベツに夜ふかししよっか?」
「いいの?」
「うん、今日はいいよ」
「ほんとぉ?」
「ママは嘘つかないもの」

 悠音が舌っ足らずな声で尋ねると、クスクス笑いながら母さんは答える。テレビを点けて、ビデオをセットすると、いつも見るテレビよりちょっとだけザラザラした感じの映像が流れた。『ちゃんと映るのかなー?』と言う少しだけ高い声がする。母さんの声だ、となんとなくわかった。それから少しして、『もう回してる』と聞こえてくる。

「これパパ?」
「そうだよ。昔のママとパパ」

 画面の中の母さんの髪は、今よりも長くて、ちょっとだけ懐かしくなった。杏珠が生まれる前に、長い髪を切っていたから、おれの知ってる昔の母さんみたいで。

「ねえ、これいつの母さん?」
「悠音が生まれるずっと前。魁音がまだお腹にいた頃だよ」
「おにいちゃんがうまれる前?」
「うん。その頃からこんなにビデオが増えたんだよ」

 そうして母さんは昔話を始めた。父さんの車が二人しか乗れないやつだった頃の話(今は六人も乗れるのに)。父さんと行った水族館のデートのこと。父さんと母さんが結婚したときのこと。お友達の中で一番におれを産んだこと。おれが産まれるまでの毎日について、ビデオから流れる音と一緒に思い出すみたいに、この日はこんなに空が晴れていたとか、この日は実は父さんが仕事でいなくて、ビデオの後でいっぱい泣いたとか、なんでそんなに覚えているんだろうってくらい、いっぱいいっぱいおれたちに話して聞かせた。そしてひとしきり話した後は、「パパがいなくて泣いたこと、パパにはナイショね? ずーっと昔のことなのにきっと心配するから」と小指を立てた。おれたちは小指を絡めて心配性の父さんのことを小さく笑った。

「もうずいぶんお腹が大きくなったね」
「もうすぐおにいちゃんうまれるの?」
「うん、この後生まれたんだよ」
「父さんは?」
「うーん。この時ねえ、パパとっても大事なお仕事だったの」

 懐かしそうに言う母さんの顔は、どこか遠くを見ていた。おれが生まれたとき、父さんは仕事でいなかったんだ。なんとなくもやっとして、画面の中にいない父さんをちょっとだけ睨んだ。

「ママはパパのお仕事の邪魔だけは絶対にしたくなかったから、お仕事のお見送りした後に、おばあちゃんに電話して、一緒に病院に行ったの。それでお医者さんに診てもらって、一旦落ち着いた頃にパパに電話したの」
「……パパなんて?」

 そのときを思い出しているのか、ちょっとおかしそうに母さんが笑う。

「ママはもう落ち着いて、よし、一人で頑張るぞー! って感じだったんだけどね、パパったら、すっごい慌てちゃって『今すぐ病院行く!』って聞かないのよ。」
「ママはこわくなかったの?」
「うーん。怖いって言うよりも、なんだろうなぁ……。早く会いたい! って思ってた。だからパパがお仕事頑張ってくれたら、ママも頑張れそうだなあって感じだったのかなあ。とにかくパパはお仕事終わらせて来てって言って、おばあちゃんについていてもらって、魁音が産まれたの」

 さっきのビデオの後であんなに泣いたのが嘘みたいに、すっごく強気だった! と母さんは笑った。それで、パパは? と尋ねる悠音に答える母さんの顔は、なんだかすごく嬉しそうで、少し不思議に思った。

「パパねえ、もう少しお仕事の時間かかるかな? って思ってたんだけど、すごい速さでお仕事終わらせて、走ってきてくれたの。髪の毛もぐちゃぐちゃで、汗びっしょりかいて。多分お仕事でしてたお化粧、落としてなかったと思う。それで、パパがママのいる病室に着いて、なんて言ったと思う?」

 またいたずらっぽく母さんは笑った。悠音はもう頭がうまく回らないのか、なんていったの? としきりに聞いている。おれもなんだか想像がつかなくて、わからない、と正直に言った。


「なーんにも言わなかった」
「……え?」


 どういうこと? 目だけで問いかけると、母さんはまた嬉しそうにして続けた。


「正しく言うと、なんにも言えなかったんだよね。病室のドア開けてママと魁音を見たら、泣き出しちゃって。ドアも開けっ放して、びっくりするくらいに泣いて、ひとしきり泣いた後、真っ赤な目のまんま『ありがとう』って」

「魁音に会わせてくれて、ありがとうって。あとにも先にも、パパがあんなに泣いたの、初めて見たからびっくりしちゃった。」


――キィッ


 お風呂から上がった父さんがリビングに入ってくる。髪の毛がまだ少し濡れていて、いつもかっこ良くきめてるときとはちがってぺちゃんこだ。ねえ、おれが生まれた時も、こんなふうになるくらい、走ってきてくれたの?

「悠音、まだ起きてるのか」
「もう眠くなっちゃったかな?」
「寝かせてくる」
「……ありがと」

 悠音を抱き上げて、おれたちの部屋にゆっくりと歩いて行く。悠音を起こさないように、ゆっくりと。

「あともう一個、パパの秘密教えてあげようか?」
「なに?」
「本当はね、明日帰ってくる予定だったの。無理言って今日の夜に帰れるようにお仕事してきたんだって」
「……なんで?」

 もうお兄ちゃんなのに、小さい頃みたいになんで? どうして? が多くなる。だって父さんが、何考えてるのかよくわからないんだもん。

「明日だと、魁音も悠音もお家出た後になっちゃうから。今日の夜なら、まだ起きてる二人に会えるかもしれないからって、急いで帰ってきたんだって」

 杏珠のことばっかり、気にしてるわけじゃないのよ? って母さんはほっぺに手を添えて言う。母さんには何でもお見通しなんだ。鼻の奥のほうがツンとなって、かっこ悪いくらいに泣きそうになった。
 また父さんがリビングに戻ってくる。ソファのところへ来ると、「何見てるんだ?」って言いながら、母さんの後ろ側からぎゅっとするみたいにして座ろうとする。「魁音が生まれる頃のビデオ」と答えながら母さんは自然に父さんの場所を開ける。なんだかおれも、父さんのそばに座りたくなった。

「ん? どうした」
「……今日はここがいい」
「そうか」
「今日はちょっと甘えん坊なんだもんね?」

 母さんの言葉を、そんなんじゃないと否定しようとしたら、それよりもずっと先に父さんの大きな手がおれの頭を撫でた。この手に撫でられると、なんだかどうでもよくなっちゃって、そんなおれを見て父さんは少し笑った。

「父さんがいない間、魁音がすごく頑張ってくれたって母さんから聞いた」
「……えっ?」
「お兄ちゃんだから、って色々手伝ってくれたんだろ? よく頑張ったな」

 どうして父さんは、いつもおれが言ってほしいことを言ってくれるんだろう。そっか、さっき言った通り、おれのこと、ちゃんと見てくれてるからだ。どうしたって父さんは強くてかっこいい。そんな父さんと約束したから、お兄ちゃんだから、いっぱい頑張った。一番上のお兄ちゃんなんだからって。ねえ、でも、お兄ちゃんだけど、甘えたいときだってあるよ。


「……っおれ、パパみたいになりたい」
「もうパパって呼ばないんじゃなかったのか?」
「今日だけ、とくべつ」
「そうか、特別なら仕方ないな」
「うん……」


 パパに抱きついて、泣いてる自分の顔を隠した。仕方ないって笑いながら、パパはおれもママも一緒にぎゅっと抱きしめた。ママがまた嬉しそうに笑ってる声が聞こえるけど、なんだか世界がぼんやり見えて、笑ってる顔はよく見えなかった。


「パパみたいになりたいなら、その泣き虫も直さないとな」
「自分だってすっごく泣いたくせに」
「一番大事なときだったらいいんだよ」


 パパとママが笑う声が頭の上から聴こえる。

『一番大事なとき』

 またどうしようもなく嬉しくなった。



(おれは)(わたしは)(オレは)
世界一のシアワセモノ




『……っ、なまえ!』
『レオ、早かった、ね…………どうしたの?』
『いや、……っ、ごめ、違うっ…………なんか』
『うん』


 病室のドアが開いて、肩で息をするレオが入ってきた。と思ったら、ドアを閉める手も忘れて、零れ落ちそうなくらいに目を見開いていた。いつもセットしてる髪の毛もぐちゃぐちゃ、汗もびっしょりかいて、衣装は……流石に着替えているけど、メイクはたぶんそのまんま。こんなに慌てているところ見たことない、と少し笑っていると、その見開かれた目からぼろぼろっと涙が零れた。


『えっ? レオ?』
『生まれた、んだ……って思ったら、その』
『うん』
『安心、……っ、して』
『……っ、うん』
『ありがとう……この子に、出会わせてくれて』
『……もう、泣きすぎだよ……っ』


 またぼろぼろと泣くレオを見た時、きっと優しいパパになるって確信した。つられてわたしまで目の奥が熱くなる。早くこの子を抱いて欲しかった。

『ねえ、抱いてあげて?』
『うん……』

 そっと抱き上げる腕は、緊張していてぎこちなかった。それでも、とびっきり優しい腕をしていた。体重のすべてがレオの腕にかかったとき、小さく息を呑む音が聴こえた。

『こんなに、小さいんだな……』
『うん、こんなに小さいのに頑張ってくれたよ』
『でも、すごく、……重い』


 命の重みを噛みしめるみたいに、呟く。ああ、本当に。


『レオと結婚して、よかった』


 もっとたくさん伝えたいことがあるはずなのに、上手く言葉にできないなあ。伝えたいと逸る気持ちと、まだぼーっとする頭が上手く噛み合わなくて、二人で産まれたばかりのこの子を抱きしめて、何を言うでもなくただただ泣いた。なまえ、と呼ぶ柔らかい声がする。伏せていた目を上げると、濡れた睫毛に縁取られた灰色の目が近付く。おでこに、涙の溜まった目尻に、鼻の頭に。そして最後に唇同士が触れ合って、体温が混ざり溶けていく。


 二人の体温を分け合ったこの子が、レオみたいに優しい人に育てばいい、と思った。



20161114


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