子供が出来た時、浮かんだ選択肢は2つ。ありのまま伝えるか。このままなかったことにするか。このままなかったことにしても良いかな、とさえ思えたのは、いつだってモモが自分自身に怯えていたから。
 昔からわたしをわざと振りまわすような人だった。でもそれは単にわたしを試しているだけなのだと気付くのに時間はそうかからなかった。自分の言動を何処まで許すのか、自分を受け入れてくれる人間は誰なのか、いつも周囲に神経を尖らせているようだった。そして時々そんな自分に疲れているようにも見えた。人を許せない自分と、そんな自分を赦せない自分。誰かと特別深く関わることで、本当のモモを晒すことを恐れていた。本当のモモを否定されることも。



 子供が出来た、と言われた時、まるで他人事のようになまえを見ていた。普段からぼやっとしているから子供と言うのが意外だな、赤ちゃんとでも言いそうなもんなのにな、なんて考えていた。開く口が、それに伴って動く筋肉が少し強張っていて、唇がうっすらと震えているのがわかった。しばらく間を置いた後に、思った以上にか細く漏れた「どうしよう、か」に、いよいよ自分が当事者であると肩を叩かれたようだった。
 まさか選択を迫られるとは思わなかった。昔から言外ににじませてきた。ただでさえ周囲と深く関わることが嫌いだった自分に、いつだって察しよく接してきたのはなまえだった。理不尽に振りまわしてもただ困った顔をしながら、決してオレが嫌がることはしなかった。なのに、なんで。



 子供が出来たと、ありのままに伝えた。思ったより反応が小さかったのは、きっとわたしが産みたいなんて言うはずがないと思っているからだとすぐにわかった。だからこそ、次の一言を言うのが怖かった。そう思っているだろう、という推定よりもずっと、本人の口から出る断定は重い。それでも、それでも伝えたかったのは、本当に好きな人の、モモの子供だったから。涙が出るほどに嬉しかったから。わたしの好きな人を、もっともっと好きになって欲しかった。彼自身にも例外ではなく、自分なんか、なんて思って欲しくなかった。だからこそ、言わなきゃいけない。


 無理、だ。父親になんてなれっこない。だって、何を言っているんだ。オレの子供であることは間違いないだろう。でも、オレが、父親に? そんなものなれるはずない。いつだって自分を偽って、面倒なことを避けて押しつけて。その方が過ごしやすいからだって言い聞かせてきたけど、本当はもう気付いてる。本当の自分を拒絶されることが、否定されることが怖かったからだ。
 家族に別段思い入れがあるわけでもなかった。むしろ良い思い出なんてなかった。だからこそ普通がわからない。家族からの愛情や思い出で人が育つというのなら、ナリだけ大きくなったオレはまるでブリキの人形だ。普通じゃない自分に育てられるなんて、それこそあまりにも悲惨だ。正面、なまえの白い喉がかすかに動く、次の言葉を聞くのが、こんなにも怖いと思ったことはなかった。

 「なかったことに、しようかとも思った」その口から零れた声はさっきよりもずっとはっきりと届いたし、震えてもいなかった。無理だって言うとなんとなくわかってた、そう言ったなまえの眉はよく見慣れた、ちょっと困ったような形を作った。なかった、ことに。二人の子供を堕ろして、なかったことに、今まで通りにオレの隣で笑えると思っていたのか。無理にでも笑うつもりだったのか。でもね、と続ける彼女の声はさっきとは一変して、途端に涙声になった。でも決して言い澱んだり、誤魔化したりはしなかった。


 「でもね、心臓が動いてたの」


 そんなの無理だって言うだろうと薄々感じていた。家族の話題が出たことは一度もない。本当に、ただの一度も。意図せずに避けられるような話題ではない。話題にのぼらせないということは、家族と確執があるのだろうということはなんとなくわかっていた。そのことで、無意識に他人と線引きをしていることも、二人の将来のことをあまり考えたがらないのだということも気付いていた。
 おめでたですね、と伝えた女医の言葉に思わず涙が零れた時、わたしは何を思って、どんな気持ちで泣いたんだろう。大丈夫ですよ、怖がらないでいいんですとわたしの肩をそっと抱いて女医が言った、あの言葉を否定するようにかぶりを振った。これから先のことが不安だったんじゃない。二人の関係がどうなるのか怖かったんじゃない。実感もなにもあったものじゃないのに、確かに命が宿っていた。わたしの身体に、大好きな人との命が。それがどうしようもなく嬉しかったから、あのときも今も、泣きそうなんだ。



 「このままの関係でもいいかなって思ってた。でも、まだ形なんてわからないのに、全然人の形をしてないのに、心音が聞こえますよって先生が言うの。生きてるんだ、って思った。わたしの中で、確かに生きてるんだって。そう思ったらね、怖いとか、どうしようとか、そういうのよりもずっとずっと、嬉しいって思った。ねえ、本当に大好きな人の子供を産みたいって思うのは、わたしのエゴかなあ」


 こんなどうしようもない男の子供を、どうして今生の宝物のように慈しむことができるのか。それはきっと彼女が、何もかもを含めて、愛してしまっているのだ、オレという人間を、どうしようもないくらいに。
 面倒だからじゃない、煩わしいからじゃない。言いようもないくらいに怖いのだ、オレは、ボクは。正しく愛された記憶もないのに、正しくなまえを愛せているのかもわからないのに、壊れ物よりもずっと壊れやすい繊細な命を、自分の子供を、正しく愛せるのだろうか。自分のような業を背負わせてしまわないだろうか。喉がやたらと渇く。気道が張り付いているのかと思うほど、一言目を発するまでに時間がかかった。でも、一言、怖いと漏らしたら、後はもう溢れ出る言葉を止める術を持たなかった。溢れ落ちた声は情けないくらいに掠れていて、酷く泣きそうな声色をしていた。



 「怖い、んだ。逃げてるって思う、わかってる。でも、怖い。今でもちゃんと出来てるのかわからない、し。オレに、オレなんかに−−」


 人生を、命を預けて良いのか。そう言おうとした瞬間、俯きがちだった瞳が確かにオレの瞳を捉えて遮るように言った。


「なんか、って言わないで。わたしの大切な人を。過去なんて、なくっても良い。ただ、一緒に、これから先ずっと一緒にいたいだけだよ」


 モモの愛し方が少しずれているのはわかっていた。それでも、わたしは愛されていると感じていた。ずれていようがいまいが、わたしがそう感じたら、それは正しい愛し方なんだ。自分を認めて欲しかった。そしてそんな不器用な愛し方を少しでも良いから自分自身にも向けて欲しかった。不器用に、少しずつ、それでいいし、それがいい。


「子供が生まれる時に、パパもママも一緒に生まれるんだよ。みんな始めはそうなんだよ。二人でなら、きっと大丈夫」


 暫く間を開けた後に「ううん、」と小さくかぶりを振って、「二人一緒じゃなきゃ、きっと出来ない」視線を絡めてそう言った。話を始めてからしばらくの間なまえの瞳を縁取っていた煌めきが、重力に従うようにそっと零れ落ちた。何故だかその涙の粒が、勿体なく思えた。そして何よりも愛おしいと思った。
 そっと彼女の頬に触れる、自分の指先が震えているのを感じる。流れ落ちた涙の跡が熱いのか、自分の指が酷く冷えているのか、わからないくらいに頭の中はごちゃごちゃだった。自然と引き寄せ合うように、どちらからともなく背に手が回った。いつもと変わらないはずなのに、確かに違う彼女の身体に、こわごわと力を入れる。少しずつ、ゆっくりと確かめるように。なんだ、自分にも出来るじゃないか、と思ったら、こみ上げる熱を止めることはもう出来なかった。涙を流したのは何年ぶりだろう、と子供時代を思い起こす。仄暗い気持ちが蘇るけど、きっと、大丈夫。二人で一緒にこれからを作っていけば良い。


 子供のようにとはいかなかったけれど、少しだけ、ほんの少しだけ嗚咽を溢して泣いた。


伝えたい五文字



(嗚呼、オレは)(ボクは貴女を)(愛している)


20161026




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