例えば鬱陶しく垂れ伸びた前髪を何時まで経っても切らないこととか。







ノートに向かうとそっと影が落ちる。わたしのものではなく、斜め前、窓際の席から伸びた影。気にすることなくノートに向かわなくちゃ。次の授業で当たるというのに予習もしていない、しかも苦手な数学。これだから早い出席番号は嫌なんだ、と自分をひっそりと呪う。今日は九日で、わたしは九番。





耳にかけておいたはずの前髪がはらり、はらりと落ちてくる。額の縁をなぞるようにして耳にそっとかけたとしても、またしばらくすれば、はらり。集中力を削ぐ光に透けた濃い茶色は、視界の端をふらふらとして、その奥にほんのりと窓辺が見えてくる。かつてこの茶色越しに差し込んだ光は、もっと優しさを孕んだ橙をしていて、それがまるで遥かに昔のことのように思い返される。







彼の指がわたしの額にそっと触れ、耳の後ろをくすぐるようにして離れていったのはいつだったか。わたしがまだ窓辺の席に座っていた頃のように思える。放課後にわたしが日誌を書いていたとき、ほんのわずかばかりの会遇だった。





あのときだって九日だった。日直だった彼の、相手の子が欠席をして、運悪く出席番号が九番だったわたしは彼と一緒に日直をすることになった。本当に最低限の関わりしかなかったように思える。しかし人当たりの良い彼のことだ、その僅かばかりの時間の中で、わたしに特別な感情を抱かせるには十分過ぎる時間だった。彼は手際よく仕事をこなした。しかしそれをわたしに覚らせず、わたしが気付いた時にはもう、簡単な仕事しか残されていなかった。そうしていくうちに放課後になりあとは軽い教室の片付けと日誌を書くだけとなった。そんな時も自然に、俺が黒板をやるよ、と立ち上がった。俺の方が上の方も届くから、と言い放った高校生男子の平均身長を超えるその身長を見やって、ああ、気を遣ってくれたのだな、と思った。



黒板を消すと、どうしたってチョークの粉が舞う。制服に付くその粉を厄介がる女子は多い。彼はそのことを知っていて、わざわざわたしの選択肢からその作業を消したのだ。そのことを覚らせないように、背が高いからともっともらしい理由を付けて。



そこからは自然と沈黙が続いたが、それは厭な沈黙ではなかった。お互いが作業に向き合う音だけが互いの間に静かに流れて、その様すらも作業に真摯に向き合うように感じられたのだろう、当時のわたしの単純さに少し笑えた。あとは集中して日誌を書くだけだった。しばらくすると手をはたく様な音が聞こえて、黒板を消し終わったのだな、と思った。その後すぐに人が動く気配がして、だけれどもわたしは顔を上げなかった。むしろ日誌を早く終わらせようと少し俯きがちになったそのとき、はらりと視界を遮る影があった。







前髪が落ちやすいんだね、と一言放ち、息をするかのように自然に、わたしの髪を耳にかけた。当然のことであるかのようにやってのけたその右手を凝視するしかわたしには出来なくて、ほんの、ほんの数秒だけわたしに触れていたそれは、すぐにわたしの元を離れていった。目、悪くなるよ。とだけ微笑んだ彼に対して、そんなことないよ、と視線を落としがちに漏らすのが精一杯だった。









茶色い庇の向こう側を見てはいけない。







そう思ったってはらはらと揺れる庇の奥、二人の影が嫌でも目に付く。ちらちらと離れないのだ。



彼の、わたしの髪をそっと持ち上げた右手が、わたしより少し明るくて、癖のある髪の毛をわたしの時と同じようにそっと耳にかけたとき、ああ、同じなんかじゃない、何もかもが違うと気付いた。





額の縁をなぞるようにして下がっていく指先は、そっと一房の前髪を捉えて、耳の後ろをくすぐり上げるようにして前髪を落ち着かせた。そしてわたしのときはすぐに離れていったあの、男にしては厭に綺麗で、どことなく女性を感じさせすらする指は、離れがたそうに桃色の頬を撫でてからあるべき場所へと戻っていった。





息をするようにああいったことをするのは確かだった。それでも誰に対してもそうであるわけではなかった。愛おしそうに、壊れ物を扱うように。触る直前には躊躇いさえも感じさせたくせに、離れるときには淋しそうに離れていったのだった。





鬱陶しく伸びた前髪を、何時まで経っても切れないのは、あの日のことを忘れられないから?それともこの光景を、目の当たりにしたくないから?どちらも正解だった。どちらも間違いだと、言いたかった。













厭に目に付くのだ、あの席は。








201401026



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