「せんせ、三上せんせー」
「んだよ、集中しろ」
「せんせーって彼女いないの?」
「……なんでだよ」
「だってこんな時もあたしの補習付き合ってくれてるから」
「……いねぇよ」
「ほんとに!?嘘だぁ!」
「嘘吐いてどうすんだよ。いいから集中しろ」



 どうしてお前はこんなにも、女の声をして、女の姿形で、女の香りをさせて、俺の前に現れるんだろうか。どうしてあんなことを聞いたりするのだろうか。俺はこんなにもお前のことを想っているのに。


 どうして俺とお前は、講師と生徒なんだろうか。





「(はぁ、)」



 時給がいいからと始めた塾講師、自分の得意科目だけ教えてればそれでいいと言われて始めてみたが、どうにもこの時期になると、入試が近づいてきた生徒たちの焦りが、見えないプレッシャーとなって俺たちへと降りかかってきて気が滅入る。そういえば俺にもこんなことがあった、と自分の過去を振り返る。受験期はみんな渋沢の取り合いをしてたな……なんて、今となっては、日本の若き守護神、なんて呼ばれている旧友を思い浮かべる。ふと通りかかった教室の電気がまだ付いていた。もうこの時間帯に講義は入っていないはずだ、と思って教室を覗くと、見慣れた少し茶色い頭が見えた。みょうじなまえだ。



「……いつまでやってんだ?」
「!三上せんせー」
「もう時間も時間だろ、早く帰れ」
「あとちょっと、この問題解んなくて……」
「どれ、お前生物受験すんの?」
「え、あ、はい。てかせんせー生物出来るの?」
「俺も生物受験だったし」
「え、そうなの!」



 生き物系ダメだと思った!なんて言っているみょうじを余所に(何気に失礼なことを言っている。)問題を見る。本当はみょうじが生物受験かなんて知ってる。だけどそれを言わずにいたのは、みょうじの反応を見たかったのと、少しでも会話を長引かせようとしたからだ。



「あー、これなら生物Tでやったろ?浸透圧の実験、それの応用」
「え、こんなのありました?」
「……お前さ、」



 まるで初めての問題だとでも言うかのような顔をしてきたから、プリントの余白に簡単な図式をして、説明を始めた。飲みこみは早い方だったから、その場で説明されれば問題を解くのに時間はそうかからない。



「んで、こうだろ?」
「あー!なんかやったことあるような!」
「あとはやり方解るだろ」



 じゃあもう帰れ。そう言おうとしたら、みょうじは思い出したかのように、身を乗り出してきた。普段の授業もこれくらいの関心をもって臨めば、あんなところで躓かなかっただろうに。



「ねぇ。せんせーってまだ、彼女いないの?」
「……いねぇよ」
「えー、何で?」
「俺が知りてぇよ」
「うわぁ、絶対自分のこと格好いいって思ってるよ」
「思ってねぇよ、ほら早く帰れ」
「じゃあさ、」
「あ?」
「あたしが第一志望受かったら、彼女になってあげようか」
「……んで上から目線なんだよ」
「さ、帰ろうかなー。肉まん買って帰ろ!」
「……太んぞ」



 女の子にそんなこと!なんて騒ぎながら、帰る準備をするみょうじ。俺がどう思っているかなんて知らずに、思わせぶりな態度を取る。無邪気に笑うその瞳を、自分のモノだけにしたいと考えているなんて、知らずに。





 今日は、朝から寒かった。空にはもやがかかっていて、あぁ、電車に影響は出るのだろうか、と考えた。センター試験の二日目は、塾講総出で受験生の相談に対応する予定になっている。センターの自己採結果で、受ける大学を変更するなんて生徒がざらだからだ。いつも通りに家を出る準備をする。玄関を開けたとき、ふとみょうじは大丈夫だろうか、と考えた。二日目だからって緊張の糸がゆるんで、受験票忘れたりしそうだな。

 事務室で溜まった作業をしながら待機していると、次々と生徒が来る。自分が懇意にしている講師や、自分の行きたい学科出身の講師を呼んで、相談室へと消えていく。かく言う俺も、二人ほどの相談を受けたが、どちらの生徒もさほど問題のない程度だったので、受験校の変更はなかった。


 研究室の課題もやらねぇと。自分のスケジュールを思い出しながらデスクに向かっていると、また生徒がやってくる足音がする。




――ガラッ




「……っ三上せんせー!」
「……どした」



 ドアを開けたのはみょうじだった。今にも泣きそうな顔をして、事務室に飛び込んできた。今ここで泣かれても困るから、とりあえず空いている相談室に連れて行って話を聞く。席に着くと堪えきれない嗚咽を漏らした。あぁ、これはダメだったか。



「っ自己採、したら。」
「……」
「数UB、ダメで……」
「ん、」
「せっかくせんせ、に教えて貰ったのに……」
「そんで、お前は諦めんのか?」
「っ……や、だ」



 意志だけは、誰よりも強かった。入りたての頃は数TAですら私大模試のランキングに入らなかった。誰しもが無謀だと言った、こんな成績では結果は目に見えていると。それでも諦めなかった、スポーツ医学で食べていくと、誓ったあの目は強かった。だから背中を押してやったんだ、全国制覇を本気で夢みた、あの仲間達と同じ目をしていたから。



「……国立ダメでも、私立あんだろ」
「でも、お金が……」
「子供が金の心配なんかしてんじゃねぇよ。親御さんだって精一杯尽くした結果が私立だって構わねぇって言ってる。T大医療科学志望だったよな、あっちが国立ってふまえて考えると、……K大看護医療が妥当か」
「……」
「まだ、気にしてんのか」
「違くて、……不安で」
「……、俺が数学教えたんだ。堂々と胸張ってろ」
「っ、やっぱりせんせ、自分のこと、格好いいって思ってる」


 最後は無理矢理に笑っていた。近年国立大志望の受験生が増えていると言っても、私立K大のネームバリューは衰えを知らない。やはり気圧されているのだろう。珍しく弱音を吐く姿は、いつものみょうじとは違っていた。でもあとの時間で出来ることは限られている。今から知識を詰め込むのはあまりにも無謀だ、自分を信じることしか、できないのだ。弱気でいることが何よりのウィークポイントだ。みょうじはそれを知っている、だから俺に笑って見せた。





 今頃は、合格発表だろうか。2月の頭の空はどんよりと重く、厚い雲が覆っている。どうかみょうじの結果だけは、晴れやかなものになっていてくれ、と願ったところでどうなるかなんて解りやしない。10時からの合格発表はもうとうに過ぎているはずなのに、一向に連絡が来ない。一体何をしているんだ。作業をしながらも目線はキーを叩く手、というか手首に集中していて、まったく作業がはかどらない。自分の時計を気にして、事務室の時計を確認する。意味もなく携帯を開け閉めしたり、今日の俺は大分挙動不審だと思う、自分でも。



――ガラッ!



「せんせ!」



 扉が開いて、嬉しそうなみょうじの顔が覗く。このバカが、連絡しろって言っただろ。走ってきたのであろう、頬はこの寒さの中赤く上気していて、運動不足の体が悲鳴を上げている(ように見えた)。必要な書類を持って、あの日と同じ相談室に入る。



「合、格してた!ちゃん、とあたしの番号、あったよ!」
「(センターだめだったってあんなに泣いてたクセにな……)」



 書類を広げながら昔を思い返す。数学なんて最初は散々だったのに、結局数UBはアレで大丈夫だったのかよ。素直に喜んでやりたい気持ちと、もうこの予備校に来ることはないだろう、という寂しさが入り交じった何とも言えない気持ちに駆られる。あぁ、報われねぇな、本当に。まさかアイツらも、俺がこんな女子高生ごときに振り回されて頭抱えてるなんて、思いも寄らないだろうに。


 ふとみょうじの手が止まっていることに気付く。そういや記入の説明ちゃんとしてなかったな。



「どした、わかんねぇとこあるか?」
「……せんせ、あたし合格したよ」
「……あぁ」



 あぁ、合格した。もうここに来る理由もない。知ってるだろうか、みょうじの授業の水曜だけ、少し楽しそうだと指摘されたことを。”あのクラス物分かりいいんで”なんて言ってごまかしていたことを。



「第一じゃなかったけど、あたし頑張ったよね」
「あぁ」



 あぁ、頑張っていた。それこそ朝から晩まで、休みの日も足繁く自習室に通って、解らないところはどんなに時間がかかっても諦めることはなかった。知っているだろうか、いつからか俺は、そんなみょうじを見ていたことを。もっと解りやすいようにと、ガラにもなく先輩にアドバイスを受けに行ったことを。



「ね、せんせ。あたしさ、」
「……なんだよ」



 知っているだろうか、俺は今、この講師と生徒という枠をぶち壊してしまいたいと思っていることを。



「……もう生徒じゃ、ないんだよ?」
「……、言ってること解ってんのか」
「解ってる」
「チッ、後悔しても、知らねぇぞ」
「しないよ、後悔なんて」



 俺は、知らなかった。みょうじが、なまえが俺と同じように、枠を壊したいと思っていたことを。そしてその枠を壊す強さがあることを。



「覚悟しとけよ、なまえ」



 何か言おうとしたなまえを遮るように口づけた。











「あ、お前知らないかもしれないけど、俺もK大だから」
「え、は!?」
「俺、K大の理工学部」
「嘘!」
「嘘吐いてどうすんだよ」



:)20101224
20110910改





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