卒業式が終わった。卒業生として花道を通って退場する時、周りからはすすり泣くような細い声が終始聞こえていた。それは卒業生たちのものとも在校生たちのものともつかなかった。ひとつひとつの小さく漏れる声が重なり合って、厳かな雰囲気で進んでいた式典が、一気に切なくて愛おしい存在に変わった。あの大柄な野球部の前田くんですら、熱くなる目頭を押さえて、懸命に涙をこらえているものだから少しびっくりした。


 なんとなく、と言うろくでもない理由で地域で一番の進学校に進学することになった。そしてそこは、それと同時に都内で随一の進学校でもあった。ほんとうに選んだ理由なんてない。模試でそこが適正校だったから、そんなものだ。クラスメイトはすごいともてはやしたし、担任や学年主任もよくやった、とわたしを褒めた。でもそれだけだ。わたしが得たものといえば、合格祝いに、と両親からもらった少し良い、値の張る腕時計と、気が早いけれど、と言って祖父母がよこした入学祝い金だけだった。



「つまんないの、」



 呟いた声は、天井の高い図書室を反響して、ゆっくりと本たちに吸い込まれていった。お気に入りの図書室は、中学校の施設のわりに広くてあまり人が寄り付かないから好きだった。じっとりと重たいような空気も、古い本独特の匂いも好きだった。図書委員でもあったわたしは、こっそりと資料室の鍵を拝借して、そこに誰が置いたのかはもうわからない、くすんだワインレッドの革張りソファに凭れるのだ。鍵がなくなったって、教師はなんにも咎めやしない。優等生のみょうじなまえが、不注意でなくしてしまったのかもしれない、自分の責任である、と恭しく頭を下げるだけでたいていの教師は納得して、そんなに責任を感じることはない、なんて言ってわたしを許すのだ。なんて簡単なんだろう、と思った。


 たいていのことは、この外に対してだけは品行方正な性格と、可もなく不可もなく、程度の容姿で乗り切ってきた。外ヅラだけは誰よりも良くて、僻まれるほど抜群な容姿でもなく、疎まれるほど酷い容姿でもなく。人生ベリーイージー。何が山あり谷あり、だ。



「センパイ、いるんでしょ?」



 こいつがいなければ。



「返事より先に開けるの、やめてもらえます?」
「大したことなんてしてないのに?」



 すかした様に笑ったこいつは後輩のはずなのに、敬語なんてものはどこへいったのやら。そういえば初対面だったあのときも、なんだかんだ敬語なんて使っていなかったような気がした。



「敬語使いなさいよ、け・い・ご」
「センパイにはそんなの必要ないと思って」
「優等生の郭英士くんが聞いて呆れるわー」
「それはお互い様でしょ、成績優秀のみょうじなまえセンパイ」



 なんて生意気な口を叩く。でもそれが嫌じゃないのは、クラスでも学年でも、何とはなしに一線を引いたような関係性を保ち続けてしまったからだろうか。こんな関係を持つ相手なんていなかったから新鮮なんだ。その線を引いてしまったのはもちろんわたしだった。けれどその線をずかずかと越えてきたのは郭だった。


 自分を傷つけないための線引き。これ以上近づいてほしくないと身を引いたのはわたしだった。無難な話で向こうには絶対に踏み込まず、面倒事はなるべく避けた。教師とも当たり障りなく、だから志望校だってわたしが決めたものじゃない。教師との確執を避けるために、あの高校を提案されたときに断らなかった。そうしてくうちに、だんだんと人と関わることが面倒になった。人を避けるのが上手くなった。


 そう思っていたのに、郭は土足でわたしのテリトリーに入ってきた。今年度の図書委員会最初の会合で、何とはなしに郭を書記に指名した、ほんとうに他意はなかった。たまたま目についたから。解散した後の雑務中、二人きりの資料室で大胆にも郭はこう言い放った。



『いつもそんな風にしててよく疲れないね』



 それはまるで、昼休みに遊び呆ける同級生にでも洩らすかのように自然に紡がれた。作業を止めて振り向くと、新しいおもちゃを見つけたような意地の悪い笑みを浮かべた郭が立っていた。わたしは追いつかない頭でなんとなく、あの優等生の郭英士がこんな顔をするなんて意外だなあ、などと考えていた。そのせいで少し返答に遅れ、なんだか中途半端に言葉を濁したのを覚えている。それからずっとこんな先輩も後輩もないような関係を続けている。


 郭を書記に指名したのは、もしかしたら偶然なんかじゃなかったのかもしれない。知らず知らずのうちに自分と同じようなものを感じ取ったのかもしれない。教師受けよく過ごして好成績を残し、問題行動になるようなことは一切ない。教師の手を煩わせることなく過ごす郭が、自分と似ていると思ったんだ。



「センパイ?」
「あ、ごめん何?」
「めずらしいね、ぼーっとして」
「いろいろ思い出してただけよ」
「センチメンタル?」



 からかうように笑う郭を、いつからか心地よくも感じるようになった。ゆるくカーブを描く口元は、学校生活ではなかなか見せない表情。そんなんじゃない、と軽くはぐらかしながら、資料室を見渡した。卒業式では実感なんてかけらも湧かなかったけれど、こうしたやり取りをすることももうないのか、と考えたら、さっきまでは全く実感がなかった卒業という文字がぱっと迫ってきたような気がした。



「センパイ、」
「何?」
「I高行くんでしょ?」
「……そうだよ」
「ふぅん」



 自分で訊ねた割には、興味がなさそうな返事をした。高校に行ったら、わたしはどうなってしまうのだろう。自分の意志がない進学で、何を得られるというのだろうか。無駄にしか思えなかったこの3年間のように、また零れ落ちる時間を他人事のように眺めるだけなのだろうか。自分のことなのに、自分のことではないようだ。そんなふうに思っている自分に、少しぞっとした。



「センパイ」
「……」



 今日はやけにつっかかってくるな、と思った。いつもだったら各々好きなことをして過ごしているのに、言葉を交わさない日だってあったというのに。なんとなく、返事は返さなかった、返せなかった。



「変わるかどうかは、センパイ次第だけど。」
「……うん」
「待ってるよ、」
「……え?」
「センパイが変わるの、待ってる」



 そうちいさく零すと、郭はすっと立ち上がって資料室の重たい扉に手をかけた。何年も油をさしていないような軋んだ音が鳴った。扉の悲鳴だった。そうしてそのあとゆっくりと振り向くと、初めて話したあの日と同じように、意地悪く笑ってこう言った。



「だから、高校で、また逢いましょう?」





 2月の冷たい風が骨身に染みる。頬に当たってはチリチリとはじけて、息をするのも苦しい。学校指定のジャージにさして防寒性なんてなくて、裾から入ってくる風に身を縮めるばかりだった。



「あと何週ー?」
「しらなーい」



 体育のマラソン、ダラダラと走っているから寒いのかもしれないけれど、どうしてもやる気なんて起きないものだ。もう何度抜かされたことか、途中から数えることもやめた。まじめとは決して言えない友人と話しながらジョギング程度のスピードで走る。


 自分を偽ることをやめてから、友人と呼ばれる関係を作るのはいとも簡単だった。変なプライドもなければ、重苦しい期待もない。互いに必要だから一緒にいる、ただそれだけ。わたしの少し前をダラダラと走っている、茶色い頭の友人を見る。高校に入ってからすこぶる成績が落ちたという彼女は、やっぱりなんとなくという理由でこの高校に来たけれど、それでもやりたいことを見つけて自分なりのやり方でやっていきたいと笑って言った。大切なことに向き合うときの彼女の真っ直ぐな目や集中力が、とても好きだった。



「あれ?」
「どーしたの?」
「今日合格発表だっけ?」



 そう言って昇降口近くにある掲示板を指差した。ああ、朝のHRでそんなことを言っていたような気がする。あっさりと聞き流してしまった担任の言葉を頭の片隅から拾い上げた。掲示板の前に群がる真っ黒い群衆が、1年前のあの日を思い出させた。


 一年前にうだうだと悩んでいた自分が嘘みたいに、今のわたしは充実していた。誰かの機嫌を窺うことなく、自分の好きなように今を生きている。自分のやりたいことを、わたしだって探している。彼女のように真剣になれるものを。勉強は、頑張ったって1番じゃいられなくなったけど、自分のために精一杯を尽くすことにした。



「1年もすればこんなんなっちゃうのになあー」
「わたしらみたいに失敗しなければ、でしょ?」
「そうだけどね!」



 そう言って笑い、群衆の近くを通り過ぎたときなんとなく校門の方に目が行った。掲示板の前ではまだ、喜びのあまり泣き出す子や、残念な結果に声も出せないような子ばかりだったというのに、もうすでに手続きを済ませたらしい子が立っていた。すっきりとした立ち姿に、学ラン。拍動が早くなるのがわかった、気がした。それは決してマラソンを走っていたからではなくて、彼の姿に見覚えがあったからに違いなかった。きっとわかっていてあそこに立っている、みんなが思っているよりずっと彼は狡い人なんだ。そうしてゆっくりと振り向くんだ。どうしようもなく顔の赤いわたしをからかうかのようなあの意地悪い笑みを浮かべて。



「センパイ、」



 ほら、言ったとおりでしょう?



「また後輩になったよ、なまえセンパイ」








20120312


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