―間もなく、電車が参ります。白線の内側まで下がって……―



 電車の到着を知らせるアナウンスが流れているようだ。ぼんやりした頭では、なんとなくしかその事実を受け止められずにいた。ゆったりとした動作で、足元に置いた少し大きめのかばんを手に取る。電車に、乗らなきゃ。卒業式が終わって2日、余韻に浸る余裕もなしにわたしは生まれ育ったこの町を出る。自分が決めたことなのだ。余韻に浸っていたら、きっと出ていくのがつらくなる、悲しくなる。そしてきっと、出て行きたく、なくなる。自分で選んだ将来のためには、何もかもを犠牲にしなきゃ、それくらいの覚悟で行っても、なれるかなんてわからないのに。


 古びたベンチから立ち上がり、スカートの裾を手で払った。指先は、ジンと冷たく痺れた。今のわたしの気持ちと同じだった。時計を見るためにゆっくりと顔を上げた。もう、電車が来る。そうしたら、この町ともお別れ。戻ってくるのかどうかもわからない。最後にもう一度、この町を目に焼き付けようと振り向いた。昔から変わることのない錆付いた駅看板、狭くて煙草臭い待合室、1つしかない改札口。……その先には、何故か見知った顔があった。



「……なんで?」
「なんで、って……今日だろ?」



 出発、とでも言いた気に首を傾けた。見送りは、全部断ったはずなのに。一番会いたくなかった、一番会いたい人がそこにいた。どうしていつも、結人はこうなんだろう。わたしの本心を見透かすようにして、気付かないうちにアクションを起こす。二人っきりのホームに電車が滑り込んできた。滑り込んできた、と言うほどに滑らかな音ではなかったけれど。わたしを急かすようにけたたましく出発のベルが鳴り響いた。こんなにもつらい電車のベルは、生まれて初めてだった。



「……乗るぞっなまえ!」
「え、ちょっと!!」



 結人がわたしの腕を強引に引っ張って、乗りたくない、わたしを知らない街まで連れて行く電車へと乗せた。見慣れたはずのビニルシートの薄い黄土色をした床や、濃いグリーンのシートがなんだかはじめて見たように感じられて不安になった。電車にも、わたしと結人の二人だけだった。つかまれた腕が熱くて、その熱さがいつもの結人と変わりなくて、泣きそうだった。緩いカーブを描く線路に沿って、電車が体を揺らした。そんな些細なことでも、手に持った荷物が実際のそれ以上に重くて、ふらりとよろけたわたしを見て、結人は座るか、と静かに言った。



「……どこまで?」



 ホームで話した結人より、ずっと落ち着いた声でそう言った。その目はずっと、窓の外を流れる、生まれ育ったわたしたちの町を映し続けていた。



「……新町まで」
「そっから乗り換えんの?」
「うん、」



 この駅から3つ行った新町まで出ると、そこは大きな駅になっていて街へと向かう電車が走っている。鈍行のひたすら同じ輪の上を走るこの電車とサヨナラをすれば、あとはもう、気付いたらわたしは街へと放り出されるだけだ。そう考えるとこの3駅、ほんの10分足らずがとてもかけがえのなくて、二度と手に入らないもののように思えた。


 そんな10分なんて、水が流れるように簡単に過ぎていって、気が付けばもう新町を目前としていた。わたしたちの町とは違う、真新しい駅看板が、冷暖房が入ったきれいなガラス張りの待合室が、人がたくさん行き交う自動改札がやってきてしまう。わたしの知らない風景が。



「……、」
「結人、わたし……」
「、言うなよ」
「……わたしっ」
「なまえっ!」



――ドアが閉まります、閉まるドアにご注意ください……―



「わたしまだ、離れたくないよ……」
「……なまえ」



 わたしを迎え入れるはずだった新町の、きれいで人を寄せ付けないように感じさせる駅が、段々と小さくなってゆく。隣の結人は何も言わない。また、狭い電車に二人ぼっちだ。わたしは電車を降りられなかった、降りる勇気がなかった。俯いて、荷物をぎゅっと抱えて縮こまるしかできなかった。情けなくて涙が出そうだった。早く出ていきたいと思っていた田舎くさいあの町が、こんなにも大切な愛おしいものだったなんて思ってもいなかった。



「なまえ、」
「……」
「時間ある?」
「……うん」
「じゃあ俺に、なまえの時間、24分だけ頂戴」



 24分、この電車が輪になった轍を回って新町まで戻ってくるのにかかる時間、だ。この環状線1周で、気持ちを決めなければいけない。



「1周、ね」
「うん、頂戴」
「……それって、キセルじゃん」




 少し笑ってわたしがこう言い、顔を窺うように下から覗き込むと、いーんだよ、そう言って結人は笑った。いつもと変わらない結人だった、小さいころから見慣れた結人だった。そうして結人はわたしの膝の上から重たい荷物をよけて、子供みたいに窓の外を眺めた。10年以上前から変わらない、わたしたちのちっぽけな町が流れていた。行儀が悪いよ、という私の苦言を無視して、結人はわたしの二の腕を引っ張った。体がぐいっと向きを変える。懐かしい川が流れていた。



「あの川、」
「うん」
「小さいころいっつもあそこで遊んだな」
「そうだね、お母さんには行っちゃダメって言われてたけどね」
「なんか俺いっつも怒られてたかも、なまえのこと連れ出して!って。」



 そうやって引き出しからひとつひとつ思い出を引っ張り出す。いつだって親たちの言いつけを破っては、川へと出かけて生き物を探した、釣りをした、水切りをして日が暮れた。川に行きたいと言ったのはいつだってわたしだったのに、親たちはいつも結人を叱った。理不尽に叱られた結人はいつだって食って掛かって、その度適当にあしらわれるばかりだったけれど、決して結人はわたしを責めたりしなかった。こーゆーのはオトコの役目なの!と言って笑ってわたしの頭を撫でた。


 そうしている間に一駅、二駅と時間は過ぎてゆく。小さな町だけれど、思い出は溢れんばかりに詰まっていた。ひとつひとつの駅に、様々な思い入れがあって、あそこは初めて電車に乗ったときの駅だ、とか、家出をしようとしてお金の限界だったのがほんのあそこまでの駅だった、とか思い出したらキリがないほどだった。一度紐解いてしまった思い出は、止め処なく溢れた。当たり前だ、わたしが18年間育ってきたこの町には、わたしの人生が詰まっている。




「ここ、わたしが初めて発表会したところ……」



 初めてのピアノの発表会。今思えばただの市民会館だけど、子供から見たらとてつもなく大きなホールでの演奏。先生は何度も大丈夫よ、と言ってくれたし、両親だって繰り返す拙い演奏をいつまでも聞いていてくれた。それでもまだたったの6歳だったわたしにとって、初めての演奏会はとてつもなく重くのしかかった。これがまだ自我の育っている途中の3・4歳くらいだったらなにも感じず楽しく演奏できたのかもしれないけれど、自我が芽生えて恥をかくことを嫌い始めたわたしにとって、発表会は絶対にミスをしてはいけないような、自分を試される場だった。



「あんときのなまえ、ありえないくらい緊張してたなー」
「……、そうだね」
「覚えてる?」
「覚えてるよ」



 ずっと、覚えている。誰がどうしたって解けなかったわたしの緊張を、ゆるりとほどいてくれたのは結人だった。いつまでも緊張してそわそわしていたわたしの楽譜を横から奪って、赤のクレヨンで大きく『なまえならだいじょぶ!』と書いて見せた。いつだって目に入るように、結人が見守っていることがわかるように。幼いわたしたちにそんな考えなんてなかっただろうし、これは完全な後付けだけれど、そう思ってここまでやってきた。今でもそのときの楽譜は、大事にファイリングしてあって、この大きなかばんの中に仕舞ってある。そっとかばんの上に手を置く、ファイルを開かなくっても、目を瞑るだけでも思い出せる、結人の今も変わらない丸い字。大きくなってしまった“よ”も、バランスの悪いぶきっちょな“ぶ”も、ざらつく油っぽいクレヨンの肌触りも、すべてが鮮明に思い出された。


 涙が出そうなのはきっと、車内がやけに埃っぽいから。座席のヒーターが暖かすぎるから。




 違う、全部違う。隣に結人がいることが、当たり前じゃなくなるからだ。今までの日常が非日常に変わって、非日常だった結人のいない日々が、日常に変わっていくのだ。いつかわたしはそんな生活にも慣れて、このかばんに忍ばせた、わたしを支え続けたあの楽譜のことも忘れて、そうしてまた別の色に染まっていくのだろう。そう考えると、零れ落ちる涙を止めることはできなかった。結人はまた、何も言わなかった。代わりに少しごつごつとした男っぽい手がわたしの手の甲にそっと触れた。わたしの手はどうしようもなく震えていて、まるで発表会直前の幼いわたしのようで少し笑えた。熱い指先が冷え切ったわたしの指先を捕まえた。そっと絡め取られていっそう離れがたくなった。



「……っ、ごめん」
「……」
「ごめん……」
「そんなの、」



 “俺だって”。結人が言おうとした言葉は、気だるげな車内アナウンスと、すれ違った車両の音で掻き消された。それでも動く唇は、確かにそう動いたのだ。それが余計にわたしを切なくさせた。それと同時に、こうも思わせた。


 いつだってわたしは、結人に頼りっぱなしで、情けないと思いながらも結人の優しさに甘えていた、そして今だってそうだ。結人が言ってくれるのをずっと待っている。『行くな』と結人がひとことそう言えば、わたしはきっとこの町を出ていくことはない、絶対にだ。ピアニストを目指して死に物狂いで練習した日々も、苦汁を嘗めさせられたコンクールも、家族との大喧嘩も、何倍という受験を勝ち抜いた芸大のことだって全部全部忘れて、きっとこの町に残る。でもそれで何が残るのだろうか。わたしに残るのは、一時的でしかない安心感と、夢をあきらめた虚無感、そして絶望だけだ。一時の気持ちの揺らぎで、わたしは10年以上想い続けた夢を諦めるの?



「ごめん、わたし……行く」
「……なまえ」
「みんなの気持ちを無下にはできないよ……」



 最後にはそっと背中を押してくれた両親。わたしを大学の先生に紹介するために奔走してくれたピアノのおばあちゃん先生。コンクールでいないわたしを支えてくれた高校の友達。町角ですれ違う地元の人たちですら、わたしを応援してくれた。無理な夢だとは、誰も言わなかった、嗤わなかった。


 結人だって、こうして。



「嬉しかったんだ、わたし。みんなが自分の夢みたく応援してくれて」
「……そりゃそうだよ、なまえの夢はみんなの夢だから」
「……、夢は夢のままじゃ、ダメだよね」
「……」



 天秤にかけて持ち上がった方は、手放していかなくちゃいけない。でもそれを捨てていかなければいけないと、誰が決めたっていうの?わたしはわがままで欲ばりだから、全部が欲しいし捨てるつもりもさらさらない。この町で過ごした、懐かしい愛おしい日々も、新しい街で掴み取る輝かしい成功の日々も、全部たいせつなわたしだから。今はあの街を選ばなければいけないとき。それでもいつか、この町へ必ず取り戻しに来るから。だから、そっと置いて行こう。



「結人、」
「……うん」
「いってきます」
「いい知らせ、待ってる」





20120302


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