生きることとは、誰かの為に懸命になることだと思う。
人はいつか誰かのために、恥ずかしくない人間になりたいと、そう思うときが来る。世間体など関係なしに、純粋に。わたしにとってのその相手が亮で、本当によかったと感じられるようになったのは、この陽射しのためか、それとも。





「おかあさん、」
「なあに?」
「おとうさんの話ききたい」
「直接聞いたらいいじゃない」
「だって……」



 ソファに座るわたしの隣、足をぶらつかせながらごねる新の髪を撫でる。指通りのいい黒い髪はやっぱり亮に似ていて、我が強いところも少し似てきた。こうなってきたら話さずにはいられない。仕方ないな、と重い腰を上げた。こうして新に亮の話をするときには、その時々にあった昔の亮の試合を見ながら話す。昔の試合を見るのを、亮は少し嫌がる。直近にした試合は反省点を見出すために見るけれど、うんと昔の試合はヘタクソすぎて見ていられない、と言う。でも本当は、思い出に浸るようで嫌なのだということをわたしは知っている。今日はなんの話がいい?と聞きながら、DVDに目を通す。天皇杯、ナビスコカップ、たくさんの試合があるけれど、今日はどの試合だろう。



「ぼくが生まれたときの話」
「新が?」
「うん」
「……そうね」



 少し驚いて新を振り返った。新はソファから身を乗り出すように座っていて、興味津々といったような感じだった。この瞳にいつも丸め込まれる。新が生まれた5年前の、あの試合のビデオに手を伸ばす。これは本当に内緒でとってある、チームの広報さんがくれたDVDだ。もうずいぶんと大きくなった新を膝の上にのせ、ゆっくりとあの日のことを思い出した。



「新が生まれたのは何月だっけ?」
「11月!」
「そうね。赤ちゃんっていうのはね、お母さんのおなかに10ヶ月いなくちゃいけないの」
「10ヶ月?」
「でもね、新はお母さんのおなかから早く出たいよー、って言って、予定よりもずっと早く出てきちゃったの」
「それっていけないこと?」
「いけなくはないけれど……そうね、いろいろな準備ができないままで出てきてしまうことになるの」



 子供特有のどうして、なんでを上手くかわしながら、新の生まれた日のことをなるべくわかりやすく話す。新が生まれたのは予定日より2ヶ月も早い日だった。本当はシーズンが終わって、亮も落ち着いた頃に出産の予定だったのだけれど、シーズンも終盤の11月に産気づいたのだった。前日から何となくそわそわしたような落ち着かないような気持ちになって、おなかが張ってきたような気がした。でも前回の検診時も経過は良好と言われていたし、まさかと思っていた。自分に限って早産なんてことはあり得ないと思っていた。それに何より、次の日は亮が試合だったし、シーズンも終盤の大切な時期に余計な心配をかけたくなかった。



「新が生まれた日は、お父さんは大事な試合の日だったの」
「そうなの?」
「うん、ここで負けちゃうとチームが残留出来なくなっちゃうかも、っていう試合」



 翌朝、違和感、と言うには大きすぎる痛みを感じていたわたしは、平気なふりをして亮を送り出した。今思うとあの笑顔は、ちゃんと笑えていなかったのかもしれない。それからしばらくしてわたしは自力で病院へ向かった。そのときすでに、新は自分のからだの準備もまだ出来ていないのに、出てくる準備を始めていた。緊急入院、と言われ、すぐに手続きを始めた。そのときふと頭にもうすぐ試合の亮がよぎったけれど、チームに迷惑をかけるわけにはいかないと思って、母にしか連絡をしなかった。



「さみしくなかった?」
「そりゃあ、さみしかったよ。新が初めての赤ちゃんだから、怖かったし、それに新が元気に生まれてくれるかもわからなかった」



 そうして3時を過ぎる頃には破水をしてしまった。このままではおなかの赤ちゃんは感染症にかかってしまう可能性が高い。エコーの検査でこのまま出産しても命に関わることはないだろうとの判断で、外に出してしまった方がどちらにしてもよいと言うことだった。33週での緊急出産。不安はピークに達していた。



「でもね、こんなに早くにお母さんに会いたがっている子が、元気じゃないはずなんてないって思ったの」
「……」



 新は少し考えるような難しい顔をして(子供だというのにこういうところは一丁前に亮に似ているのだ)、テレビの中の少し若い亮を見た。



「ねえ、」
「なあに?」
「このときおとうさんは知ってたの?ぼくが生まれそうだったこと」
「知っていたよ。でもねお母さんは来ないで、って言ったの」
「なんで?」

 思わず母がかけてしまった電話、試合前のミーティングが終わったばかりの亮が出た。出なくてもよかったのに、と少し恨めしく思いながらも、なるべく不安が伝わらないように、努めて冷静に事の次第を説明した。それでもやっぱり不安が勝って、泣きそうになっているわたしの声を亮は聞き逃さなかった。何度も病院に行く、と亮は言ったけれど、それだけはしてほしくなかった。わたしの為にサッカーを、チームやサポーターを犠牲にしてほしくなかった。



「きっとね、お母さんはサッカーをしているお父さんが何よりも好きなの。だから試合に勝って、って言った」



 側にいてくれる以上の安心をくれると思った。これ以上話し続けると、泣いてしまいそうだったから、わざと明るい声を出して、心配するなら、バースデーゴールにしてあげて?と言って電話を切った。不安がなくなった訳じゃない、恐怖も、痛みも、すべてが未知の領域だ。それでもこの子を生かせるのは、確かにわたししかいなくて、この子を亮に会わせてあげられるのもまた、わたししかいなかった。



「お父さんね、きっと前半はいろんなことがぐるぐるしていて集中できてなかったと思うの、それでも後半にはしっかりお父さんの顔になっていたんだよ」
「……おとうさんのかお」



 しっかりした、父親の顔。女は少しずつ、手に取るようにわかる体の変化と共に、母親の顔になる。実感もないまま、突然父になるというのは、わたしにはよくわからないけれど、きっととても大変なこと。それでもしっかり受け入れて、わたしのお願いを叶えてくれた。



「そろそろ、かな」
「ん?」
「画面しっかり見ててね」



 一瞬、時が止まったようだった。膠着状態だった試合で、技巧派と呼ばれた亮がバイタルエリアから強引にミドルシュートを叩き込んだ。地鳴りのような歓声がスタジアムを巡った。瞬間、彼は高々と拳を突き上げた。新が生まれて、5分と経たないときだった。小さな小さな新は、その体からは想像のつかないほどの大きな産声を上げた、まるでわたしを安心させるかのように。試合が終わる、安堵の表情を浮かべ、天を仰ぐチームメイト。スタッフに呼ばれて駆け寄る亮が小さく画面の隅に見える。しばらくするとインタビューが始まった。



「インタビュー、始まるよ」
「うん……」

 新はもう画面に釘付けだった。集中しだすと周りが見えなくなるところも一緒。あんなにも小さかった新は、今はもう亮の面影をこんなにたくさん持っている。不安定なわたしは些細なことで泣きそうになる。今日は大切な日なのに。



「おかあさん、」
「?」



 新がわたしの膝に手を置いて、少し俯いた。今日の新はなんだか変だ。言い出そうにも言葉が詰まって、どうしたらいいのかわからないような新をそっと促すように、その小さな手に手を重ねた。まっすぐな瞳で新を捉えると、きゅっと手に力がこもるのを感じた。



「あのね、ぼくね、」
「うん」
「おとうさんと、けんかしたの」
「……うん」
「おとうさんなんかだいきらいって言っちゃった」
「そっか、」



 様子が変な原因はそれか、きっと亮のことだから、売り言葉に買い言葉でいらないことを言っちゃったんだろう。新は新で、シーズン中にはなかなかかまってもらえなかったし、シーズンが終わっても忙しい亮に、鬱憤がたまっていたんだろう。そんなこときっともう気にしてないよ、と言おうとすると、新はさえぎるように言った。少し照れくさいのか、テレビの中で仲間に祝福され、隠してはいるけれども少し涙まじりの5年前の亮を見ながら。



「でもね、おとうさんがぼくのおとうさんでよかった」
「……そっか、」



 こうして生きていくうちに、守るべきものはどんどん増えて、責任も増していく。時にはその重さに縛られて、身動きが取れない闇の中に紛れ込むこともあるだろう。それでもわたしは、誰かのために懸命になりたい。生きることに実直でありたいと思う。



「おかあさんもね、そう思うよ」




 柔らかな冬の陽射しは、徐々に色を変えていく。もうすぐ彼が帰ってくる。今シーズン最初の大仕事を終えて、冬の冷えたにおいを纏って。ただいま、よりも先にさみい、と小さくもらすのだろう。出来うる限りのもてなしで彼を迎え入れようと、新とわたし、そしてもうひとつの小さな命で精一杯準備をしよう。









20120122




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